久遠の空 愛に甦る日 後編

愛に甦る日 後編



 それから。

 翌日、神谷さんが除隊になってゆうべのうちにいなくなっていたとわかり、隊内は大変な騒ぎになっていました。
 特に一緒に仕事をしていた一番隊は天地をひっくり返したかのような慌てようでした。 相田さんと山口さんなんかは、土方さんに直談判するなど勢い込んでいました。
 その様子を見て、私は逆に落ち着いてきました。 神谷さんが除隊になった経緯を出来るだけ静かに語り、それでもなお憤慨する組下の者たちを視線で押さえつけました。
 「いいですか、これは局長命令です。たったひとりの隊士が切腹でもなく除隊されて消えたぐらいで何を動揺しているんです」
 何を言っているんだろう私は。
 こんなこと、自分が一番言われてしかまるべきことなのに。
 思わず苦い笑いがこみ上げてしまいました。
 そんな私を見て、一番隊の面々は渋々と頷きました。


 神谷さんがいなくなって初めての夜。
 私はそっと一人用の幹部部屋を抜け出して、ゆうべ神谷さんが出て行った門まで歩いていきました。
 門は何も語らず、ただそこにありました。
 空を見上げれば、白く輝く半月が昨日よりも僅かに膨らみを持って。


 月の光を視界に入れたその瞬間、私は急に苦しくなって咳き込みました。
 咳を押さえた手の平を見れば、生暖かい血が。
 煌々と降り注ぐ光を受けて、赤く黒く瞬いていました。




 私は労咳にかかっていました。
 でも幹部は誰一人として騒ぎませんでした。
 風邪と思い込み、松本法眼に看てもらってから数ヶ月、なかなか治らないのをおかしいとは思っていました。 でも天下の名医の言葉を誰が疑うでしょうか。私だって微塵も疑いやしなかった。
 知らないのは私だけだったのです。
 巡察から外されたのも、稽古に参加することすら禁じられたのも、全て法眼と近藤先生と土方さんの思惑でした。体を休めて滋養を取り、 おとなしくしていれば必ずよくなると信じて。
 神谷さんが書類の整理の手伝いと言って私にくっついていたのも、私の様子を観察するためでした。私の容態が急激に悪くなったら 法眼を呼ぶようにと言い含められていたそうです。

 私は身の回りのことをするのが精一杯になってしまいました。
 庭で木刀を振れば咳き込み、書類を長い間見ていると気持ちが悪くなり。
 僅かな食事を取ることと厠に行くこと、風呂に入ること。普通に出来るのはたったのそれだけになりました。

 布団にもぐって横になっている時に考えるのは、いつもあの娘のこと。
 神谷さん。
 今どこでどうしているのですか。


 会いたい。
 会いたい。




 私が世間のことにも目を向けられずに伏せている間に、世の中は確実に動いていました。
 大政奉還が行われ、今まで徳川家が握っていた政権を天皇にお返ししたのです。 それから近藤先生のお父上でいらっしゃる周斎先生が亡くなられました。 坂本さんが殺され、伊東先生も粛清されて、何だかよくわからないけれど将軍職も廃止されて。

 空気は一気に不穏を通り越し、とうとう日本国内で戦が起きてしまいました。出陣できる体調でない私はいったん醒ヶ井の近藤先生の 妾宅へ入れられましたが、皆が布陣する伏見へ移されました。

 しかしその日、とても信じられないようなことが起きました。近藤先生が銃で撃たれて右肩を怪我してしまったのです。すぐさまお医者様が派遣されて 看てくださいましたが、もっと環境の整ったところでないと看ることは出来ないと言われてしまいました。

 近藤先生と私は、法眼のいる大阪城へと送られました。すぐに法眼みずから執刀に当たってくださいましたが、近藤先生の部屋から出てきた 法眼の顔色は青くて。

 その時私の横に立っていた土方さんの頬に、ひと筋の汗が垂れ落ちるのを見てしまいました。
 土方さんのその汗は、この先の私たちの運命の流れだと直感したのは間違っていませんでした。



 幕府軍は破れ、徳川慶喜公は江戸へと船で移動し、私たちも江戸へ行くことになりました。
 愛しい女子ひとりを引き止めることも守ることも出来ず、剣を取れなければ師を守ることも出来ない。
 初めて乗る大きな船に揺られながら、私は自分の存在がちっぽけであることを感じずにいられませんでした。



 江戸に着くと私たち病人、怪我人は病院をふたつほど経由し、治療を受けました。少しよくなったので甲府への出陣について 行こうと思いましたが、やっぱり駄目でした。私は近藤先生たちと離されて松本法眼の仮寓である江戸の今戸八幡宮へと送られ、 さらに千駄ヶ谷の池尻橋の近くに移動を余儀なくされました。



 移動と荷物の整理が終わって、法眼が寄越してくださった世話人たちが帰りました。
 薄い布団に横たわっているとさらさらと川の流れる音が聞こえてきました。来るときはうとうとしながら駕籠に揺られてきたから見えなかったけれども、 裏手に川が流れているようです。

 「失礼します」
 と男の人が入ってきました。
 「植木屋の平五郎と申します。松本先生からお話は伺ってます」
 小柄な、ちょっと年のいった感じの人でした。
 「すみません、お世話になります」
 私は布団の上に座り、頭を下げました。
 「いえいえ、世話をするのは私ではありませんので」
 にこりと人好きのする笑顔を浮かべ、平五郎さんは廊下の奥へと手招きをしました。

 世話など要らない。
 私はもう、ただ朽ちてゆくだけなのだから。
 そう思ったけれども口には出しませんでした。きっと土方さんあたりが手配してくれたのだろうから。
 それを有り難く受けることだけが、私が今できる全てなのだから。
 部屋に女の人が静かに入ってきました。



 「、かみっ…」
 その人影が手をついて頭を下げ、上げた顔をこちらに向けた時。
 私は口から心の臓が飛び出るかと思いました。
 だって、その女子は神谷さんだったのですから。

 「では私はこれで」
 平五郎さんはぽかんと口を開けたままの私と、女子姿の神谷さんを残していなくなってしまいました。
 「…お久しぶりです」
 そう言って微笑む神谷さんの頭にはもう月代の跡はありませんでした。
 「神谷、さん…」
 私の声はみっともなく震えていました。

 「申し訳ありませんでした」
 神谷さんは畳に手をつくと、まず謝ってきました。
 「先生がご病気なのは知っていました。法眼に逐一報告していました。だんだんと先生が弱っていくのに手の施しようがないことも、法眼から 聞いていました」
 頭を上げると私の傍にいざり寄り、私の手を取りました。
 「法眼は戦況をよくご存知で、皆がいずれ江戸に引き返さざるを得ないことも見越しておいででした。 もう戦場(いくさば)に立てぬとわかっていても、きっと沖田先生は江戸まではやってくるだろうとも」
 そこまで聞くと、私はふと思いつきました。
 「まさか…私が江戸に帰る日のために、あなたは除隊になって準備を進めていたと…言うのですか?」
 「はい」

 武士としての己を捨てて、私がここに来る日のために待っていたと。
 あれほど追い続けていた武士の道を降りてまで、私を。


 「武士としての神谷清三郎はもういませんが」
 神谷さんは私の両手をその小さな手でそっと包みました。
 「これからは、沖田先生ただお一人をお守りする、富永セイとして、私はあります」
 真っ直ぐに私を見つめるその目は、あの頃と同じで。

 「…私は病を得た身です」
 私は神谷さんの手をそっと除けました。私の病がうつったら困ります。
 「あなたに何もしてあげられることはありません。あなたを剣で守ることも、その髪を撫でてやることすらも」
 「承知しています」
 私の言葉を、神谷さんは変わらぬ強い視線で受け止めて。
 「あなたを残していくことしか、できません」
 「…はいっ」
 辛いけれども言っておかねばならない。私はどうあがいても神谷さんより早く旅立ってしまうのだ。
 神谷さんはぐっと目に力を入れていた。
 「それでも、私がお守りいたします。私がお守りし、先生の髪を結います」


 ああ、もう駄目だ。
 私はぐっと神谷さんを引き寄せて、力の限り抱き締めました。
 「相変わらずですねえ、頑固なんだから」
 「先生こそ」
 私たちは互いの肩口でくすくすと笑いました。


 「神谷さん…いえ、セイさん」
 そのままの姿勢で私は彼女の名を呼びました。

 「今でも変わらず、あなたを愛しています」
 だから。
 「そばにいてください」
 ただそれだけでいい。

 こくりと神谷さんが私の肩に顔を押し付けて頷きました。
 「泣き虫はいつになったら治るんですか」
 私は神谷さんの頭をそっと撫でました。これが撫でてあげられる最後かもしれないと思いながら。
 「先生の、病がっ、治ったら、治ります」
 涙声で返事が聞こえてきた。
 「じゃあ私も頑張ろうかな」
 ふふっと私は笑いました。


 今までたくさん幸せだったことはあったけれども、今ほど幸せだと思ったことはありません。
 大好きな神谷さんと、最期の時までこうしていられる。
 ありがとう。
 あなたと共にいられるようにしてくれた人すべてに感謝したい。
 ありがとう。
 共にいてくれるあなたに感謝したい。
 ありがとう。
 私が生まれて生きていられることすべてに、ありがとう。