久遠の空 陸萬打リクエストその3 サーキットの狼たち番外編 マネー・ピット

サーキットの狼たち番外編 マネー・ピット



 「何だって?」
 近藤は電話の受話器を耳に当てたまま勢いよく立ち上がった。椅子が大きく揺れ、机の上のコーヒーカップの縁から中身が零れる。
 「いや、し、しかし…そうか…」
 だんだんと声は小さくなり、レースで鍛えた逞しい背中が丸まる。
 「…わかった、マスコミには君たちが発表するまで黙っておく。気を落とすなよ。…それじゃあ、また連絡する」
 近藤は電話をそっと切ると、深く深くため息をついた。
 「どうした近藤さん」
 土方はオフィスのソファに身を沈め、書類をめくりながら近藤に聞いた。
 「…フォンダが、撤退だと」
 近藤が短く言葉を漏らした。土方は紙をめくる手を止めた。
 「そうか」
 「辛いだろうな…」
 近藤は顔に苦渋を滲ませた。
 「フォンダは最近一般車の売り上げも落ちてたし、株価も下り坂だったもんな。当然道楽なんざやってらんねえだろう」
 土方は再び書類に目を落とし、ページを進めた。
 「道楽とは何だ道楽とは。開発と言え」
 荒々しい足音を立ててソファに近づいてきた近藤は、どっかりと腰を下ろした。革張りの表面がたわみ、柔らかく近藤を受け止めた。
 「外から見りゃあ自動車レースなんてそんなもんだ。俺たちがいくら真剣にやっててもな」
 土方がすっかり冷め切ってしまったコーヒーを口に運ぶ。
 「…撤退か…」
 近藤は天井を仰いだ。
 「長い間レースにかかわってきたんだ、世間様もびっくりするだろうよ」
 「そうだな」
 二人は視線を合わせると、同時にふーっと息を吐いた。
 「俺たちにもヒトゴトじゃねえってこった」
 「ああ」
 そして窓の外に目をやった。冬の冷たい風に洗われた青い空が、白い雲を従えていた。



 フォンダは日本国内有数のクルマメーカーである。モータースポーツにも積極的に参加し、創業翌年から日米対抗レースに出場。その後もオートバイの ロードレース世界選手権で優勝、F1にエンジンサプライヤー(エンジンを供給する)として参加し、別会社との車体の共同開発を経てついに単独チーム “フォンダ・レーシング・F1チーム”として参戦、Mibroが参加するまで長く活躍していた。しかし近年勝利に恵まれず、世界的な景気の減速もあって 一般車の販売は国内外を問わず伸び悩み、収益は大幅に減収。ついにはF1への参戦をとりやめるまでになってしまったのである。
 F1は莫大な開発費のかかるスポーツである。サーキットという名の戦場に、レーシングカーという名の戦闘機を送り出す。毎年厳しいレギュレーションが 追加され、チームはその規制の中で世界一速いマシンを組み上げる。より速く走るための最先端の技術、最先端の素材。それらを駆使するためには金がいくら あっても足りない。フォンダは会社の収益の極端な落ち込みにより、F1に参戦する力を、金を、失ってしまったのである。

 だが近藤たちにとってフォンダに起きたことは対岸の火事ではない。彼らが所属するMibroレーシングの親会社であるクロタニにも不況の波は 確実に押し寄せていた。フォンダと同じく一般車の販売台数は減少し、工場の稼働時間も削らざるを得なくなっていた。しかしクロタニの会長であり Mibroのオーナーである松平容保は「レース参加を続行し、クルマ業界に夢をもらたし続ける」と発言し、チーム存続を世間にアピールした。
 もちろん現場にも開発費の削減が言い渡され、努力目標が定められた。資金は無限に必要だが、金は無限に沸いてくるものではない。いつか再び訪れる 好況を信じ、今はオーナー以下社員全員が耐え忍ぶ時なのである。

 「失礼しまーす」
 間延びした声で近藤の部屋に沖田たちが入ってきた。
 「やあ総司、お疲れ」
 近藤が顔を上げて笑顔を作った。
 「あー本当に疲れましたよ。CM撮影って何であんなに疲れるのかなー」
 沖田はコキコキと首を鳴らした。
 「無理に笑おうとするからだ」
 沖田の後ろから斉藤がぼそりと言った。
 「斉藤先輩は笑わなさすぎだと思いますけど…」
 斉藤の横でセイが突っ込んだ。
 「聞いてくださいよ監督、斉藤先輩があまりにも笑わないもんだから企業の人が困っちゃって、コマーシャルの内容を変更することになっちゃったんですよ」
 神谷は近藤の後ろに回り込んで背もたれに手をかけた。
 「そうなのかい?」
 近藤は苦笑いをした。
 「何か悪いか? 撮影は無事に終了したが」
 斉藤は平然とした顔で言う。
 「相手が変更していいっつったなら問題ねえだろ」
 土方は書類の束を机の上でとんとんと揃えながら沖田たち三人を見遣った。

 チームが資金を獲得するためには親会社の収入だけに頼ってはいられない。マシンの開発費、工場の維持費、人件費、移動費などで年間50億円とも60億円とも 言われる必要経費を賄うためには、ドライバーたちも一役買わねばならない。様々な企業の広告塔となり、コマーシャルに出て出演料を稼ぐのである。
 今季もドライバー、コンストラクター両方の優勝を手にしたMibroには、幸いにも多くの企業がスポンサーとして名乗りを上げていた。資金を提供する 代わりに自社のロゴ入りのステッカーを車体やドライバーのヘルメットやレーシングスーツに貼り、ドライバーたちにはコマーシャルに出演してもらって 企業イメージを高める。暗い話題が多い昨今、Mibroの存在は日本国内に明るい材料だ。それを企業が見逃すわけがない。

 しかし不況の波は社会全体に蔓延しているので、企業も大盤振る舞いと言う訳にはいかない。バブルの時の様に法外なほどの金額を提供してくれることは なくなった。
 土方はレースのマネジメントを第一にしながらも、資金提供の問題にも気を配っていた。どうしたらMibroに少しでも多くの開発費をもたらすことが 出来るのか、常に考えをめぐらせていた。

 「ご苦労だったな。お前ら今日はもうスケジュールねえだろ、トレーニングに行って上がりでいいぞ。明日はマシンのテストだから忘れるな」
 土方は書類を机の上に放り投げ、煙草のパッケージを手に取った。
 「余計な気苦労して疲れましたよ。これでまたトレーニングなんて」
 ぷうっとセイが頬を膨らませた。
 「CM撮影や取材も仕事のうちだ。文句言うな」
 土方が鋭い目で神谷を睨みつけた。
 「だってずーっと自転車をこいでスポーツドリンク飲んでプハーって言うのとか、ジョギングの果てに音楽プレーヤー持ってにっこりするとか、 体を使うCMばっかりですよ?」
 すかさずセイが反撃する。
 「だからどうした。訓練だと思え」
 事も無げに言い放つと土方は煙草に火をつけた。
 「まあまあ神谷さん、それが私たちの出るCMの内容ですから。土方さんたちとは違うんですよ」
 笑って沖田がセイを制した。
 実は近藤が自分たちも黙って見ているわけにはいかないと、首脳陣にもCM出演やインタビューへの積極的な参加を呼びかけていた。近藤や土方も 昔はF1で名を馳せた猛者たちであり、今も監督やディレクターとして活躍している。往年の彼らを知る年代の客層を取り込むために、企業が近藤たちを 広告に利用したいと思っても当然だった。
 近藤は世界的に有名なビールや保険会社のCMに出ており、土方はヨーロッパのスーツや靴のブランド会社と契約している。両方ともおとなしいCMばかりだ。 沖田が自分たちとは違うと言うのも外れではない。

 「ったく、お前らの働きが悪いから俺たち幹部までカラダ使って稼いでんだぞ。少しは敬え」
 土方は足を組んでふーっと長く白い煙を吐き出した。
 それを見てセイはムッとした表情を隠さず、沖田はすみませんと言って笑い、斉藤は全く動じなかった。


 「それにしても、何かもっとこう…話題になるものはないものかな」
 近藤が立ち上がって自分のデスクについた。そしてコーヒーカップを持ち、先ほど垂れた雫をふき取ってコーヒーを飲んだ。
 「そうだな、こっちから営業かけるんじゃなく、向こうから使わせてくれって頭を下げてくるようなやつがな」
 土方もコーヒーを一口飲んで言った。
 「えーと、じゃあグッズとかどうですか?」
 セイが切り出した。
 「どんなです?」
 「う、そ、そこまでは…」
 しかし沖田に具体案を聞かれ、軽い気持ちで提案したセイは言葉に詰まった。
 「何か案があるのかと思いましたよ」
 「すみませんっ、でも、例えば何かキャラクターグッズとか出したらいいんじゃないかなーって思って…」
 えへへとセイは笑ってごまかした。

 「…いいかもしれんな」
 斉藤はそれまでのやり取りを黙って見ていたが、ふと口を開いた。
 「え?」
 「斉藤さん?」
 「ほう?」
 「何か策があるのか? 斉藤」
 その場にいる全員が一斉に斉藤を見つめた。
 「策と言えるほどのものではないかもしれませんが」
 斉藤は一重瞼の奥をちらりと光らせた。



 ひと月後。
 近藤と土方、沖田、斉藤、セイの5人は正装してクロタニの本社前に集まった。
 本社のガラス張りの壁の外には、ご丁寧に紅白の幕で覆われた一角があった。
 「これが例のアレですか」
 白い息を吐きながら沖田が土方に問うた。
 「そうだ」
 土方もマフラーの隙間から息を漏らして答えた。そして幕を掴むとそれを取り去った。

 そこには、小さな赤い鳥居がついた小さな社が鎮座していた。
 鳥居に取り付けられた額には「近藤神社」と書かれている。
 「神社ねえ…」
 セイは首を竦めた。

 斉藤が提案したのはこうだ。
 ある朝、斉藤が日課のジョギングを終えた後に食事をしながらテレビを見ていたら、今、若い女性の間で縁結びの神社参りが流行っているとの 特集が組まれていた。霊験あらたかな神社に参拝し、お守りを買う。神社に湧いている水を汲んで、その水で作った料理を意中の男性に 食べさせると効果があるという噂まであるのだ。
 セイがグッズと言った時、斉藤はなんとなく思いついた。Mibroのメンバーのお守りを作ったら売れないだろうかと。

 斉藤の考えは土方によって形になった。まずは近藤の名を冠した神社を作り、純国産のチームを作って大成したことにあやかって大願成就の ご利益を授かれると謳う。そしてドライバー三人の名を刺繍した小さなお守りを用意した。沖田のお守りは初志貫徹、斉藤のお守りは勝負必勝、 セイのお守りは恋愛成就の文字が刺繍されている。
 「ちょっと待ってください、沖田先輩と斉藤先輩のはわかりますよ、でも何で私のは恋愛成就なんですかっ?」
 沖田と斉藤のはレースに関係ある言葉だから理解できる。が、セイは自分だけ全く関係のない言葉を選ばれてカチンときた。
 「そこがミソなんだよ」
 土方は身をかがめて、社の横にある売店からセイのお守りを手に取った。
 「いいか、今は婚活の時代だ。結婚するにも就職活動並みの努力がなきゃならねんだよ。恋愛成就のお守りひとつがあることで、この場所に 客が呼べる。女だてらにF1の世界へ飛び込み、日本グランプリで4位に入ったお前は社会的に成功していると思われてんだ。そのお前の 名が入った恋愛成就のお守りが出てみろ、縁起がいいと思われるぞ」
 最高のレース戦略を組み立てている時のような笑顔を浮かべて土方はセイを見遣った。
 「それはこじつけだと思います」
 が、セイは冷たい視線で土方に言葉を返した。
 「男どもに初志貫徹、勝負必勝のお守りは、総司と斉藤のイメージで人気が出るだろう。が、女性客に来てもらうにはやはり色恋ネタが必須だ。 お前以外のあの二人に恋愛成就の文字が似合いそうか?」
 「…」
 セイは土方に言われて横目で沖田と斉藤を見た。沖田は女性に人気はあるもののレーサーとしての魅力の方がうんと高いし、斉藤は恋愛の“れ”の字も 興味がなさそうな雰囲気だ。とても色恋沙汰のイメージではない。
 「神谷君は明るくてかわいらしい。チームのサイトに寄せられるファンメールを見ていても、男から君のような子が恋人だったらいいなという内容も多いが、 女性からも神谷君のように快活でしっかりしている姿に憧れているといった内容も多い。だから女性向けのお守りとして君に恋愛成就の文字を入れさせて もらったんだが…」
 近藤もセイのお守りを持ち、ゆらゆらと揺らしながらセイに話した。
 「…監督が、そうおっしゃるなら」
 仕方がないといった風にセイはため息をついた。これもチームが資金を獲得するために必要なことなのだからと自分を納得させながら。


 話が済んだところで土方が本社のドアをくぐり、中から束帯姿の宮司を連れてきた。社の前に皆で並び、宮司が神事を執り行った。
 これで後はこの近藤神社を宣伝し、どれだけ参拝客が来るかだけだ。
 (ムチャ振りもいいとこだと思うんだけどなあ…)
 皆が神妙な顔つきで頭を下げている間にも、セイはこのプロジェクト(?)の成功に疑問を抱き続けていた。




 しかし、セイの杞憂とは裏腹に近藤神社は大ヒットしたのである。
 今もっとも日本で明るい話題のMibroにあやかりたいと、老若男女問わず近藤神社に人が押し寄せた。不況脱出を祈願する者、会社の隆盛を願う者、 時節柄受験必勝を頼む者、様々であった。
 そして斉藤の提案と土方の目論見どおり、恋愛成就を祈願する女性たちがわんさかやって来た。F1という男ばかりの世界で身を立てているセイの名を つけた桜色のお守りが飛ぶように売れたのである。一時は品切れになり、追加でどんどん生産しても追いつかないほどだった。 近藤神社のお守りは予想を上回る収益をチームにもたらしたのである。

 神社が大人気になってからも皆があちこちで奔走したため、チームMibroの資金は滞りなく集まり、翌年のグランプリ開幕には研究の成果を 詰め込んだ新しいレースカーをスターティンググリッドに並べることが出来た。
 『これもあの近藤神社のおかげですねえ』
 『一部だがな』
 開幕早々ポールポジションと二番手に並んだ沖田と斉藤が無線で交信する。
 『一部って言ってもすごい金額じゃないですか。斉藤さんのアイディアのおかげですよ』
 無線越しに沖田が笑うのが聞こえてくる。
 『まあ金のことはとりあえずいい。今年、存分に走れる程度には確保できたからな。それよりお前らしっかり走れよ。近藤神社のご利益を 見せ付けてやれ』
 土方がマイクを口元に近づけて二人に話しかける。沖田と斉藤、それぞれから返事があった。

 『斉藤さん』
 沖田が再び無線を使って斉藤を呼んだ。
 『何だ』
 斉藤はバイザーの向こうに見える景色を見つめながら答える。
 『今年こそ、“神谷さんの恋愛成就のお守り”を手にするのはどちらかハッキリさせませんか?』
 口調は明るいが、沖田の声から笑いは消えていた。
 『よかろう』
 一方の斉藤はいつもと全く変わらぬ声色である。が、沖田には斉藤がぐっと強くステアリングを握る気配が伝わってきた。
 『負けませんよ』
 『それはこちらの台詞だ』
 そう言うと沖田と斉藤は黙って、レースに向けて神経を集中させ始めた。



 その年のMibroは昨年同様の快進撃を続け、連続でドライバーもコンストラクターも優勝を手中に収めた。
 そして次のシーズンが始まる直前に沖田とセイの婚約が発表された。
 すると近藤神社はより一層人気が出て、恋愛成就のお守りが怒涛のごとく売れまくった。
 商売上手なディレクターが、次は家内安全のお守りを作ろうと密かに決めていたのはまた別の話。