久遠の空 肆萬打記念企画作品その1「組長の変節」

組長の変節



 梅雨である。

 恵みをもたらすはずの雨は、過分なほど激しく降り続いていた。
 今年の梅雨は一際長い。
 何日もこうではさすがに誰しも気が滅入る。

 巡察もいまいち身が入らないので、組長たちは組下の者のやる気をどう保つかに心を砕いていた。
 そのうちのひとつが稽古である。
 竹刀を振り回していれば多少は気も紛れるはずだ。
 いらいらとした気持ちを竹刀に乗せ、男たちは気合を入れた。
 が、湿気で滑る足元や場内に篭る汗の匂いで逆に不快指数は増すばかりであった。

 稽古が終わり、清三郎も汗を拭いながら皆と一緒に道場を出た。
 雨で冷えている外の空気が心地よかった。

 「神谷さあん」
 傘を差し、道場から出たところで後ろから声が掛けられた。
 「沖田先生、お疲れ様です」
 総司は梅雨などどこ吹く風、稽古ができた満足感で爽やかな笑顔になって話しかけてきた。
 「ちょっとこっちへ」
 そう言うと総司は清三郎をぐいぐいと引っ張って、奥の部屋へと連れて行った。


 「ちょっと濡れちゃいましたね」
 部屋の障子を閉めると、総司は懐から手拭いを出して清三郎の顔を拭いた。
 「せ、先生、自分で出来ますから」
 清三郎は総司の手を押しやり、自分の手拭いを取り出した。
 「じゃあ髪は私が拭きますね」
 総司は清三郎の後ろへ回り、結い上げられた髪を手に取ると、丁寧に拭き始めた。

 自分で手の届く範囲を拭きながら、総司の手が自分の髪を扱う感触に意識を向ける。
 稽古後できっと襟足などはほつれているに違いない。
 みっともないなあと清三郎は思った。


 「・・・神谷さん、あの」
 髪の水分を取る動きが止まり、おもむろに総司が口を開いた。
 「はい?」
 清三郎はくるっと後ろを向いた。



 「お馬はまだですか?」



 「・・・はい?」
 清三郎はきょとんとした。
 自分の耳に聞き間違いがなければ、今、目の前の組長は。


 お馬、つまり、生理はまだこないのかと聞いてきたのだ。


 「前の時からひと月経ちますよね、そろそろなんじゃないですか?」
 「ちょ、ちょちょちょちょちょっと待ってください先生、一体何だってそんなこと聞くんですか?!」
 いくら相手が天下一の野暮天だろうと、失礼にも程がある。
 清三郎の制止も当然だ。

 清三郎が顔を赤くして問うた後、総司ははた止まり、目をあさっての方向に泳がせた。
 「い、いえ、別に。そろそろなんじゃないかなあと思って・・・」

 嘘だ。
 絶対にそれは嘘だ。  清三郎の勘は頭の中で音を立てて警告を発した。
 「・・・何を考えているんですか?そんなこと、今まで一度も気にしたことなかったじゃないですか」
 じーっと、心の奥まで見通すような厳しい視線で清三郎は総司を睨みつけた。
 総司はその視線から逃げるように体の向きを変えた。
 それに合わせて清三郎は総司の前へ回り、口を割らせるような目で組長を見た。

 「まだならいいです」
 じゃあ、と総司は目を逸らして部屋を出て行った。
 ぱしんと障子が閉まる音だけが室内に響いた。
 (何、今の…)
 清三郎は呆然として組長の背中を見送った。



 雨がしとしとと降り続く数日後、清三郎にお馬がやってきた。
 総司は青い顔をしてゆっくりと歩く清三郎を里乃の家まで送り届け、正一を八木邸まで送ると言って去っていった。
 里乃は大小の背中を見送ると、家の戸を閉めて中に上がった。

 「おセイちゃん、どないしたん?」
 里乃は茶を淹れながら話しかけた。
 いつもよりしょんぼりしている清三郎と、どことなく浮き足立った総司。何かがおかしいと里乃は直感で思った。
 「聞いてよ里乃さん、実は・・・」
 青い顔をますます青くして、清三郎はここ何日かの総司の様子を語った。


 総司はお馬はまだかと聞いた日から、毎日何やら意味ありげな目で清三郎を見ていた。
 厠から帰ってくるたびに目で“お馬はまだですか”と聞いてきた。
 そしてついに清三郎がお馬になり休暇を申し出ると、待ってましたと言わんばかりに清三郎に支度をさせ、 里乃の家まで一緒に歩いてきたのだった。


 「何だかわかんないけど」
 ぐすり、と清三郎は鼻を鳴らした。
 「まるで私がいなくなるのを、よ、喜んでるみたいで」
 清三郎の大きな目に涙が湧き出し、透明なものがぽろりと零れ落ちた。
 「おセイちゃん」
 里乃はそっと清三郎を引き寄せて、頭を撫でた。
 毎日のように手入れしているのであろう、月代はきれいに剃られていた。


 「・・・沖田センセは他に何か言うてなかったん?」
 里乃は、清三郎の目から涙が止まったところで尋ねた。
 「わからない・・・」
 清三郎は唇を噛んで俯いた。
 「じゃあ、沖田センセは、おセイちゃんが居続けでいない間に何してはるん?」
 里乃は続けた。
 「それもわかんないけど、でも・・・」
 清三郎はぎゅっと膝の上の単をつかんだ。
 「わ、私がいない間にって言ったら・・・こ、小花さんのところに行くことぐらいしか」
 思い当たる節を口にすると、再び清三郎はぽたぽたと涙を落とし始めた。


 清三郎を宥めながら里乃は考えた。
 何度か総司が清三郎を送ってきたことはある。
 しかし今回ほど気もそぞろといった様子だったことはない。
 もし小花のもとに行くことが原因だとしたら・・・。


 「あ」
 里乃の、清三郎の頭を撫でる手が止まった。

 「わかった。わかったわおセイちゃん」

 ふふっと里乃は笑い、清三郎の肩をつかんだ。、
 「え・・・・?」
 「沖田センセがあんなにうきうきしていた理由、無理もおへんわ」
 ますます声に出して里乃は笑う。
 清三郎は不思議そうな顔で里乃を見上げた。

 「ほら立って、出かけよ」
 里乃は立ち上がると清三郎の手を引っ張って立たせた。
 「里乃さん?どこ行くの?」
 清三郎は問うた。
 「今から小花ちゃんとこ行こ、な」
 「えっ?」
 驚く清三郎に、里乃は片目をつぶった。



 島原の置屋、花屋。
 私室を持つ妓は限られているが、総司の敵娼である小花もそのひとりである。
 里乃が、かつて明里と名乗った彼女が山南に落籍されて見世を辞してからは、小花はそれまで以上に 芸を磨いて勤めに励んでいた。

 「ごめんやす」
 まだ昼見世が開いたばかりで、店の中は静まり返っている。
 そして奥からひどく甘ったるい香りが漂ってきた。
 里乃は見世の長い暖簾をくぐった。
 「はーい・・・あら、明里、いや、里乃やないの」
 見世の女主人が眼鏡をぐっと持ち上げて出てきた。
 「おかあはん、お久しゅう」
 里乃は丁寧に頭を下げて挨拶をした。
 清三郎は後ろからその背を見て、かつての明里を思い出した。いつも柔らかい物腰で応対し、 誰にでも礼儀正しく振舞う姿は今でも健在なのだと。

 「小花ちゃんおる?」
 里乃の言葉に清三郎ははっとした。
 「おるえ、今沖田はんを・・・」
 そして続く女主人の台詞にずきりと胸が痛んだ。

 やっぱり沖田先生は、小花さんのところに来てたんだ。

 清三郎は里乃の着物の背をぎゅっと握った。
 「里乃さんありがとう、もう帰ろう」
 ここに総司が居るのはわかった。何に浮かれた様子だったのかはこれ以上知りたくない。
 それだけで十分なのだと、清三郎は自分に言い聞かせた。

 「何言うてはるの、沖田センセに会っていくんやろ?おかあはん、小花ちゃんにちょっと会いたいんやけど」
 里乃は小花の禿(かむろ)を呼ぶように頼み、禿のみどりが出てくると部屋を訪れたい旨を伝えた。
 みどりはこくりと頷くと、小花の元に戻った。

 里乃と女主人は、里乃が見世を辞めた後のことなどを話していた。
 里乃についていた禿のおしずは今、別の太夫について修行中らしいが、相変わらずの毒舌で周りを振り回しているようとのことだった。
 そして里乃についていた客たちは、もう里乃の舞う「黒髪」が見られないことを残念がったが、身請けされたことに関しては祝福の言葉を口にしたそうだ。

 清三郎がそんな話を上の空で聞いていると、みどりがやって来て部屋に上がるように告げた。



 階段を上がる足が重い。
 その時、一際高い笑い声が聞こえてきた。
 小花のものだった。
 清三郎は笑う小花の隣にいる総司を見たら、一体どう反応したらいいのか考えられなかった。



 「小花ちゃん、邪魔するえ」
 「里乃姉さん、おいでやす。神谷はんもお久しぶりで・・・」
 左右に開け放たれた障子の向こうに、笑顔の小花が座っていた。


 清三郎は、小花のさらに向こうに広がる光景に目を丸くした。

 「里乃さん、こんにちわ・・・神谷さん、どうしたんです?」
 その様子を見て、小花の部屋に座り込んでいる総司は首を傾げた。



 小花の部屋には。
 色とりどりの菓子が所狭しと敷き詰められていた。
 饅頭もあり、羊羹もあり、練りきり、有平糖などもある。
 様々な色、大きさ、形の甘味がまるでどこかで買い占めてきたかのようにどやどやと並べられているのである。
 「これは・・・?」
 そしてむせかえるような甘い香り。
 先ほど見世に入ってきたときに漂ってきたのは、これらの菓子の匂いだったのだ。


 「嘉祥(かじょう)いう行事、知ってる?」
 里乃は菓子を脇へどけて、清三郎と自分が座れる場所を確保した。

 「足利はんの時代だったやろか、お武家はんたちが短い弓を打ち合って、負けたほうが嘉定通宝いう銭十六文で食べ物を贈ったそうや。 “嘉”と“通”から、“勝つ”に転じて、縁起のええ行事やったんやって」
 ゆったりとした動作で座りながら里乃は講釈を始めた。

 「それから、神君家康公が武田信玄と戦をした時に、八幡様で勝ちを祈って十六と鋳された嘉定通宝を拾って縁起を担がれて、家臣の大久保主水はんが菓子を 献上したんやて。それにちなんで水無月の十六日に家康公は幕府内で菓子をたくさん配る儀式を執り行ったんよ。今でも続いてるらしいで」
 清三郎は里乃の隣に自分も腰を下ろして静かに話を聞いた。

 「それを傾城町(遊郭)でも行うようになって、この見世でも毎年やってるんよ」
 そこまで言うと、里乃はにっこりと笑って小花に視線を預けた。
 「で、それを沖田はんに言うたら、ぜひ来てみたいと言わはって」
 小花は視線を受けて里乃の言葉を継いだ。

 そうだったんだ、それで。
 清三郎は総司の方へ向き直った。
 総司は相好を崩し、にへらと笑った。
 普段これだけの数の甘味を目にすることなどないだろう。まるで甘味の家にでも迷い込んだかのようだ。
 床一面に散りばめられる甘い菓子の行事の話を聞いて、総司が食いつかないわけがないのだ。

 「・・・もう、沖田先生ったら」
 清三郎はがっくりと脱力した。
 「甘味好きもほどほどになさったらいかがです?こんなにすごい量・・・」
 「いや、さすがに私も驚きましたよ」
 総司は頭を掻いた。
 「私もさっき上がってきたばかりなんですけど、部屋に入った瞬間これでしょう?思わず後じさってしまいました。それを小花さんが見て笑ってました」
 階段を上がってきたときに聞こえてきた小花の声がそうだったに違いない。
 「甘いものを見て沖田はんが後じさるなんて、滅多に見られるもんやおへんで。うち、笑てしまいました」
 小花もその瞬間を思い出したのか、ふふっと吹き出した。

 「そりゃあ笑うでしょうね」
 清三郎もその情景を想像して笑みを見せた。
 「ちょっと、そこは私の反応を笑うところじゃなくて、お菓子の見事さを驚くところでしょう?ひどいなあ」
 総司が不満そうに言い、正座を崩して手を後ろについた。
 「あら、嘉祥の儀は来年も見られるけど、沖田センセの驚く顔はもう今年しか見られへんもん。笑うわあ」
 里乃が合いの手を入れる。
 「えー・・・里乃さんまで?何か私、扱い悪くないですか?」
 総司は口を尖らせて周りを見た。
 清三郎の、里乃の、小花のしらけた視線が注がれている。

 「・・・ぷっ」
 堪えきれずに、清三郎が再び笑い出した。
 それにつられて他の二人も笑い出す。
 あーもう、敵わないなあと総司は天井を仰いだ。



 しばらく四人で四方山話をした後、里乃と清三郎は花屋を辞した。総司は仕舞いで頼んであるためまだ残るとのことだった。
 そのことは少し気になったが、清三郎は晴れ晴れとした気持ちで見世を出ることが出来た。

 「ありがとう、里乃さん」
 帰り道、清三郎は里乃にそう言った。
 「わかってすっきりしたよ。あー気分いいなあ」
 清三郎はぐぐっと腕を上げて伸びをした。
 「そう?よかったわあ」
 里乃はにこりと笑った。

 まった現金やなあ、沖田センセのこととなるとすぐこれや。
 でも、そこがおセイちゃんらしい言うたららしいんやけど。

 里乃は心なしか顔色まで良くなったような清三郎の横顔を見ながら、甘味にあれだけ振り回されている男が相手では、 この妹のように思っている彼女の前途はまだまだ多難だと苦笑いした。


 雨はいつの間にか上がっていた。




 三日後、休暇が終わった清三郎は里乃の家を出た。
 すっかり血の道も治まり、もう隊務に何の支障もない。
 また鬼の棲家での過酷な日々が始まるのだと清三郎は気を引き締めながら歩いた。


 小道の角を曲がったところで、総司に出会った。
 「お、沖田先生?」
 「神谷さん、今あなたを迎えに行くところだったんですよ。会えてよかった」
 驚く清三郎に、総司は笑いかけた。


 二人でてくてくと屯所までの道を歩いた。
 空はどんよりと曇り、雨が降るとも降らぬともつかない模様である。
 道端には紫陽花が連なり、緑の葉を大きく広げ、その先端に大きな萼(がく)を開いていた。

 「沖田先生」
 清三郎はふと総司に話しかけた。
 「嘉祥の儀があるからって言えばよかったのに、どうして私が居なくなるのを待って小花さんのところに行ったんですか?」
 なぜ総司が自分のお馬の前にそわそわとしていたのかは分かったが、きちんと理由を言って出かければよかっただけの話のような気もする。
 それがどうしてなのか、清三郎はこの三日間、心の端に引っかかったままだった。


 「・・・どうしてなんでしょうねえ」


 しばし考え込んだ後、当の本人もうーんと首を捻った。
 「え?」
 「言われてみればそうなんですけど。一言あなたに断って花屋さんへ行けばよかったんですよね」
 珍しく眉間にしわを寄せながら、総司は訝った。


 「何か・・・神谷さんが屯所に居る間には行きたくないような気がして・・・」


 ぽつりと、雨が落ちてきた。


 「嘉祥の期限が迫っていたからですかね?あ、それでもあなたに言っていけばいいだけだったんですよね。どうしてなんでしょう」
 わからないなあ、と総司は腕を組んだ。


 ぽつりぱたりと、雨は続けて落ちてくる。


 「あなたが居る間に小花さんのところへ行くのが、何だか・・・どう言ったらいいのかわからないけれど、こう、もやもやすると言うか・・・」
 自分の感情を適切に言葉に出来ない。
 総司は目と目の間を人差し指でぐいぐいと押した。

 「・・・むつかしいこと考えるの、止めていいですかね?」

 指を頭から離すと、総司はばつが悪そうに笑った。


 その行動をひと通り見て、清三郎もまた訝しげに眉を寄せた。
 総司が何を言いたいのかさっぱりわからない。

 「いいですよ、もう・・・」
 ハァと清三郎はため息をついた。
 「先生のおっしゃることが私にも良く分かりません。もういいです」
 仕方なさそうに清三郎も笑みを見せた。


 ついに雨がざあっと音を立てて降ってきた。
 「あ、屯所までもう少しなのに!」
 先に見える角を曲がればそこに門が見える距離まで来ているのに。
 清三郎は恨めしげに空を見上げた。


 「急ぎましょう、神谷さん」
 総司はそう言うと羽織を脱ぎ、ふわりと広げた。
 「たいして雨がしのげるとは思えませんが、多少はましでしょう?」
 傘の代わりにもならない羽織の幕が、二人の頭上に広げられた。

 「・・・ありがとうございます、じゃあ、走りますか!」
 里乃が持たせてくれた着替えやお馬の予備を包んだ風呂敷を抱え、清三郎は目をきらめかせた。
 「ええ、行きましょう!」
 総司の掛け声で、二人は同じ速度で駆け出した。



 雨が紫陽花の萼を、葉を優しく揺らす。
 打たれれば打たれるほど、紫陽花は雨によって輝く。
 その姿はまるで、京師でなかなか受け入れられない逆境の中でなお強く生きていく彼らのようで。


 静かな雨にその身を濡らしながらも笑い、二人は屯所へと駆け込んでいった。



参考文献:
『暮らしの歳時記 お茶と和菓子の十二ヶ月』 鳥越美希 ピエ・ブックス 2007年
とらやホームページ 歴史上の人物と和菓子 「徳川家康と嘉祥」