久遠の空 拾萬打記念企画  その5

ふたり静か



 土方とは、同じ部屋で寝起きしていると言っても行動はほとんど別である。
 土方は屯所である前川邸で隊の指揮や情報収集に当たっており、は朝早くから黒谷へ英吉利語の授業を受けに行く。
 は授業が終わるとたいてい真っ直ぐ屯所へ戻ってくる。土方も用事がなければ――どこかから呼び出しを受けたり “遊び”に出かけたりしなければ屯所にいる。
 さて、今宵はどちらか。






 はだいぶ冷え込むようになってきた夜道を歩いて、前川邸に戻ってきた。
 玄関から邸内に入り、すれ違う隊士たちと挨拶を交わしながら廊下を歩く。
 暗い廊下の向こう、障子が仄かに明るく照らし出されているのが目に入ると、は寒さで握っていた拳を緩めた。

 「です。ただいま戻りました」
 「入れ」
 は障子の前で膝をつくと一声掛け、返事を聞いてから中に入った。
 土方は行灯の明かりで書状を読んでいた。
 「土方さん、お食事は」
 は羽織を衣桁に掛けながら尋ねる。普段ならもう夕餉などとっくに終わっている時間だが、土方の傍らに積み重なる 書状の山、反古にされた紙くず、僅かに滲む疲労などから、は土方がまだ食事をしていないことを察した。
 「まだだ」
 土方は視線を書状から動かさずに答える。
 「ではよかったらご一緒に」
 「そうだな」
 は土方の返事を聞くと、台所へ向かった。



 は二人分の膳と茶を土方の部屋に運び込んだ。
 土方も手にしている書状を文机の上に置き、膳の前に座る。
 「いただきます」
 「ああ」
 が手を合わせて挨拶をすると、二人は箸を取り上げて食事を始めた。

 二人の食事はいたって静かだ。
 土方がに今日あったことを尋ね、それに対してがぽつぽつと答える。
 一方のも土方から隊での出来事を聞く。一応隊士であるし、土方の小姓なので知っておかねばならないこともあるからだ。
 それに、自身が情報を多く持つことが、あらゆる方面から身を守ることに繋がる。例えば町中のどこで何が起きているとの 噂が立てばその付近を黒谷への往来には使わないし、隊内で誰かが怪しい動きをしていると聞けば近寄らないように、近づかせないように 気をつける。時を越えて性別を偽り生活しているにとっては、いついかなる時も自分の素性がばれないように配慮する必要があった。


 互いに報告がてら食事を終え、温くなった茶を飲む。
 は膳を下げ、空になった急須に湯を注いできた。それぞれの湯飲みに茶がもう一度注がれる。
 土方はまた文机に向かい、書状に目を通し始めた。




 室内は寂然としており、紙がめくられる音や二人が時々軽くつく溜息すらも、すぐその静寂の中に吸い込まれる。
 しかし居心地が悪いわけではない。
 互いが互いの存在に安堵し、それぞれの用をこなす。
 口にこそ出さないが、土方もも、そんな時間が気に入っているのだ。




 風呂が沸いたと伝えられると、が先に入った。
 「お先に失礼しました」
 足早に戻ってきたは、髪を拭くのもそこそこにして土方に軽く会釈をする。
 そして障子の側に座り、自分の行灯に火を入れて本を広げた。
 は今、みなと屋から本を借りている。英吉利語の講師であるハーバーの下宿先が書葎で、貸本も行っており、 は時々ハーバーを送りがてら本を物色している。本を読んで常に文字の勉強をしているにはうってつけの環境だ。
 今は物語を借りており、それが大変面白くては夢中になって読んでいた。
 本の内容は旅好きな男が主人公で、旅の行く先であった様々な出来事を追っていくものである。 日本各地の名所や名物を紹介しつつ、時には人情にあふれ、恋物語もあり、はすっかり引き込まれていた。


 昨日読んだところに挟んだしおり代わりの紙を抜くと、は続きを読み始めた。
 ゆらめく明かりが黄色く紙面を照らす。
 元の時代からすれば明るい範囲はとても狭い。小さな炎は僅かな空気で揺れ、気がつくと油を継ぎ足さなくてはならない。
 不便と言えば不便だが、夜は本来暗いものだと改めて認識させられる。

 「…何かご用ですか?」
 は視線を感じて顔を上げた。土方が肩越しにじっとこちらを見ている。
 土方はふっと笑うだけで何も言わない。
 「お茶のお代わりですか?」
 「いいや」
 くっと口の端を上げ、土方はを見つめている。
 はきっと土方は自分に用事があるに違いないのにと思いながら本に目を落とした。


 土方の視線を感じつつも本を読んでいたは、ぽたりと小さな音がしたのに気がついた。
 音がした先を見下ろすと、髪から垂れた滴が読んでいる紙面に落ち、印刷が僅かに滲んでしまった。
 「あっ…」
 は急いで肩から手拭いを引き抜くと紙の上から手拭いを押し当てた。そっと手拭いを持ち上げてみると、 被害は最小限にくいとめられたようではほっとした。

 く、と薄闇の向こうから笑い声が聞こえ、土方が立ち上がっての側に来た。
 「だろうなと思ったぜ」
 「え」
 土方はの手拭いを横から取り、の前にある行灯を横にずらした。
 「後ろ向け」
 「はい?」
 「ほら」
 土方はを後ろに向かせると、その短い髪に手拭いを当てた。

 土方は最近がすっかり読書に夢中なのに気がついていた。
 黒谷から戻ってきて食事と風呂を済ませると、すぐに本を広げている。
 土方はそんなに面白いのかと思ってが留守の間にその本をちらっと見てみた。ありきたりな旅物語だが、 にとっては興味深いものなのだろう。文章も難しくなく挿絵も適度に入っていて、読みやすいと言えば読みやすかった。
 風呂から上がって部屋に戻ってきたはすぐに行灯に火を入れて本を広げた。そのそわそわする様を見て 土方は、きっと彼女は濡れたままの髪で本を読もうとするだろう、そうすれば短い髪から滴が落ちてが慌てるだろう事は 容易に察しが付いたのである。


 大きな手と長い指が手拭い越しにの頭に触れ、髪を拭き始めた。
 些か乱暴な手つきで、の髪は四方八方に跳ねる。
 滴が飛ぶといけないのでは慌てて本を閉じた。
 だが、髪を拭いてもらうのが何だか気持ちよく感じられ、はふと気を緩めた。



 の濡れた髪が、行灯に照らされて静かに光を放つ。
 土方は指を止め、の肩に手を置いた。


 「?」
 は後ろを振り向く。
 「おしまいですか? ありがとうございました」
 は土方が自分の髪を拭き終えてくれたのだと思い、頭を下げた。その反動での肩から土方の手が滑り落ちる。
 「どうぞ土方さんもお風呂をいただいてください。遅くなっちゃいますよ」
 「…ああ」
 土方はに手拭いを渡すと、自分も支度をして風呂に入った。



 土方はかけ湯をしてからざぶりと湯につかった。心地よい熱さに目を閉じる。
 薄く目を開けると、室内は白い湯気がたゆたっていた。

 先ほど、土方はの髪をじっと見つめながら思った。
 後ろでかろうじて結べる程度の長さしかなく、女髷どころか男髷すら結うことは出来ない。

 しかし彼女の顔かたちにはとてもよく合っている。
 その髪が濡れ、顎をかたどる線に寄り添って落ちていた。
 水分を取るために跳ね上げられる髪の隙間から、湯上がりのため少しだけ開けられた襟と細い項が見えて。
 行灯の仄かな明かりに照らされて浮き上がる風呂上がりのの姿は、いつもより少しだけしなやかさを見せていた。

 時が経つと共に、は男らしい所作が身についてきた。あまりしゃべらないようにしており、話す時には声も低めにしている。
 これならばよほどのことがない限りばれはしないだろうと土方は思っていた。
 が、ふとした瞬間に垣間見える、男ならざるあの雰囲気はどうだ。
 自分は彼女が女だと知っているから、もっと言えば、惚れているからそう見えるだけなのか。
 それとも他の男たちにも同じように見えるのか。

 時々よその男から念友になってくれと頼まれているくらいだから、それなりには見えているのだろう。
 よく言って聞かせておかねばならない。絶対に人前で気を抜いてはならないと。
 どんなに男を装っていても、所詮女は女なのだ。自分や斎藤がいる時はまだともかく、一人の時に身を守りきれるとは限らない。

 土方は湯から上がると体や髪を洗いながら、にこの後どう説教しようかを考えていた。




 風呂を出た土方が部屋の障子を開くと、が本から目を上げた。
 「あ、土方さん」
 は土方が居ない間にいつもの通り布団を敷いていた。
 土方は黙ったまま文机の前に座り、書状を手にした。頬杖を突いてそれを読む振りをしながら、どう説教を始めるか切っ掛けを探す。 説教の内容は風呂場で山ほど考えてあったが、どう話し始めるかまでは思いついていなかったのだ。


 がついと立ち上がり、土方の背後に座った。
 「何だ」
 土方はじろりと肩越しにを睨み付けた。
 「さっき拭いていただいたから」
 と言っては自分の手拭いを持ち、土方の髪を手に取った。
 「余計なことすんじゃねえよ」
 土方は突き放すような口調で言ったが、は手拭いを髪の先から当て、水分を取り始めた。
 本当に嫌なら手を払われることをはわかっている。
 彼女がそれに気づいていることを土方は知っている。
 大げさなため息で、さも仕方がないから許してやっているように装いながら、土方はのするままに任せることにした。


 どう切り出すか。
 風呂上がりのお前はイイ雰囲気だとか。
 濡れた髪の伝う項とすっかり無防備な後ろ姿に、思わず手が伸びただとか。
 風呂の中では文句しか浮かばなかったのに、本人を前にしたら文句は文句でも口説き文句しか浮かばない。


 「髪は烏の濡れ羽色…でしたっけ」
 が土方の髪を束にして手拭いで包む。
 「ああ?」
 土方は先に話しかけられて、やましい気持ちを誤魔化すようにわざと不機嫌な声を出した。
 「えっと…髪が黒いことを言うんですよね、確か」
 「阿呆かお前、そりゃ女の黒髪を言うんだ」
 土方は眉を顰める。
 が言ったのは、“声は鶯 身は細柳 髪は烏の濡れ羽色”という美しい女を指す都々逸の一節だった。
 「そうだったんですか…。すみません、よく知らないで」
 「適当に使ってんじゃねえよ」
 「いつも思ってましたけど、土方さんの髪が、近くで見たらやっぱりきれいだなと思って」
 「…」
 「あ、ごめんなさい、男の人に言う言葉じゃないですよね」
 「気をつけろ。だいたいお前はくだらねえことをしたり言ったりしすぎだ」
 「はい、気をつけます」
 土方がちくりと一言刺したところで、は終わりましたと言って手拭いを除けた。


 「明日は廻り髪結いが来るんですよね」
 「ああ」
 屯所には数日に一度、廻り髪結いがやって来て隊士たちの髪を整える。土方が今夜髪を洗ったのも、明日髪結いが来るからだ。
 土方のそういうところは結構女性的ではないのかとは思ったが、心の中にしまっておいた。
 「何だ、何か言いたげだが」
 「いいえ、何も」
 「言ってみろ」
 「何でもないです」
 障子際に戻ろうとするの肩を、土方はぐっと掴んだ。
 そしてそのままこちらを向かせる。


 二人は視線を合わせた。
 その瞬間、二人の胸は同時に高鳴るが、そんな素振りは微塵も見せない。
 土方もも、己の気持ちや互いの立場は正確に理解している。
 だからこそ落ち着いたこの関係。
 は完全に己の感情を封印し、土方は小出しにすることで解消している。
 進むこともなければ引くこともない、安定した状態なのだ。




 「土方さん」
 障子の外から、小さな声がした。
 「島田さんですか?」
 は土方の手をそっと外すと障子に寄って、声の主を確かめる。
 「はい」
 島田の返事を聞くとは土方を見上げた。
 土方は軽く頷く。はそれを見て障子を開いた。


 「夜分に申し訳ありません。どうしてもご報告申し上げたいことが」
 島田は土方の側に寄ると、小声でぼそぼそと話し始めた。不逞の輩の徘徊情報だった。
 それは同じ室内にいるにも聞こえ、は黙って心の中に内容を書き留める。
 「わかった、ご苦労だった。明日早速人員を手配する。お前らは引き続き探索を続け、何かあったらすぐに知らせろ」
 土方の目に炎が宿る。
 「承知しました」
 島田は土方の指示を受けると、再び障子の外に消えていった。


 土方は文机の上の書状をまとめると箱にしまい、布団に入った。
 島田が持ち込んだ案件のため、明日の朝早くに隊士たちを選んで配置せねばならない。
 もまた行灯の火を消し、横になる。元々黒谷に行く時間は早いが、出来るだけ早起きをして土方の手伝いをしてから 出仕しようと思い、目を閉じた。




 翌朝、日の昇る頃。再び島田が土方の部屋を訪れて、ゆうべ報告した事項の続きを持ち込んだ。
 もう土方ももすっかり身支度を調えて、澄んだ空気の中、鬼の雰囲気を湛えている。
 「奴らの行動はおおかた予想通りだな。よし、、したためておいた書状を黒谷に届けろ」
 「かしこまりました」
 土方はに命令を下し、はそれに応えて前川邸を出発した。



 土方は島田と一番隊と共に現場に赴き、見事に不逞浪士どもを一網打尽にした。
 そしてが黒谷から持ち帰ってきた書状にあった情報を尋問して聞き出し、浪士を奉行所送りにした。
 聞き出した情報はの手によって黒谷へと運ばれ、一件落着と相成った。


 「お疲れ様でした」
 が土方の前に温かい茶を差し出して言う。
 「ああ」
 土方は短く返事をすると湯飲みを持ち、中身を啜った。
 も自分の湯飲みを手に取り、温度を確かめてから口をつける。



 前川邸の一室は、再び静寂に満たされた。まるで凪いだ水面のように。
 しかしその水の底には、ひとたび燃え上がれば全てを焼き尽くすまで止まない炎と、炎に付き従う陰が潜んでいるのであった。







 20090927