雨在リテ時時黒ク
数日前からしとしとと、秋の長雨が始まった。
一雨ごとに涼しくなるとはよく言ったもので、雨は緩やかに季節の移り変わりを促している。
深夜。
は水を飲みに台所へ向かった。
静かに雨が降る様子を眺めながら、廊下をきしませないようにそっと歩いてゆく。
雨が降って空気はしけっているのに喉が渇くなんて、と思いながらは土間へと下りた。
水瓶から柄杓で水をくみ、湯飲みに入れる。
湯飲みに口を付けてゆっくりと傾け、ひと口含んだ。冷たい水が口の中へ流れ込み、喉を通ってゆく。
は満足げに小さくため息をつき、台所から外へと通じる通用口を開けた。
夜で暗い上に雨で視界は悪い。
雨が地面を叩く音がひっきりなしに聞こえてくる。
は通用口の柱にもたれた。
自分はある一定の条件を含んだ自然の水に濡れ、かつ“”も同様の条件に同時に陥ったとき、互いに時代を超える。
この前は雨に当たってそうなってしまった。しかも中途半端に。
もうあの時と同じ失敗を繰り返してはならない。
やはり来たときと同じように、前川邸の池の水が光る時に飛び込むのが今のところ一番確実な方法だ。
平隊士ではなく、土方の小姓にしてもらって本当によかったと思う。
少し前に夜の巡察から戻ってきた隊士たちはずいぶんと濡れていた。
もし自分が平隊士だったら、雨中の巡察の途中に入れ替わってしまったりしないよう、また、着替えや寝る時など
女だとばれないようにもっと気を遣って日常生活を送らねばならない。気苦労は今の比ではないだろう。
その土方は、今夜まだ帰ってきていない。
朝、が黒谷に出掛ける前には部屋におり、どこかに行くとは言っていなかった。
が、黒谷から戻ってくると部屋にいなかった。が夕餉をとり、風呂から上がっても姿を見せない。
隊の仕事で出掛けているのかもしれないし、遊びに行っているのかもしれない。
近藤も居ないので、二人で出掛けた可能性もある。
は部屋に布団だけ用意して先に休んでいたのだが、途中で喉が渇いて目が覚めたのだった。
人工の明かりは何一つ見えず、底知れぬ闇の向こうには何の気配も窺えない。
夜遅く帰ってくる時もあるは、その恐ろしさを身に染みて知っている。
こんなに遅くなって、どこかで襲われたりしていないだろうか。
雨に濡れて、難儀していないだろうか。
そうなるくらいなら、どこかで遊んでいてもらった方が気が楽だとは思う。
少なくとも命に危険が及んだり、着物が濡れて汚れたりして気持ちの悪い思いをせずに済む。
自分のこの気持ちなどどうでもいい。ただ土方の無事を祈るのみだ。
通用口からは前川邸の正門が見える。
土方はきっと出先で傘と提灯を借りて、その明かりを頼りにあの門をくぐってくるに違いない。
は湯飲みの中の水を飲み終わるまで、土方を待つことにした。
しかし土方はなかなか現れなかった。雨の音を聞きながらちびちびと水を舐めているのにも限界がある。
は最後のひと口をぐっと飲み干した。
水の冷たさと雨で冷やされた空気、そして土間の涼しさが相まって、思わずふるりと体が震える。
部屋に戻ろうとは踵を返そうとした。
その時突然、後ろから誰かがに抱きついてきた。
は思わず悲鳴を上げそうになるのを堪える。抵抗しようとしたが、腕を押さえ込まれていて身動きが取れない。
いったい誰が、いつから自分を見ていたのだろう。
皆寝ていると思ってすっかり油断していた。
だが。
はすぐにその腕を振りほどくのをやめた。
自分の体を戒めるこの感触には覚えがある。それに気づいたからだ。
「…おかえりなさいませ」
は自分を抱き締めている人物に向かって言った。
体に巻き付いていた腕が一度解かれ、今度は肩の辺りに回ってきた。
はその腕に自分の手を添える。
無事に戻ってきて、よかった。
「お疲れ様でした、何かお召し上がりになりますか?」
が聞く。が、相手は頷きもせず、返事の言葉も発しない。
ふう、と吐かれたその息が酒臭い。おそらく出先で飲まされたのだろう。
いい酒ならもっと機嫌良く、少なくとも普通にしているはずなのに、一言も言わないのが彼の心情を物語っていた。
そこから察するに、仕事でやむを得ず出掛けなくてはならなくなり、付き合いで飲んできたというところか。
正門からの出入りが見えなかった上に彼が後ろから現れたということは、裏門から入ってきたのだろう。そして部屋に戻らず
ここに来た理由は―――
「お水、飲みますか?」
とは聞いた。
酒で喉が渇いて、一杯飲んでから部屋に行こうとしたのだろう。
相手は一瞬ぴくりと動いたが、の肩に頭をもたげてきた。
そしての耳元に酒の混じった息を吹きかけた。
「や、くすぐったいですよ」
くすくすとは笑って言う。
相手はお構いなしに息を吹き続ける。
がむずがゆいのを避けようと頭を傾けた。
すると相手はその反対側へと素早く移動し、の首元に頭をぐりぐりと押しつけてきた。
「もう、やめてください」
はなおもくすぐったいところだけを狙ってくる相手に、困ったような声で頼んだ。
ふと動きが止まり、の頬に相手の頬が寄せられた。
も相手に合わせて動きを止める。
の頬に、柔らかく冷えた感触が落とされた。
「…っ」
は驚いて相手から体を離そうと、相手の腕を掴んだ。
しかしその腕がなかなか外せない。
何度も力を込めるを見て、相手はくつくつと笑いながら腕を解いた。
相手はよろけながら水瓶のところまで歩いて行き、柄杓で水を掬うと手に溜めて飲んだ。
は動悸を鎮めようと胸に手を当て、ゆっくりとした呼吸を繰り返す。
口元を拭った相手は、に向かって手招きをした。ついて来いと言いたいらしい。
「あ、ちょっと待ってください」
は通用口の戸に手を掛け、そっと閉めた。戸は微かな音を立てて外部と土間を遮断した。
「お待たせいたしました」
は上がり口をのぼった。
どすどすと足音を立て、相手は先へ進む。
「肩、お貸ししましょうか?」
その足音がいささか乱れているのを聞き、は声を掛けて手を伸ばした。
が、その手は軽く払われ、相手はさらに廊下を進んでいった。
「鬼の副長がお酒に負けて小姓に肩を貸してもらって歩くのなんて、様になりませんものね」
ととっと足早に横へ並ぶと、は相手に笑いかける。
そんなところを誰かに見られたら、彼がその背に負っている鬼が消えてしまうだろう。
相手は足を止めるとのほうを向き、肩をつかむと顔を近づけてきた。
の口元に、酒の香りがほのかに漂う。
「また余計なこと言いやがったら、今度はその口塞ぐぞ」
そう言うと相手は――土方はから手を離して、また足音を立てながら部屋へと歩いて行った。
“口を塞ぐ”って。
はぽかんとしてその場に立ち尽くした。
土方さんは酔ってふざけてそう言ってるだけで、別に。
自分の気持ちが向いているほうへ都合よく解釈しては駄目だ。
は自分の頭をこつりとやった。そして足音を忍ばせながら自分も副長室へと入っていった。
すでに土方は羽織を衣桁に掛けて横になっていた。
も布団に潜り込む。
彼が無事に戻ってきたことに安堵し、つい軽口を叩いてしまった。気をつけねばならないとは反省の息を漏らした。
背を向けた土方がこほんと咳払いをする。
「いつまでも起きてねえで、早く休め」
「…はい、おやすみなさい」
その声には微塵も怒った感情は含まれているように聞こえず、はほっとして返事をした。
背を向けた二人に聞こえるのは、雨だれが屋根をたたき、草木を揺らし、地面に落ちる音。
その中にふたつの寝息が混じるまで、そう時間はかからなかった。
20090927