久遠の空 愛に甦る日 前編

愛に甦る日 前編



 ここ最近、私は巡察に出ていませんでした。
 近藤先生と土方さんが、忙しいからお前も書類の仕事を手伝えって言うからです。
 私はここ数ヶ月の間ずっと風邪気味で、微熱が続くだけでたいしたことはないのに巡察に出るのを禁じられていました。
 どうせヒマなんだし、一番隊の組長ってことは最も自分たちに近いんだから、書類を捌くくらいしなきゃ駄目だって土方さんに言われて仕方なく手伝ってます。
 書類の処理が苦手な私を案じて、近藤先生は神谷さんをつけてくれました。神谷さんは一時期、近藤先生の小姓をしていましたから 書類の振り分けや整理も得意なようです。
 この仕事は退屈だけれども、悪いことばかりではありません。近藤先生宛てに届いたお菓子を食べられるからです。
 あちこちから干菓子だの饅頭だの煎餅だのが届き、近藤先生はあまり召し上がられないので、私にくださいます。紙を眺める仕事の合間に ひとくちふたくちと食べるのはなかなかいいものです。
 でもまったく体を動かさないのは耐え難いです。近藤先生にお願いして隊士の皆さんの稽古には出させてもらおうと思ったらそれも駄目で。
 仕方がないから時間を見つけては一人で庭に下りて木刀を振っていました。稽古をしているときは無心になれるので好きです。

 ある日のことでした。
 「沖田先生、局長と副長がお呼びです」
 そう言って障子を開けた神谷さんの面が緊張していました。
 何か悪いことでもあったのかと思い、私はすぐに神谷さんと局長室に向かいました。

 局長室に入ると、床の間を背にして真ん中に近藤先生が、その隣に土方さんが座っていました。
 「お待たせいたしました」
 私は近藤先生と相対するように座り、私の左隣に神谷さんが腰を下ろしました。
 「お呼びとのことですが、ご用件は何ですか?」
 膝の上に軽く握ったこぶしを載せ、私は尋ねました。



 「神谷清三郎を、除隊処分とする」



 「え?」
 土方さんの声に、私は自分の口元が引きつるのを感じました。
 「聞こえなかったのか? 神谷を除隊」
 「聞こえましたよ」
 言われた言葉はわかりましたが、その中身は信じられないものでした。

 「すぐに荷物をまとめろ。いいな、神谷」
 「はい」
 神谷さんは指示を出されるとすっと立ち上がりました。
 私は神谷さんの袖を咄嗟に掴みました。
 「ま、待ってください。どういうことなんです? 組長の私に相談もなく」
 そう、神谷さんは私がまとめる一番隊の所属です。何かあったなら私にまず話があってしかるべきなのに。
 「こいつは今まで何度も命令に背く直前までのことをしたり、事あるごとに逆らう発言をしてきた。 それを処罰する時がきた。お前だって伏見で寺田屋を捜索した時に、こいつのこと殴っただろ」
 「寺田屋でのことはもう解決しているはずです。そんなの今更じゃないですか。それに神谷さんだけじゃなくて、 平隊士の間では不満の声が上がっていますよ。厳しすぎるとか。むしろコソコソしないで堂々と言っている神谷さんのほうが 清々しいと思いますけどね」
 そう、幹部への、特に土方さんへの批判は多い。法度に少しでも触れたらすぐに切腹させられる。近藤先生が屯所にいる時は そういうことが起きても穏便に済んでいるけれども、先生がいない時の屯所内の空気と言ったら。土方さんが目を光らせているのに みんな怯えて、ピリピリしている。
 それを平気で本人に言ってしまうのが神谷さんだ。止めるのが大変な時もある。でも、平隊士部屋の片隅でとか、幹部のいない お茶屋とかでひそひそとしているより者たちよりも断然男らしい。

 「デケえ声で言われちゃたまんねえんだよ。意見すんのは構わねえが、大声で喚かれちゃ他の奴らにも影響すんだ」
 土方さんは苦々しい口調で私に向かって言った。
 神谷さんは立ったまま下を向いている。
 「浪士組が出来た直後からいるんですもの、多少の物事を言うぐらいいいじゃありませんか」
 私は出来るだけ穏やかに発言した。

 神谷さんがいなくなる。そのことに心が鉛色に染まっていくのを感じながら。

 「そんなことが度々あっちゃ全体の士気に関わる。もうこれ以上こいつをここへ置いておかねえと、近藤さんと決めたんだ」
 「でも、神谷さんは長いこと新選組に仕えてきたじゃないですか! 何故今になって…」
 私は知らぬ間に大きな声を上げていました。
 神谷さんがここからいなくなる。
 近藤先生の目を見ても、土方さんの目を見ても、そこには微塵の嘘もなく。
 「今まで散々目をつぶってきてやったんだ。感謝してほしいぐれえだ」
 土方さんは腕を組んで顎に手を当てた。

 「…総司」
 近藤先生が重々しく口を開きました。
 「全てはトシの…土方君の言った通りだ」
 
 「お前は以前見合いをした時に、俺の命令ならばと了承して見合いをしたな」
 「はい」
 嫁を取れと言われて、南側芝居で見合いをしました。実際は見合いらしいことは何もしなかったけれども、今でも覚えています。  見合いの相手の顔や名前のことではありません。
 あの時、私の様子を見に来た浅黄色の着物を着た神谷さんが、たいそう美しかったことです。

 でもそれは私のちらりと頭を掠めただけでした。
 近藤先生が、今一番聞きたくない台詞を言おうとしているのがわかっていたからです。




 「神谷君の除隊は、私の命令だ」




 「…近藤先生」
 「この決定は覆らない。わかるな?」
 「近藤先生」
 「神谷君は除隊になり、お前の元からいなくなる」
 「近藤先生!」

 自分でも何故だかわからないほど、大きな声を出していました。
 たかが一隊士の除隊です。その去就を決めるのが局長や副長であっても何ら不思議はありません。
 でも、神谷さんだけは。神谷さんのことだけは、私の知らないところで決められたくない。

 「以上だ。隊内には神谷がいなくなってから公表する。すぐに荷物をまとめて夜のうちに消えろ」
 「承知いたしました」
 掴んだ袖がぐっと引かれ、私の手からするりと布の感触が消えました。
 「失礼します」
 神谷さんの澄んだ声が聞こえ、障子が開いて冷たい風が入り込んできました。
 そして、ぱたんと桟の合わさる音と共に空気の動きが止まり。



 私も、畳の上に落とした手を、動かすことが出来ませんでした。



 土方さんに呼ばれた斉藤さんが私を局長室から連れ出し、副長室へと入れました。
 「沖田さん、何を腑抜けている」
 いつもと同じようにきっちりと正座をした斉藤さんが私に聞いてきました。
 「…斉藤さん、神谷さんが、神谷さんが…」
 はっとして私は斉藤さんの肩を掴みました。斉藤さんがこの話を知ったらきっと一緒に何とかしてくれる、そう思いました。
 「除隊だそうだな」
 さらりと斉藤さんは言いました。
 「斉藤さん、知って…?」
 私とあの部屋にいた人たちしか知らないと思っていたのに。私は目を丸くして斉藤さんを見つめました。
 「俺は理由を聞いて当然だと思ったがな」
 斉藤さんの一重の目には何の感情も伺えません。斉藤さんだって神谷さんのことを大切に思っていたはずなのに、何故。
 「斉藤さんはそれでいいんですか?」
 「遅かれ早かれこうなると思っていた。アンタは覚悟していなかったのか」
 「っ」
 何とか斉藤さんを味方に出来ればと思った私が甘かったのです。斉藤さんは神谷さんがいつかこうなると予想していました。 そう思っても当然です。だって神谷さんは女子なんですから。冷静に考えてみれば、男所帯の新選組にいつまでもいられるわけがないのです。
 「間もなく夕餉だ。きちんと飯を食え」
 斉藤さんはそう言い捨てて部屋を出て行きました。

 食べたくはなかったけれども、私は食事部屋へと向かいました。神谷さんがそこにいると思ったからです。
 いつも私が座っている席の隣には、いつもと同じく神谷さんが座っていました。私は神谷さんの隣に座り、箸を取りました。
 「…いただきます」
 ちらりと横目で神谷さんを見てから、汁椀を持ちました。
 神谷さんはまったく普段どおりにご飯を食べていました。時折あちこちから声を掛けられて、明るく談笑していました。

 まるで、除隊になったことなど嘘のように。




 夜になり、巡察の隊は屯所を出発し、皆が寝静まった頃。
 私は屯所にある一番小さな門に寄りかかり、神谷さんが現れるのを待っていました。
 この夏に、ここ不動堂村の屯所に移ってからは殆ど巡察に出ることを禁じられていたから屯所の中ばかりを歩いていました。 だから屯所の中のことはほとんどわかっています。この門が最も人目につきにくく、こっそり出入りするのに最適であることも。

 案の定、神谷さんはやって来ました。笠を被り、小さな風呂敷包み一つと、大小だけを携えて。
 「…行くんですか」
 私は低い声で神谷さんに聞きました。
 「はい、除隊ですから。お世話になりました」
 神谷さんはぺこりと頭を下げるとそのまま門をくぐろうとしました。

 私はその腕を掴みました。
 今度は袖などではなく、着物の上からその細い腕を。

 「離してください」
 神谷さんは掴まれた腕を外そうとしました。でも私の力に勝てるわけもありません。
 「あなたの武士への思いはそんなものだったのですか」
 「…!」
 「人から言われてはいそうですかと捨ててしまえるような」
 「違います!」
 問い詰めるような私の言葉を、神谷さんは悲鳴のような声を上げて遮りました。
 「私は武士です! その気持ちは今でも変わりません。でも今はもう除隊になった身です。去るしかありません」
 私が地面に置いておいた提灯の明かりが下から神谷さんの顔を照らしました。唇を噛みしめているのが見えました。
 「では何故」
 「…これ以上お話しすることはありません」
 神谷さんは僅かに緩んだ私の手を払い、腰間の二本を帯にぐっと入れ込みました。
 「沖田先生には本当にお世話になりました。お体をお大事になさってください」
 笠を目深に被ると、神谷さんは足を前に出しました。


 「あなたは平気なのですか、私と離れて」
 無意識に口から言葉が出てきました。
 「今までずっと一緒だったのに、急に離れて平気なんですか」
 私は何を言っているのだろう、まるで自分が自分でないように感じられます。


 「…私は、平気じゃない」
 そう呟いたのが神谷さんに聞こえたのかどうかなど知らない。
 次の瞬間、私は神谷さんを強く抱き締めていました。


 「おき…っ」
 苦しそうに神谷さんが私の名を呼びました。
 「あなたがいないなんて、私は平気でなどいられない!」
 深夜の暗闇にこんな大声を出して、建物の中まで聞こえるかもしれないと頭の片隅で思いました。
 でも、そんなの構いやしません。
 「あなたがいると思ったからこそ、あなたを守ろうという気持ちが芽生えたからこそ、私はここまでやってきたんです!  今は風邪でままならないけれども、必ず治してまたあなたと巡察に出て、共に敵と切り結び、あなたの背中を今度こそ守ると、 今度は不覚を取ってあなたに私の背を守ってもらうことなどさせやしないと、ずっとずっと思っていました」
 息が止まっているのを確認せず敵に後ろを見せ、あなたに庇われて傷一つなかったこの体を、いつかあなたを守るために 投げ出そうと心に誓っていたのに。あなたがいなくなってはそれを果たすことが出来ない。

 「私は…神谷さん…私はあなたを…」
 体は強く抱きしめたまま、私は神谷さんの丸い目を見つめました。


 「愛しています」


 自分でも信じられないほど、その言葉が自然に出てきました。
 ああ、そうだ。私はこの言葉を神谷さんに伝えるためにずっと沈黙を守っていたのだ。神谷さんを愛しく思っていると自覚してからも それを告げなかったのは、意識の底でずっと告げる時を待っていたからだったのだ。今がその時だったのだ。だからこそ自然に 言うことが出来たのだ。

 「はじめは仇討ちを果たせるまでと思っていました。でもいざそれが叶ってからは、懸命に武士としてあろうとするあなたを見続けて、 いつの間にかあなたを愛しいと思っていた自分に気がついたのです」
 私は神谷さんから腕を放し、その頬を両手で包みました。
 「だから、どこにも行かないで下さい。あなたがいないなんて、私には耐えられない…」
 いつもはこの柔らかな頬で遊んでばかりなのに、今はもろく感じられて、そっと手のひらで押さえることしか出来ません。



 「…おっしゃりたいことはそれだけですか?」
 短く発せられたその一言に、私の胸は貫かれました。
 神谷さんの目を見ると、そこに写っていたのは、受容でも拒絶でもなく、ただ、無。
 「私は行かねばなりません。離してください」
 何の感情も浮かばず、ただ、黒い闇だけが神谷さんの目を支配して。

 もう、私の言葉では、彼女を止めることが出来ないと、知ってしまいました。

 私の両手から力が抜け、神谷さんの頬を滑って。

 私は袴越しの膝に、湿った土の感触を得ました。


 「…先生、生きてください」
 私の肩に小さな手が触れました。
 「生きてさえいれば、いつか…どこかで…お会いすることもあるでしょう」
 「どこへ…行くんですか…?」
 神谷さんの言うことなど耳に入っていませんでした。ただ、この先神谷さんがどうするのか知りたかった。
 「…江戸へ」
 しばらく逡巡した後にぽつりと神谷さんが言いました。
 「お父上と兄上のお墓があるこの京を捨てて、江戸へですか?」
 かなり皮肉交じりの口調だったと思います。でも言わずにいられませんでした。この新選組を離れるばかりか、同じ京の空の下にすら いられないなんて。

 神谷さんは何も言わずに、私の肩から手を離しました。
 ざり、と草履が土を食む音が聞こえて。
 神谷さんは去っていきました。


 私には、その背を見送ることすら出来ませんでした。



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