人生は、奇跡の詩。それは冷たく晴れ渡る午後のことだった。 「神谷さん、お汁粉! お汁粉食べに行きましょう、寒いから」 総司が軽い足取りで清三郎の元を訪れた。清三郎はこの寒さで乾かない長着に火熨斗をあてていた。 「いいですよ、あとちょっとで終わるから待ってていただけるなら」 清三郎は火熨斗をぎゅっと布に押しあてた。しんなりしていた布がぴしりと伸び、着るのに恥ずかしくない様子に整っていく。 「ええ、わかりました。でも早くしてくださいね」 すとんと総司は清三郎の隣に座った。 清三郎はすっすっと手早く火熨斗をかけていく。 総司はその手つきを眺めながらにこにこにこと笑う。すでに心はお汁粉にあるようだ。 そのうち総司の手がとんとんと膝を打ち出した。 そしてその膝がゆさゆさと動き出し、体が左右にゆれ始めた。 視界の端でちらちらと黒い影が動くのはわかっていたが、清三郎は知らん振りをして火熨斗を動かし続けた。 「か、神谷さあん…」 待ちきれないといった口調で総司が声を上げた。 清三郎は手を止めて総司を見遣った。もうよだれが出そうなぐらいに口元が緩んでいる。 「…もう」 そんな総司の表情を見たら、もう他のことなどやっていれられない。 清三郎は立ち上がると火熨斗に入れた炭を片付けに台所へ向かった。 半刻後、総司と清三郎は、四条通にある小さな甘味に入った。頼むのはもちろんお汁粉である。 注文してから席に届くまで、総司はそわそわしっぱなしだった。 店内にはすでに他の客が注文した甘味の香りが充満しており、総司は早く食べたい気持ちでいっぱいだった。 その様子に清三郎は苦笑する。 ほかほかと湯気を上げるお汁粉が運ばれてくると、総司はいただきますと頭を下げ、ぱくぱくと食べ始めた。 すぐにお代わりを複数注文し、清三郎がゆっくりと食べている正面で無心になって匙を動かしていた。 五杯ほど食べたところで総司はやっと顔を上げた。 ふー、と満足げに息を吐くと、清三郎が笑いながら総司を見ているのに気がついた。 「神谷さん、何か?」 総司が首を傾げて問う。 「いーえ、いつもの先生だなって思って」 清三郎はぷっと噴き出した。 「ところで先生は、いつからこんなに甘味がお好きなんですか?」 匙を椀の内側に立てかけ、清三郎が聞いた。 この人の甘味好きは尋常ではない。総司の血が砂糖水で出来ていると言われても疑う余地がないほどだ。一体いつからなのだろう。 「あ、ああ…あれは、まだ私が九つの時だったかな…」 少しばかり考え込んだ後、総司はふっと口元に笑みを浮かべて語りだした。 沖田の家を出されて天然理心流の試衛館に下働きとして入った翌日。 最初は鬼に見えた近藤が自分を優しく迎えてくれたが、ひとり暗い納戸で寝かされて。 起きるとすぐに働かされて、追い立てられて何ひとつわからないうちに怒られて。 近藤の竹刀による剣戟に憧れて、早く教わりたいと思えども、許されず。 ついには頬をはたかれて、家を飛び出してしまった。 母も姉も義兄も、自分を捨てた。 もらわれた先では厳しくされて、どうしたらいいのか考える暇も与えられなくて、怖いだけ。 幼少の総司にはただ耐えられなかった。 そこへ近藤が追いかけてきて、自分を捕まえてくれた。 手を引かれて試衛館へと戻る道筋に、近藤は静かに諭してくれた。 逃げ出すのは、武士が最も恥ずべきことなのだと。 小さな自分に武士の道たるものを、近藤は教えてくれた。 その帰り道に「義母さんには内緒だぞ」と言って、近藤が大福をおごってくれた。 人生で初めての甘味だった。 粉で化粧をした、白くつるつるの美しい餅。 それに包まれた食べたことのないほどなめらかな餡。 ちびってしまった尻が冷たかったが、そんなことは気にならないほどの美味さだった。 尊敬する近藤と、己の進むべき武士道、そして心を甘く溶かす甘味。 茜色に染まったあの帰り道は、総司にとって生涯忘れることのない風景だ。 「へーえ…」 清三郎は総司の語る光景を思い描きながら頷いた。 あの局長と幼い頃の総司の間に、そんな思い出があったとは。 「それから時々近藤先生は、おかみさんの目を盗んでは私に甘い物をご馳走してくれました。季節折々に出るお菓子に よく舌鼓を打ったものです」 総司は記憶の中の光景に顔を綻ばせた。 「じゃあ何が一番おいしかったですか?」 清三郎が茶を一口飲んで聞いた。 「そうですねえ…どれも捨てがたいけれども…あ、やっぱりあれですかね」 今まで食べた甘味を頭の中で総ざらいして、総司はその中から特別なひとつを取り出した。 「桜餅ですよ」 「さくらもち?」 「ええ」 総司は遠い記憶に視線を向けた。 「実は土方さんと打ち合っている時に骨折してしまいましてね、痛かったなあ…。子どもだからすぐに治ったんですけど、 近藤先生が快癒のお礼参りに八幡様へ連れて行ってくださったんです。その時に土方さんが私のために、防具と竹刀を誂えてくれたのをくれましてね」 八幡様の境内にある狛犬の下で、荷物を背負った土方が自分の手を引いてくれた。 そして道場へ向かうと、宗家である近藤周斎に直訴して自分の剣の筋を見てくれるように土下座して頼んでくれた。 当然勝てはせず、お栄にもなじられたが、全ては丸く収まった。 怪我が治り、近藤が師範の天然理心流の門人になることが出来、土方に防具も竹刀も新品を揃えてもらい、お栄との確執も薄れて。その後に食べた、土産に買ってきた 桜餅の味が格別であったことは言うまでもない。 「本当に、幸せの味でしたよ、あれは」 頬杖をつきながらうっとりと温かな過去に埋没した総司は、とびきりの笑顔を清三郎に向けた。 が、清三郎は総司を白い目でじーっと睨みつけていた。 「神谷さん?」 「その日、私もいたんですけど?」 そう言って清三郎は口を尖らせた。 「え?」 「八幡様の桜の花見の時、迷子になって一緒に狛犬のところに」 ぷいっと清三郎は横を向いた。 総司はややあってからあっと思い出した。 そう、降るような満開の桜の木の下で、互いに近藤や兄とはぐれて、あの時初めてふたりは出会ったのだ。 「あ、そうか、そうでしたよね、そうでした…」 総司は頭を掻きながら匙でくるくると汁粉をかき回した。 「別にいいですよ、局長と副長のことが大大大好きな先生のことですもの、私のことなんかどうでも」 総司がどれほど近藤や土方を慕っているか、生育の過程でどれほど影響を与えてきたのか、清三郎は今までたくさん聞かされてきた。 だからその中に点としてしか自分が存在していなくても納得できる。 でも、清三郎は少し悔しかった。 あの日の出会いは干支一回りを過ぎた今に繋がっており、再会は奇跡であると思っていたのに。 「すみません…」 「だから別にいいって言ってるじゃないですか、忘れたって当然です」 総司のしおらしい態度に、清三郎も引っ込みがつかなくなった。 普段から野暮天のこの男に、少しは灸を据えたいといつも思っていたからだ。 「忘れるわけがないじゃないですか」 総司は匙を置いて、手を伸ばした。 大きな両手が清三郎の頬を包み、そっと前を向かせた。 清三郎は仕方がない振りをして総司と目を合わせた。 その目が余りにも真剣で、清三郎はどきりとした。 「“大人になったら、泣かないで公方様のお役に立つ” …あの時、神谷さんはそう言いましたよね」 総司の言葉に清三郎ははっとする。 自分で幼い頃に考え出した座右の銘。 泣き虫で仕方がなかった理由を考えていたら、ぽっと頭に浮かんだその言葉。 「あれ以来、私にとってもこの言葉は座右の銘なんです」 この言葉をどれだけ心の支えにしてやってきただろう。思うように剣の腕前が伸びなかった時、確執が薄れたとは言っても相変わらず お栄に厳しい言葉を投げかけられた時。その度に思い出しては自分に喝を入れてきた。 「沖田先生…」 「今まで言う機会がなかったですけど…」 目元を和らげて総司は言った。 「ありがとう、神谷さん」 この言葉を、私にくれて。 「せ、先生」 「本当に感謝してますよ、心から。…十二年前からね」 「先生…」 赤くなった清三郎は恥ずかしくて顔を背けたいが、総司が頬を未だに包んでいる。 「…じゃ、じゃあ今日は先生のおごりですよ」 清三郎は総司の手を掴んで、自分の顔から離した。 「ええ、いいですよ」 にっこりと総司は笑う。 「春が来たら、桜餅、食べましょうね」 会計を済ませてふたりは店を出た。 「京の桜餅はちょっと違うんですよねえ、江戸のものと。おいしいんですけど」 総司は冷たい空気を胸いっぱいに吸い込みながら言った。 京の桜餅は道明寺粉で出来ており、饅頭のように餡を丸く包んで桜の葉で包んだ物である、一方、江戸の桜餅は小麦粉を練って焼いた皮で 餡を包み、桜の葉で巻いてある。 「神谷さん、江戸風の桜餅を作ってくれませんか?」 「いいですよ、春になったらね」 「やった。お願いしますよ、本当に」 総司が嬉しそうに相好を崩す。 甘味のことになるとこれだから、と清三郎は思ったが、これでこそ沖田総司であるとも思い、笑った。 春が来たら。 互いにその約束を胸に秘め、突き抜けるような冬の高い空の下を、総司と清三郎は歩いていった。 |