久遠の空 拾萬打記念企画  その8−1

変身 その1



 風邪が流行っている。
 寒さが日ごとに増してくる今日この頃、会津藩が本陣としている金戒光明寺では、風邪の患者が急増していた。
 英吉利語習得の面々ももれなく風邪をうつされ、講師のハーバーまであっという間に熱、咳、鼻水で倒れた。元気なのはだけで、 全員が回復するまで授業は閉鎖となった。

 黒谷に通う必要はしばらくなくなったが、はいつも通りの時刻に起きた。そして身支度と朝餉を済ませると土方の指示に沿って動いた。
 普段は黒谷に出仕していて果たせない“土方の小姓”という仕事を忠実にこなす。土方から屯所内の幹部への連絡や副長室への呼び出し、 話し合いの結果のとりまとめ、書状の代筆、さらには土方が望む頃を見計らってのお茶出しなど、やることは山ほどあった。

 その土方が、今日は黒谷に報告へ赴いていて屯所を留守にしていた。近藤と二人で行くのでついてくる必要はないと土方は言い、は 屯所で待機させられた。
 は部屋の掃除や荷物の片付けをし、土方が戻ってくるのを待ちながら英吉利語の書付を広げた。授業がなくとも自分の書付で 復習は出来る。発音も小さい声でなら練習が可能だ。怠けてしまったらすぐに鈍ってしまう気がするので、はぶつぶつと一人で英吉利語を 呟き、単語を頭に入れ、文法をや発音を復唱した。


 は勉強に夢中になりすぎてしまい、少し遅れて昼餉を取った。
 台所に繋がる食事部屋へ行ってみると、沖田はいるが神谷がいない。
 「さん、こっちこっち」
 とに気づいた沖田が手招きをする。は膳を持って沖田の隣に座った。
 「沖田さん、神谷さんは?」
 「あ、ああ、神谷さんは午後から休暇です。明里さんの…妓のところへ行って」
 「例の居続けですか。じゃあ沖田さんもお寂しいですね」
 「ええ、そうなんですけど、こればっかりは仕方がありません」
 沖田は苦笑いをする。
 諦観に似た雰囲気を感じながらも、沖田の笑みの奥には別の何かがちらりと見えた気がしたが、 は何の証拠もないしそれが何なのかもわからないので黙っていた。

 沖田はすでに食事を終えたので茶を啜りながら、は食べながら、ぽつぽつとたわいもない話をした。
 「さて、夕方から巡察だから少し休んでおこうかな」
 が食べ終わるのを待って、沖田が立ち上がった。
 「ごちそうさまでしたっと。お先に失礼しますね」
 「はい、お気をつけて」
 はぺこりと頭を下げると、茶を飲みながら沖田の背中を見送った。





 二日後、神谷が“居続け”から戻ってきた。
 「さーん」
 ひょこりと神谷が副長室を覗き込んできた。
 「あ、神谷さん」
 は書付から顔を上げて神谷のほうを見た。
 「副長は?」
 神谷は慎重にきょろきょろと室内を見回す。
 「今日は監察の方たちと現場へ」
 土方は今日も留守だ。ゆうべ監察の島田が報告に来て、不逞浪士たちの活動資金らしきものがある民家へと出動している。
 は神谷の様子がおかしくて口元を緩めた。大抵の隊士たちにとって鬼の副長は天敵だと思われているから仕方がない。
 「じゃあしばらく大丈夫ですね。ちょっとこれ見てもらえませんか?」
 そう言うと神谷は室内へ滑り込んできて、懐から一枚の紙を取り出した。
 は目の前に突きつけられたそれを手に取ると、書かれている文面に目を落とした。



 「“ながきよをこえ いのめ あかつきのひかり はなつとき てんより ぼさつあらわる”…?」



 は眉を寄せた。
 「これ何なんですか?」
 「実は、私の妓…がですね」
 神谷は一瞬照れたような表情を浮かべて、この書付を入手した経緯を語り始めた。



 神谷には島原に通う妓がいることを、は永倉たちから聞いて知っていた。「花屋」という置屋にいる美人の天神で、名は明里。 神谷は月に一度の逢瀬のために休みをまとめて取るほどの惚れ込みようなのだそうだ。
 その明里から神谷に話が持ち込まれた。


 明里の知り合いの僧が最近、寺の物置を掃除していた時のこと。
 物置の片隅に、古びた木箱を見つけた。箱を開けてみると、ひと振りの刀とともにこの書き付けが入っていたのだという。
 僧は住職にその木箱と書き付けを発見したことを話した。すると住職は、
 「それはこの寺に伝えられている、ご本尊の行方を差すに違いない」
 と言った。

 その寺が建立されてからしばらく経った頃、京には盗賊が横行し、寺にも魔の手が伸びていた。寺にある仏像や掛け軸などが盗まれ、売り払われるという 事態が頻発していたのだ。この寺の初代住職もたいそう心配していて、毎日長い長い読経を本尊に向かって捧げていた。

 ある日のこと。住職が朝の読経をしようと本堂に足を踏み入れたところ、本尊が消えていた。本尊が安置されていた内陣には、 神谷が持ってきた書状と、話に出た刀ひと振りが残されていた。
 住職は菩薩の行方を必死になって探したが見つからず、書付と刀を寺宝として扱うように遺言を残して世を去っていった。



 明里の知り合いの僧が書付と刀を蔵で見つけたことを今の住職に報告すると、住職は何とか本尊である菩薩像を見つけ出したいと弟子たちに話を 持ちかけた。が、誰も言葉の謎を解くことが出来ず、明里の知り合いの僧侶が明里に智恵を借りに来て、さらに明里が神谷に相談し、 神谷がに相談しにきたのである。



 「“長き夜を越え いのめ 暁の光 放つとき 天より 菩薩現る”…ですかね」
 は土方の机の前に座ると紙と筆を拝借し、書付の平仮名を漢字に改めた。
 「たぶんそうじゃないかと思うんですけど…“いのめ”って何でしょうね」
 神谷がそれを覗き込んで聞く。
 「斉藤さんなら物知りでいらっしゃるからご存じかも。斉藤さんのところには行かれました?」
 の脳内に斉藤の涼しげな顔が浮かぶ。
 「いいえ、非番なのにどこか行かれたようで…三番隊の方に聞いても、少し出てくるとだけ言って出かけたみたいで、行き先がわからないんです」
 神谷は顔を曇らせた。
 は顎に手を当ててふむと考え込んだ。が、文面の内容は全くわからない。

 「ねえさん、ちょっとこのお寺まで行ってみませんか?」
 神谷がにっと笑って言う。
 「え?」
 「近くなんですよ。ね? さんだってこれが何を表すのか気になるでしょう?」
 「ええ、まあ…」
 「じゃあ決まり! 早速行ってみましょう!」
 神谷が立ち上がった。
 は勝手に行動するなと睨みつける土方の顔が脳裏をかすめたが、行ってみるだけだと思い、支度をして神谷と出かけることにした。

 その寺は島原から少し西に行ったところにある、こじんまりとした寺だった。門前はきれいに掃き清められていて、 門柱には竹筒がくくりつけられており、花が活けてあった。
 「すみませーん」
 神谷が大声で門の奥に伺いを立てる。
 中に入っていけばいいのにとは思ったが、神谷のするに任せていた。
 「はい…」
 ややあってひとりの僧が出てきた。その声と、頭にかぶった布からのぞく目つきは、明らかに女性のもので。
 (女の人…尼僧? まさかここって…)
 は瞬時に理解した。なぜ神谷がすぐに門をくぐって中に入らなかったのかを。


 ここは、男子禁制の尼寺だったのだ。


 二人は当然門前払いを食らった。
 「殿方をお入れする訳には参りまへん。どうぞお引き取りを」
 と応対に出た尼僧は丁寧に頭を下げ、即座にきびすを返して戻って行ってしまった。
 「待ってください、お困りと聞いて…!」
 神谷は必死で引き留めようとしたが無駄だった。

 「仕方ないですね、尼寺ですから」
 は帰る道々、神谷を慰めつつ言った。
 「少しでもお手伝いできたらと思って来ただけなのに、話くらい聞いてくれてもいいと思いませんか?」
 神谷はけんもほろろに追い返されたのが悔しくて、地団駄を踏む。
 「ご本尊が見つかるかもしれないんですよ? 多少はオトコを入れたって罰は当たらないと思うんですけどね!」
 「お寺の方が拒否するならどうしようもありませんよ」
 は事も無げに言う。本当は自分は女だから言えば入れてくれるかも知れないが、そんなことは勿論出来ない。
 「冷たいなあさんは。そういうとこ副長とそっくり」
 神谷はじとっとを睨み付けた。
 まったくそういうつもりはないのだが、はどう返事をしていいのか図りかねて、ただ苦笑いをするにとどまった。

 「とりあえず明里さんに報告だけしておこうかな。さん、一緒に行きませんか?」
 「神谷さんの妓のところにですか?」
 「ええ、行きましょう」
 ぐいぐいと神谷はの腕を引っ張り、島原に向かって歩き出した。
 は断る理由が見つからず、ただ神谷に引かれるまま足を進めて行った。





 神谷とは柳の枝が揺れる大きな門をくぐった。島原大門だ。
 は芹沢が粛正される前に迷い込んだことがあり、芹沢に助けられたことをちらりと思い出した。

 青い空の下、昼見世がすでに始まっていて、道の左右には暖簾がひらりひらりと風に揺れている。
 しばし歩くと、神谷が花の文様のある暖簾を垂らした見世に入っていった。も続けて暖簾をくぐる。
 「こんにちは、明里さんは?」
 中に声を掛けると、見世の女将が出て来た。
 「神谷はん、いらっしゃい。ちょうど今お茶ひいてますえ」
 女将は愛想笑いを浮かべて神谷を出迎える。
 「じゃあちょっとお部屋に上がらせていただきたいんですが」
 「ほな支度させます」
 女将はすぐに明里の禿を呼んで、明里に来客を告げさせた。

 禿が先導して、二人は明里の部屋に通された。
 「こんにちは明里さん」
 「神谷はん、居続けの後にまた来てくれるなんて嬉しおす」
 明里はにこりと微笑んだ。
 「そちらさんは…?」
 「鬼副長の小姓で、山口さんです」
 「山口です。以後お見知りおきを」
 は紹介されて頭を下げる。
 「山口はん、よろしゅう」
 明里も柔らかな表情でゆっくりと頭を垂れた。

 「で、どないしはりましたん」
 明里は菓子を勧めながら神谷に話を促した。居続けの直後にまたこうして訪ねて来るとは、何か事情があるに相違ないと察したのである。
 「この前の尼寺の話なんだけど、今、さんとそこに行ってきたんだ。そうしたら門前払いされちゃって…役に立てなかった」
 神谷はごめんと明里に謝った。
 「気にしててくれたん? おおきに」
 手を合わせ、明里は神谷に礼を言った。

 「でも…お世話になった方やったから、出来れば力になってあげたかったと思うえ」
 ふと顔を曇らせて明里が呟く。
 「明里さんにとってどんな方だったの? その尼僧になった方って…」
 訳ありと踏んで神谷が質問した。
 「うちがこの見世に入った時に、見世のこといろいろ教えてくれたんよ。祇園で芸妓はしとったけど、色売るのはここに来てからやったし…」
 明里はまだ明るい光を取り込む窓を見つめながら言った。
 「あ、そうか、ごめん、嫌なこと聞いて」
 神谷はばつが悪そうに下を向く。それを明里がええんよと慰めた。
 も目の前にいるこの華やかな天神に暗い過去があることを悟り、口を噤んだ。
 「うちが入ってひと月ぐらいで年季が明けて尼さんにならはったけど、今でも時々文をくれるんよ。それで今回、あの書付について力を貸して 欲しい言わはって来たんやけど、しょぉがないわ」
 そう明里は言ったが、目つきは悲しげで、やりきれない思いを映していた。明里にしてみれば、意を決して体を売る世界に飛び込んできた時の 大恩人である。頼まれたら力になってあげたいと思っていたに違いない。



 「…明里さん! あれまたやってくれませんか?」
 すっくと神谷が立ち上がった。
 「神谷はん? あれって?」
 明里は驚いて後ろに手をつく。
 「ほら、私が沖田先生から一本取った時の」
 神谷は明里に目配せした。
 「え、あれを?」
 明里はまさかと言うように眉を寄せる。
 「お世話になってる明里さんのためだもの、神谷清三郎、一肌脱がせていただきます!」
 目を輝かせて神谷は拳を握った。

 「ええよ神谷はん、無理せんで」
 「無理なんかじゃありません、ちょっと話を聞きに行ってぱぱっと解決してくればいいんですから! 幸いここに力強い味方もいることですし!」
 神谷はそう明里に言い放つと、の肩をぐっと掴んだ。
 「さんも協力してくれますよね、困っている時はお互い様ですからね!」
 「はい?」
 は話が見えずにきょとんとしている。
 「じゃあ早速着替えます。明里さん、お願いします。さんにも何か用意してあげてください」
 神谷はそう言うと、羽織を脱ぎだした。

 明里は神谷の説得を諦めて、隣の部屋の襖を開けると何やらごそごそと探り出した。そして衣服や小物をふたつの山にして、 ひとつをに手渡した。
 「ああ言い出したらおセ…神谷はん、聞かへんからなあ。山口はんにもご一緒してもらいます。これをここで着ておくれやす」
 「はい」
 は渡されたものをじっと見つめた。きれいに畳まれているそれは、白と黒の二色しかない衣類である。
 「それから」
 ずいと明里はに顔を近づけた。
 「うちがええと言うまで、絶対にここから出んといてください。襖の隙間から覗いてもあきまへんえ」
 明里の目は脅すように鋭く、はただ黙ってこくりと頷く。
 「ほな」
 が首を縦に振るのを見た明里はにこりと笑い、を襖の内側に押し込んでぴしゃりと閉めた。


 は襖がきちんと閉まっていることを確認すると、自分も羽織を脱いで着替えだした。
 別に覗いたりする趣味はないし、こちらだって覗かれたら困る。それに今襖が閉まる瞬間にちらりと見えた限りでも、神谷は豪奢な絵の 描かれた屏風の向こう側にいたようで、こちらからはまったく見えない位置にいた。
 渡されたものに着替えていると、真ん中に紐の付いている白い布があるのに気がついた。はその両端を持って広げて見る。
 (多分コレ…被るものだろうなあ)
 はその白い布を被り、顎の下で紐を結んだ。これで渡されたものを全て身につけたことになるが、後で明里にこの着方で良いのか 確認せねばならない。
 (土方さん、怒るかなあ…)
 勝手なことを、と目を吊り上げる土方の顔が目に浮かぶ。は顔の前で小さく手を合わせた。



 「山口はん? お支度よろしおすか?」
 しばらくして明里が襖の外から声を掛けてきた。
 「はい、いいです」
 は畳んだ自分の着物を手にすると襖に向き直った。


 すっと襖が開かれて、と神谷は互いの姿を視界に入れた。
 そして双方共に驚いた。

 神谷は美しき町娘の姿に。
 は中性的な尼僧の姿に。




 それぞれ、変身していた。



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