暦の上では春とは言え、まだまだ寒い空気の中、歳三は高幡不動の前に立っていた。
文久元年十一月、歳三は病に倒れた。
表向きは行商に出て、遠く上方まで足を運んでいることになっていた。
そう言ったのは日野の名主である佐藤彦五郎だったので、彼の言葉を疑う者は誰もいなかった。
しかしその真相は労咳であった。
熱が出て咳が止まらず血を吐く。食べ物を受け付けず、床に臥しているのも辛い。
みるみるうちに痩せ細り、死相が顔を覆う。
生きる気力も奪われて、そっと一筋の涙を零した。
だがその時、彼の命を光が照らし、死の淵に沈みかけた歳三は引き摺り上げられた。
絶対安静のまま年が明けたが、歳三の家族は吐く息が寒さに白く染まることを喜んだ。
その色は命の証であった。
やがて床上げし、座って食事を摂り、庭を歩けるようになった。
彦五郎の妻で自分の姉ののぶに言われてだが、はたきをかけたり廊下を拭いたりと手伝いをするようになった。
さらに佐藤家で飼っている鶏の世話などをしているうちに足腰の筋肉に力が戻ってきて、いつもどおりの生活を送ることが可能になった。
三月は安静と言われた期日が過ぎた頃、歳三は小島鹿之助の元を訪れた。
多摩郡小野路村の寄場名主であった鹿之助は、天然理心流を通じて彦五郎と近藤勇と三人で義兄弟の契りを結ぶまでに至っていた。
彦五郎の妻は自分の姉であるし、さらに彦五郎の父の連れも歳三の父の姉妹である。
そんな数々のしがらみは歳三をも巻き込み、交流の対象となっていた。
客間に通され、長い間の無沙汰を詫びた。
鹿之助は歳三の訪問をとても喜び、酒を振舞った。もしかすると鹿之助辺りには歳三の病のことが知らされていたのかもしれない。
歳三はそんなに飲めるわけではなかったが、久しぶりの酒だったし鹿之助の酌とあらば断りたくもなかった。
のぶが病み上がりなのにと説教をする姿がちらりと脳裏を掠めたが、歳三は杯を受けた。
案の定、飲みすぎた。
歳三は酔いを醒ましてから帰ろうと思い、すぐに佐藤家へは戻らず寄り道をすることにした。
ふらふらと、暗くなりゆく道を歩く。
月は空に細く輝き、金色とも白銀とも形容できる光を放っている。
歳三は最初の奉公先で番頭と大喧嘩をして店を飛び出し、府内からひとりで帰ってきた時の事を思い出した。
あの時もこんな風にだんだんと闇を濃くしていく風景を見ながら歩いたなと思い、くっと笑いが漏れる。
ふと空を見上げれば烏が夜の入り口を告げながら西へと飛んでいくのが見えた。
歳三はその声に合わせるようにおどけた様な仕草で足を動かし、手にした枯れ草を軽く振りながら歩いた。
そして気がつくと歳三は高幡不動の前に立っていたのである。
帰り道ではある。
快癒のお礼参りにも来なければならないとも思っていた。
ちょうどいいので歳三は拝んでいくことにした。
左右に仁王像を配した門をくぐり、不動堂の前に立った。
懐を探って財布を取り出したが、中身が入っていなかった。
もともと大して入っていなかったが、きっとのぶ辺りが歳三が出歩いても遊べないように中身を抜いたのだろう。
苦笑いしながら歳三は賽銭箱の前で手を合わせた。
治ってよかった。
これでまた剣の道を歩ける。
死病に冒されて極楽の夢を見たが、本当の極楽は現実に存在する試衛館にある。
そこに戻ってくることが出来て、本当によかった。
歳三は口元を緩めた。
「トシー!」
と、その時彼を呼ぶ声がした。
歳三はその声に振り向いた。
「・・・かっちゃん」
勇だった。
勇は同じように門をくぐって、こちらに向かってゆっくりと歩いてきた。
「どうしたんだかっちゃん、こんなとこで」
歳三は驚いた。
なぜ試衛館で稽古をつけているはずの勇がここにいるのか。
「今度宗次郎を代稽古にやるから、彦五郎さんのところに挨拶に来たんだ」
そう言うと勇は肩越しに後ろを見た。
門の向こうに宗次郎の姿が現れた。
「こんばんわ歳三さん、お久しぶりですね。行商はいかがでしたか?」
「・・・まあまあだ」
しらばっくれて歳三は答えた。
病気から回復してから宗次郎に会うのは初めてだった。
三月ほど見ない間にまた体がしっかりしてきたような気がする。
幼い頃から散々からかってきたが、この前自分が負けて以来、宗次郎の勢いと才能が眩しい。
トシだって充分に強いさと勇は言うが、宗次郎と自分は次元が違うような気がする。
「おのぶさんが、たぶんここだろうっておっしゃってましたよ」
歳三の隣に並んで、宗次郎は言った。
「鹿之助さんのところで飲んで酔っ払って、酔いを醒まそうとしてうろうろするならお不動様だろうって」
お財布も空にしておいたから遊ぶこともできないはずよとのぶは言ったのだそうだ。
歳三はばつが悪そうに笑った。やはりのぶにはお見通しだったのである。
「そう言えばトシ、お前、よくこの門に登ってたよな」
勇が思い出したように言い出した。
「あ、ああ。かっちゃん、よくそんなの覚えてたな」
小さい頃、仁王の鎮座する門に度々登って、中に巣を作っている鳩の卵を上から参拝客に投げつけるという遊びをよくしていた。
今考えればとんでもないことだが、あの頃は門に登って高い所から見下ろすあの感覚が好きだった。
鳩の卵を投げつけるのも子ども心には悪いものだという認識もなかった。大人が困った顔をするのは面白かったし、むしろ鳩が増えて困っていると住職が
言っているのを小耳に挟んでいたので、助けになると思っていたぐらいだ。
「あはは、お仁王様の頭上に場所を取るなんて、歳三さんはやっぱりバラガキだったんですねえ」
宗次郎が腹を抱えて笑い出した。
「うるせえな」
歳三は宗次郎を小突いた。
「・・・でも、もう登れないですよねさすがに」
自分たちはもう子どもじゃない。常識や最低限の礼儀は心得ている年頃なのだと言う意味を込めて宗次郎は言った。
「何だと」
歳三はぎろりと宗次郎を睨んだ。
「こちとら幾つになってようが病み上がりだろうが、こんな門登るぐれえお茶の子なんだよ」
どうやら登るのが可能か不可能かの意味に解釈したらしい。
「えっ、と、歳三さん?」
宗次郎が驚く横で歳三はぺっと唾を手に吐きかけると、するすると門を登っていった。
「あーあ・・・」
宗次郎は薄闇の中で門を登る影を見上げた。
「ははは」
勇は楽しそうに笑った。
歳三はあっという間に上まで登り、高欄、いわゆる手摺に持たれて二人を得意げに見下ろした。
「笑ってる場合じゃないですよ、あの人何してんだか、もう」
宗次郎は勇の袖を掴み、歳三を指差した。
「面白いじゃないか、俺も登る」
「ええっ?」
勇は困り顔の宗次郎の手を袖から離すと、自分も歳三が登った後を辿りだした。
「先生・・・」
もし見回りの僧でも来たらどうするのだろう。
宗次郎ははらはらしながら近藤の後姿を見守った。
「よっ・・・と」
勇は高欄に足を掛けて、歳三の横に腰を下ろした。
「・・・いい眺めだろ」
歳三は勇が登ってきたことに少々驚いた様子だったが、にっと笑っていたずらな表情を見せた。
「ああ、いいな」
近藤もガキ大将をやっていた頃のように笑顔になった。
すでに遠い景色は漆黒に染まり、僅かに夕日が山の端を照らすばかりになっている。
その闇の中に満開になった梅の花が残照を受けてぼんやりと白い光を放っていた。
登らなければ見られない光景に勇は溜息をついた。
「お前が登りたがった意味がわかるような気がするよ」
「よせやい」
二人は顔を見合わせて笑った。
「あ」
歳三がふと声を発した。
「?」
勇が訝った。
「一句浮かんだ。かっちゃん、矢立持ってねえか」
歳三は勇の方をぐるりと向いて聞いてきた。
「あ、すまん、持ってない」
一応懐を探ってから勇は言った。
「ええ?忘れちまうよ、書かねえと」
歳三は忙しく自分の太もも辺りをぴしぴしと叩いた。
「お前こそ持ってないのか、発句が趣味の癖に」
勇が指摘した。
「今日は余計なもん持ってきてねえんだよ」
歳三は眉を顰めた。
「先生、歳三さん、誰か来ましたよ!」
上でぎゃあぎゃあとわめく二人に、宗次郎の声が届いた。
「・・・!お前らそこで何をしている!」
頭を丸めた墨染めの姿が、門の上を見やる宗次郎の視線をたどって勇と歳三に行き着いた。
宗次郎が心配したとおり、見回りの僧がやって来たのだ。
「やべえ、見つかった!かっちゃん、飛び降りろ!」
歳三は素早く高欄の向こうに身を乗り出した。
「あ、ああ」
勇もそれに続いた。
「ソージ!」
歳三が上から怒鳴りつけ、逃げるように手で合図した。
宗次郎はそれを見ると駆け出して門の外へ出た。
後ろから、待てと言う声と追いかけてくる足音が聞こえてきた。
二人は大丈夫だろうかと宗次郎は勇と歳三を見上げた。
「わっ、馬鹿野郎、そこで止まんな!」
歳三は飛び降りるつもりだった地点に宗次郎が足を止めたので、自分も飛び降りるのを一瞬躊躇した。
「おわっ、トシ!」
その後ろから続けて飛ぼうとした勇が勢いを止めきれずに歳三の背にぶつかった。
「えっ」
ぐらりと歳三は体を傾けた。
「あ」
勇と歳三は重力に従って落下した。
「「「わっ!」」」
様子を見上げていた宗次郎の上に二人は落ちた。
「いった〜・・・」
「すまん宗次郎、大丈夫か?」
「二人とも何暢気なこと言ってんだ、逃げんぞ!」
歳三はいち早く身を起こして駆け出そうとした。
が、その首元に警策がすいと当てられるのを感じた。
ゆるゆると歳三が、普段は座禅の時にしか見たことのない警策を持つ手を見上げると、口元を引きつらせた僧が三人を見下ろしていた。
「今日は寄り道しないで帰ってくるのよ歳三」
「ああ」
翌日の早朝、のぶの見送りを受けて歳三は家を出た。
ゆうべはお不動様の僧に捕まえられ、たっぷり説教をくらってから三人して佐藤家へと戻った。
事の次第を聞いたのぶは僧よりも長い説教をかまし、あまりの剣幕に夫の彦五郎も長兄の為二郎も次兄の大作も苦笑いをするほどだった。
朝になって、勇は江戸へと戻り、宗次郎は佐藤家の庭にある剣術道場で稽古をつけ始めた。
歳三は病を患っている間に訪ねてきてくれた、彼の書道の師でもあり医者でもある本田覚庵の元へと出かけていった。
「もう、本当にしょうがないんだからあの子ったら」
のぶは歳三を見送ると家の中に入ってきた。
「ははは、元気になった途端に厳しいな、のぶは」
彦五郎はそう言って笑みを浮かべた。
「あなたったら・・・あなた歳三に甘すぎなんですよ」
のぶはぷうっと頬を膨らませた。
「まあいいじゃないか。本復して嬉しいのはお前も同じだろ。兄姉の中で一番泣いてたのはお前じゃねえか」
大作がからかいまじりに言った。
「大作兄さんまで、もう」
のぶはますます膨れ顔をした。
「しかし・・・あいつは本当に豊玉だよ」
為二郎は目の見えぬ身でありながらまるで見えているかのような手付きで茶碗を取った。
「え?」
のぶが急須を手に取りながら聞いた。
「豊玉って、兄貴がつけた歳三の雅号だろ?」
大作が続けた。
「ああ、そうだ」
為二郎は横になっているだけで暇そうな歳三に句作を進め、雅号までつけたのである。
「あいつの句を読んだが、たいした腕にゃならなそうだぜ兄貴」
くつくつと大作が笑う。
「まあそう言うなよ」
為二郎も笑いを交えた声で答えた。
「歳三が本当に豊玉ってどういうことなの兄さん」
のぶが茶碗にお代わりを注ぎながら言った。
「・・・豊玉の読みは、宝玉、つまり宝の玉に通じるんだよ」
為二郎は腕を組んだ。
「えっ」
「ああ・・・」
大作とのぶは驚き、彦五郎は大きく頷いた。
「あいつは土方家の大事な宝だ。だからあいつの雅号にしたんだが、そのままじゃあいつは照れて嫌がるだろう?」
だから文字を変えて歳三に与えたのだ、勿論歳三の諱である義豊にも引っ掛けてあるがねと、得意そうに為二郎は言った。
「そういう意味があったの・・・」
のぶが感嘆の声を上げた。
「ああ、いいだろう?」
為二郎は少しばかり胸を反らした。
「さすがにしゃれてんな、閑山亭石翆様よ」
大作が降参したように手を振った。
号で呼ばれ、為二郎はふと笑って肩を揺すった。
こうして歳三は様々な人たちに愛され、大事にされてきた。
大事な宝として。
その彼が仲間と共に上洛し、新選組の副長として采配を振るって活躍するのは、この約一年後である。
『知れば知るほど面白い人物歴史丸ごとガイド 土方歳三』 藤堂利寿 学研 2004年