
慶応元年、大晦日。
西本願寺の北に位置する新選組の屯所では、本来十二月十三日に行われるはずの煤払いが今まさに行われようとしていた。
もう夜が明けたら新年という切羽も詰まりすぎた日に煤払いをせねばならなくなったのは、新選組が多忙だったからである。近藤の広島行き、伏見での坂本龍馬捜索、日々の巡察、密偵探しなどに追われていた。
だが、理由はそれだけではない。もっとも肝心な訳が残っている。
新選組内でそういったことを仕切る人物の不在。
神谷清三郎ーー富永セイが怪我で松本良順のもとに居続けていたことが、一番の原因であった。
町中で密偵を発見し、斬り合いとなった際に沖田をかばい負傷したセイは、ひと月近くも松本の仮寓に、いわば“入院”していた。
やっと松本のお墨付きを得て屯所に戻ってきたのが、この大晦日なのである。
一番隊組長という重責を負い、局長不在の組に密かに目を光らせていた総司は、セイの見舞いに行くことをすっかり失念していた。
また見舞いに行くと約束していたのにと後悔する総司に、セイは別にいいと言い、
「仕事馬鹿の沖田先生、私、好きですから」
と、ほんのわずかな言葉で、総司の中の後悔をすっかり掃き清めてしまったのであった。
セイの指示により、組の全員で煤払いやその他の掃除を大急ぎでやっつけ、どうにか今年の日付のうちに、新年を迎える用意が整った。
一夜飾りになってしまったが、門松や注連縄などの飾り付けも済ませて、仕出しの料理も台所へ運び込まれている。酒も一斗樽が集会所の階段上にいくつも並べられていた。
近藤や土方への挨拶を済ませた総司は、一番隊の部屋に戻った。
皆はもう布団を敷き、寝る支度に入っている。
しかしセイの姿が見あたらない。
「さっきまでいたんですが」
相田と山口が顔を見合わせる。
「ああ、いいんですよ。ちょっと探してきますね」
立ち上がろうとする二人を押さえ、総司は部屋の外に出た。
夜も更け、足元と言わず体と言わず、冷えが忍び寄ってくる。
総司は寒さに思わず体を震わせた。
(神谷さん、どこにいるんだろう?)
口元に白い息を漂わせ、ぐるりと辺りを見回しながら廊下を歩く。
すると、集会所の階段の上、一斗樽が並んでいる側で黒い影がもそりと動いた。
「神谷さん?」
影の放つ雰囲気を感じ取り、総司は白い息を吐く。
「あ、お、沖田先生」
セイは呼ばれてぴたりと動きを止めた。
総司はとんとんと軽い足音を立ててセイに近づく。
普通の羽織の上に黒い羽織を着込み、首には襟巻きをぐるぐると巻いていた。
「そんな格好でどこへ?」
闇の中で目を凝らして総司は聞く。
「えーと、その…」
はは、とセイは乾いた笑いを漏らした。
「はは、じゃないでしょう!」
思わず総司は声を荒げた。
「あなた、自分が今どんな状態か知っててこんな夜に出かけようと言うのですか? ひどい怪我しているんですよ?」
「もう大丈夫ですっ! 先生だってご覧になったでしょう、ちゃんと松本法眼から戻っていいってお墨付きをいただいてあるんですから!」
セイも負けじと声を張り上げる。
「そうですか、じゃあこれでも大丈夫だと言えるんですか?」
総司の目が冷たく光り、セイの右肩を掴む。
「つっ」
セイの顔がゆがみ、押し殺したはずの声が響く。
総司は手を離し、眉間を緩めてため息を吐いた。
「ほら、まだじゃないですか。今日は戻ったばかりだし、掃除のお手伝いもして疲れたでしょう。部屋に戻ってお休みなさい」
総司は声を和らげると、セイの左手をとった。
冷たい。
すっかり冷え切っている。
その手をぐっと引き、総司は部屋に向かって歩き出した。
「せ、先生」
セイは急にひっぱられ、足音を乱した。
一番隊の部屋はすでに明かりが消されており、しんとしていた。
総司は部屋に入ると、セイを自分の布団に引き入れる。
(せっ、先生?)
(こんなに冷えて…怪我の上に風邪までひいたらどうするんです? 戻ったばかりでそんな失態は許されないでしょう?)
はあ、と総司はセイの手に温かい息を吐きかけた。
怪我をする直前、セイは三日間の休暇をもらったが、その間、姿を消していた。後からセイが尼になり、組には戻らないつもりだったことを知り、無事に戻ってきた時にどれほど安堵したことか。自分をかばって酷い怪我を負った時、どれほど自分を呪ったか。
もう二度と自分の前から姿を消さないでほしい。
総司は願いとも祈りともつかぬ思いを込め、セイを抱きしめた。
セイは何度か、先生、と総司を呼んで身を揺すったが、総司の腕はセイを離さない。そのうちセイも諦めて、総司と布団が作り出す温かさに身をゆだねた。
二人はそのまま眠ってしまった。
同じ室内では、眠った振りを続ける一番隊の面々が、眠れない夜を過ごした。
翌朝、慶応二年元日。
局長からのありがたい訓辞が終わると、集会所の階段下では一斗樽を開けての新年会が始まった。
仕出しの料理をつまみに、寒さなど酒の前ではどこ吹く風。むしろ酒で寒さを吹き飛ばさんとばかりに、皆は飲んで飲んで飲みまくった。
「ああっ、またこぼして!」
セイが雑巾片手に集会所の階段を上り下りしている。酔っぱらった隊士たちが、柄杓で酒をくみ出す際に、酒を床にこぼしてしまっているのである。
ただでさえ正月からどんちゃん騒ぎをし、寺の境内で酒を飲むという行為に、西本願寺からは冷ややかな視線が向けられている。
加えて借りている建物に酒の匂いが充満しているなど、後でどんな嫌みを言われるかわかったものではない。
木の床に匂いが染みいる前にと、セイは酒をせっせと拭いて回る。
その横で総司も同じく雑巾がけをする。
「先生はそんなことをなさらなくても」
とセイは何度も総司に止めるよう言ったが、総司はにこにこと笑うだけで一向に止める気配がない。
一見平気そうに見えてもまだ万全ではない、そんなセイの手伝いをしたいとの思いから、総司が手を止めることはなかった。
だいぶ酒も進み、酔いつぶれた隊士たちが部屋に戻っていった。
セイと総司も床拭きを切り上げ、残りの清掃は組で雇っている小者たちにまかせることにした。
そこへ、
「沖田先生、副長がお呼びです」
と、平隊士が総司を呼びに来た。
セイの側にいたいが、副長である土方の呼出であればそうはいかない。
「いってらっしやいませ! 私、雑巾だけ洗ってから部屋に戻りますね」
セイは、汚れた雑巾と桶を持って、井戸の方へと走って行く。
その後ろ姿を消えるまで眺め、総司は副長室へ向かった。
土方の話は、明日からの巡察についてだった。
局長・近藤の外出を護衛するために本来の巡察の順番に少しばかりの変更を加えたので、巡察の順番が変わることを短く告げられ、総司は一番隊の部屋に戻った。
一番隊の部屋の障子を開くと、酒臭い空気が一気に漏れだしてくる。
ゆうべよく眠れなかったことに加えて酒を浴びるほど飲み、全員が大いびきで寝てしまっていた。
だが、その中にセイの姿がない。
総司は井戸に向かう。
井戸の周りは水で濡れており、井戸の側にある竹で作った物干しかかっている雑巾からは、まだ水が滴っている。
屯所中をくまなく探したが、どこにもセイはいない。
(考えろ、考えるんだ総司)
総司は目を閉じ、必死でセイの後ろ姿を思い浮かべて追いかける。
(怪我をして屯所に戻ってきたばかりの身で、あの娘はどこへ行った? ゆうべ神谷さんはどこへ出掛けようとしていた? ひきとめるのに精一杯で行き先を聞かなかったけれども、あんな夜にこっそりと出掛けなくてはならないようなところはどこだ?)
暦の上は春でも、寒さは一番の底を迎えている。
それなのに総司の額からは大粒の汗が流れ出てきた。
(…あ!)
総司の頭に、とある場所がひらめいた。
きっとそこに相違ないと確信し、総司は屯所を飛び出していった。
半刻も小走りに来ただろうか、総司は深呼吸をして息を整え、寺の門をくぐった。
門には“聞法山”と彫られた額がかかっている。
頂妙寺である。
墓地に入り、総司は注意深く墓を見て回る。
しばらく進んでいくと、総司が思い描いていたのと同じ光景が目に入った。
小さな墓の前でかがみ込み、一心に祈りを捧げる小さな背中。
半分だけ月代を剃った頭からは、ひとふさの黒髪がゆるく垂れている。
それはまさしくセイの後ろ姿であった。
「…父上、兄上。年内にご挨拶に来られず、申し訳ありませんでした」
他に訪れる人影のない墓域で、セイの細い声がかすかに聞こえる。
「きっとそちらからご覧になっていたと思いますけど、この通り肩を怪我しちゃいました」
ふふっとセイは笑う。
(それは私のせいだ)
他人の墓の影に隠れ、総司は心の中で呟く。
「聞いてください、やっと私、沖田先生にひとつだけ借りを返すことが出来たんです」
今まで総司に守られてきたことをひとつひとつ、ゆっくりと思い出しながらセイは語る。
その中のやっとひとつを返すことが出来たと、セイの声は明るい。
総司は物陰からその場面を同じようにひとつずつ思い出していく。
思えば、あの時。
最初に神谷さんを助けようと、人を初めて斬ったあの時から。
この思いの種は、蒔かれていたのかもしれない。
あの出会いがすべての始まりだったのかもしれない。
そう思った瞬間、総司の足元で、小枝がぴしりと音を立てた。
「沖田先生っ?! ど、ど、どうしてここに?」
音に驚いて振り向いたセイは、そこに総司がいることに驚きを重ねた。
「神谷さん、私もお参りさせていただいていいですか?」
総司はセイの質問には答えず、隣にしゃがみ込んだ。
手を合わせ、まずはセイの父と兄に挨拶を述べる。
セイとは長い付き合いになるが、こうしてセイの父と兄の墓に参るのは初めてだった。
ひととおりの挨拶を済ませてから、総司は改めて墓石に向かって頭を下げた。
(先ほど神谷さんが私に借りを返したと言っていましたが、私のほうこそ、借りを作ってばかりです)
その挙げ句に、女子の体に一生消えない深い傷を負わせてしまったことを、総司は深く詫びた。
(ですから私はこの先、神谷さんに償っていかねばなりません。たとえ許されなくても、ずっとずっと)
総司は頭をさらに深く下げる。
(初めてお参りするのにこんなお願いをするのはおかしいとわかっていますけど、どうか…)
ぐっと手を握りしめ、総司は息を詰めた。
(神谷さんが幸せに暮らせるよう、見守っていてください。そして、私にその手助けが出来るよう、ちからを貸してください。どうか、どうかお願いします)
「先生、先生」
セイが総司の体を揺さぶる。
はっとして総司は頭を上げた。
「お参りしてくださってありがとうございます。もう帰りましょう」
「え、ええ」
セイと総司は立ち上がり、もう一度墓石にぺこりと頭を下げると、寺を後にした。
「…神谷さん?」
「はい?」
「どうして何も言わずにお墓参りに行ったんです? 一言言ってくれればよかったのに」
早い夕暮れを目に写しながら総司は聞く。
「法眼のところにいる間にお参りしておきたかったんですけど、もうちょっとよくなってからって法眼に止められてて」
セイが頭をかいた。
「それに、ひとりで行かないと」
急にセイの声が曇る。
「いつも、泣いちゃうんです。私、武士なのに。父上と兄上のことを思い出すと、何だか泣けて来ちゃって」
いっぱしの武士なのに、とセイは総司と反対側の空を見上げた。
青から橙ににじむ空。薄くたなびく雲。
ふたりの頭上には、同じ空が広がっている。
「いいじゃないですか。家族に思いを馳せたって」
総司がセイの手を握る。
「…っ、先生え」
こらえきれずにセイの声が震える。
総司はセイを引き寄せ、胸の中に収めた。
「ほら、出し切ってしまいなさい。今日は正月で休暇ですけど、明日から私たちはまた鬼の生活に戻らなければなりません」
「先生…父上え、兄上えぇ」
辛い任務や怪我からやっと立ち直ってきたからか、セイは堰を切ったように泣き出した。
総司はセイが泣くのに任せ、ただ黙ってセイを受け止めていた。
ただの男と女であれば、こうして抱き締めることに理由など必要なく。
横に並んで互いの肉親の墓を訪ねることもごく普通に出来たであろう。
総司はセイの柔らかな黒髪を撫でながら思う。
こうして抱き締めていることの意味を。
聞いてもいなかった行き先を思いついたわけを。
いつかこの娘に伝えることが出来るのだろうか。
いや、きっと自分から伝えることは出来ないだろう。
だとしたら、気付いてもらえる日は来るのだろうか。
気付いてもらえたとしたら、受け入れてもらえるのだろうか。
武士であることを捨てることはお互いに出来ないかもしれない。
それならば、共に修羅の道を行くまで。
(どれだけこの手を、この身を血に染めようとも、必ずあなたを守る)
総司はまだ泣き止みそうもないセイを、強く抱き締めた。
special thanks to 海辻 那由 様
20120824
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