エンゲージメント 〜サーキットの狼たち 番外編〜誰もが吐く息を白くする二月。 東京都内某所にある大きなホテルの一室で、これから記者会見が行われようとしていた。 ひな壇の上には金色に輝く屏風。 白い布を掛けられたテーブルには豪華な花が飾られている。 その前にはパイプ椅子がぎっしりと並べられ、カメラやビデオ、レコーダーなどを持った様々なメディアの記者たちがひしめき合って座っていた。 座りきれず、椅子の回りにも多くの人間が立っている。 記者たちは本社や外部と携帯で連絡を取り合ったり、持っている機材を磨いたりしながら、今や遅しと主役の二人を待ち構えていた。 まもなく午後二時になるところで、一人の男が室内に入ってきた。 記者たちは一斉に顔を上げ、その方向に向けてレンズを向け、フラッシュをたく。 男はひな壇の横に据えられたマイクの前に立ち、こほんとひとつ咳払いをしてマイクのスイッチを入れた。 「本日はお忙しい中お集まりいただきまして誠にありがとうございます」 イタリア製の仕立てのいいスーツに身を包んだその男は、Mibroレーシングディレクターの土方歳三である。 「平素は当チームへの“格別の”お引き立て、チーム一同心より感謝しております」 一部分だけを誇張した土方の物言いに、記者たちからはどっと笑いが起こった。 チームMibroは日本で初めてのF1レース優勝者を輩出し、チームもドライバーもここ数年優勝を独占している。 そうなればマスコミに追い回されるのは世の常だ。ドライバーたちは特に仕事でもプライベートでも取材陣につけ狙われ、 話題―――特にゴシップ系の―――がないか、周囲を探られていた。頂点に立つものでも普通の人間であることを知りたいのか、 やっかみ半分からなのかはわからない。 しかしレース以外でも有能なこのディレクターは、ドライバーを守るためにあらゆる手段を講じて マスコミと水面下の対決をしてきた。皮肉が混じった土方の口調に、場内の皆から笑いが漏れるのは当然だった。 「お集まりいただいた理由を私の口から説明する必要もないでしょう。主役たちの登場です」 土方がマイクから離れると、会場の前方にある扉が開いた。 記者席のざわめきが歓声に変わる。 目を開けているのが困難なほどのフラッシュの洪水が起こり、シャッターを切る音が会場内を埋め尽くす。 開いた扉からゆっくりと、主役たちが入ってきた。 先頭を歩くのは、Mibroレーシング監督、近藤勇。 その次にはMibroレーシングドライバーの沖田総司。 そして沖田にエスコートされて、同じくドライバーの神谷セイ。 三人はひな壇の席に静かに座った。 フラッシュがやや落ち着いてきたのを見計らい、土方が壇上の近藤に目配せをする。 近藤はそれを受け、目の前のマイクを手に取った。 「場内の皆様、お集まりいただきありがとうございます」 近藤が挨拶を述べて頭を下げる。沖田とセイもそれに倣った。 「ファックスでも申し述べた通りですが、本日は当チームより皆様にご報告がございます。この度、私の横に座るドライバーの沖田総司と神谷セイは…」 記者たちの目が、近藤の言葉に促されて一斉に二人に向けられる。 「めでたく婚約と相成りました」 再び場内はフラッシュとシャッター音で満たされ、紹介されてはにかむ沖田とセイを直撃した。 二人はまぶしさに目を細めながらも、互いに見つめ合う。 その場面がさらに撮影の的となり、延々と壇上の三人はレンズに捕らえられていた。 こほん、と土方がマイクを通して咳払いをする。 すると記者たちは水を打ったように静まりかえった。 土方がいる場で土方に逆らってはならない。それを記者たちはよく知っていた。 再び近藤がマイクを取る。 「皆様もご承知の通り、沖田と神谷は当チームの大切なドライバーです。二人とも幼い頃よりカートで経験を積み、 ステップアップし、Mibroに参加してくれました」 近藤はそう発言すると、慈愛の目で若い二人を見た。 沖田は照れくさそうに笑い、神谷は目を潤ませる。 「沖田は日本人初のレース優勝だけでなく、年間のドライバー総合優勝、そしてチームのコンストラクタータイトル獲得にも 貢献してくれています。そして神谷は日本人初の女性ドライバーとして、初出場の日本グランプリで4位をマークし、クルマの開発にも 最大限の力を発揮して、Mibroを支えております」 近藤はマイクを握り直し、厳かに言う。 「その二人がチーム内で結ばれ、日本初、いや、世界初の夫婦でのF1ドライバーとなります。どうか皆様、この二人 をこれからもよろしくお願いします」 場内は暖かな拍手に包まれ、沖田とセイを祝福した。 「では、当人たちから挨拶を」 土方が促すと、まずは沖田がマイクを握った。 「えーと…まずはお集まりくださってありがとうございます…レースより緊張しますね」 笑みの中に緊張を混じらせて話し始めた沖田に、記者席からは笑いが起こった。 「ただいまご紹介に預かったとおり、私、沖田総司は、隣にいる神谷セイと、このたび婚約することになりました」 沖田がセイを見遣る。 セイは真っ赤になって下を向いた。 「共に生死をかけた勝負の世界で戦ってきた中で、神谷さんは私にとって一筋の光でした。これからも共に歩んでいきたいと思います」 恥ずかしいのか、短めの挨拶で沖田はマイクをセイに手渡した。 セイに、その場にいる全員の視線が向けられた。 「か、神谷です」 無駄に名乗りながら、セイはマイクを通して言葉を発した。 小さく震える指を、テーブルの下で沖田がそっと掴む。 セイは沖田に目を向けた。沖田もセイを温かな目で見つめる。 二度三度と瞬きをし、セイは前を向いた。 「このたびはこのような席を設けていただき、ありがとうございます」 場は静まり返り、撮影機材が動作する音だけが聞こえてくる。 「ずうっと尊敬していた沖田先輩と、こうしてここに座っているのが夢のようです。今、とても幸せです」 頬を染めてそう語るセイに、空気が和らいでいくのを誰もが感じた。 「見守ってくださった皆様に、心から感謝したいと思います。亡き兄も祝福してくれていると思います。 これからも、チーム共々、よろしくお願いします」 ぺこりと頭を下げると、神谷はマイクを置いた。 「…では、皆様からご質問などございましたらどうぞ」 土方が口の端だけで笑みを湛えながら言った。 すると、その途端に記者たちは二人に次々と質問を浴びせかけてきた。 いつから互いを意識し始めたのか。 付き合うきっかけは何だったのか。 いつプロポーズしたのか。 まるで解き放たれた野獣が獲物を捕らえたかのようなその光景に、沖田もセイも思わず笑いが漏れる。 二人はここに至るまでの経過を、頭の中で思い浮かべた。 “恋の神谷杯争奪戦”に最初に名乗りを上げたのは、実は沖田でも斉藤でもなく、中村五郎だった。 中村はライバルのチームEdgeに所属する新人ドライバーで、監督の伊東甲子太郎の弟・三木三郎が首になったのを 受けてシートを獲得した。セイと同じく日本グランプリでデビューし、若く力強い走りを見せたものの、 “神速の領域”に達したセイに適うべくもなく、8位入賞に一歩届かなかった。 しかし翌年はシーズンオフにかなりのトレーニングを積んできたらしく、初戦から快調な走りを見せ、見事に5位入賞を果たす。 そこから毎回のように一桁の順位を保ち、若手ドライバーの中で今もっとも注目を集めていた。 中村は、Mibroのコース上のライバルであると同時に、恋のライバルでもあった。 セイより僅かに遅れてカートに参戦した中村は、ずっとセイの背中を追い続けてきた。 自動車レースの頂点であるF1に上り詰めたら必ずセイにプロポーズをする、そう心に決めていたのである。 そして中村はそれを実行した。 デビュー戦の当日、コース上でセイに告白したのである。 これには当事者であるセイも、そこに居合わせた土方も、中村の監督である伊東も目を丸くせずにいられなかった。 勝ったら俺の嫁になれ、と意気込んだ中村だったが、結果としてはセイに後方から一瞬で抜かされてしまった。 が、事態はそれだけで収まらなかったのである。 Mibroがドライバーもチームも優勝という完全勝利を収めたシーズンが終わっても、 日本人初の女性ドライバーで、しかも初戦で4位入賞を果たしたセイには取材が相次いで入っていた。 そこを狙って中村はセイに猛アタックを掛けてきた。 取材のために出入りするビルの出入り口に張り込み、セイが出てくると声を掛ける。 トレーニングが終わって帰宅しようとすれば家の前にいる。 携帯には山のようにメールが届き、着信も頻繁になっていた。 中村にしてみれば悪意はない。純粋に気持ちを伝えているだけだ。 それがわかっていたから、セイも強くは出ずにいた。 しかし、世界に躍進するトップドライバーやそのチームメイトにスキャンダルやゴシップの話題は厳禁である。 とある日、一日の予定を消化したセイは、斉藤に車で送ってもらい、自宅のマンションに戻ってきた。 マンションの入り口が見える、少し離れたところで車を止めてもらい、セイが斉藤の車から降りようとした時だった。 マンションの前に、中村がいるのが見えた。 そしてその後ろの植え込みに、カメラのレンズらしきものが光るのも。 セイは着信履歴から中村の携帯に電話をかけ、斉藤と共に中村を誘導して記者を撒き、マンションから離れさせた。 そのまま細い路地裏で中村を拾うと、三人は斉藤の知り合いの店に入った。 斉藤は中村の気持ちを充分に理解した上で、中村にF1で走る者の心得を説いた。 レースで走り、勝利するだけがレーサーではない。プライベートでも細心の注意を払い、決してチームの迷惑になるような 行動をしてはならないと。今回はたまたま現場を押さえられなかったからよかったものの、もしマンションの前でセイに声を かけているところを激写されたら、自分のチームだけでなくよそのチームに、ひいては惚れているセイにもゴシップ記者の手が 及ぶことを、ゆっくりと時間をかけて話した。 中村は自分の行動がそのようなことに繋がるとは全く思っていなかったようだ。 厳しいレースの世界に身をねじ込んだことで浮かれてしまっていた中村は、同じ世界で長く経験を積んできた斉藤の言葉に 素直に頷き、今後は行動を慎むことを約束した。 しかし、この密会が翌日のスポーツ新聞の一面を飾ってしまった。 撒いたはずの記者が執念深く斉藤の車を追っており、三人が店に出入りするところをスクープしてしまったのである。 ―――チームを越えた三角関係か。 ―――このシーズンオフは若き世代に大注目。 そんな見出しがでかでかと紙面を横切っていた。 セイと斉藤はすぐさま本社にある近藤の部屋に呼び出され、近藤と土方の詮議を受けた。 斉藤は、三人で店に入ったのは間違いないこと、そして自分の気持ちが新聞に書き立てられているとおりだということを、 事も無げに打ち明けた。 「職場内恋愛を禁止するつもりは毛頭ないし、今回のことはただの結果だとわかっているが」 と近藤は前置きした上で、二人にさらなる行動の自粛を求めた。 斉藤は重々しく頷き、セイはまさか斉藤が自分にそのような気持ちを向けていたとはと、混乱しながら俯いた。 土方は黙って話を聞いていたが、二人が部屋を退出する前にセイから中村の携帯番号を聞き出してメモを取った。 セイが近藤の部屋から出ようとした時に後ろをちらりと振り返ると、土方がコードレス電話の受話器を取るのが見えた。 その横顔の目が笑っていない。 セイはこれから土方が電話をするであろう相手が誰なのか、そして何を言われるのかを悟り、心の中で合掌した。 セイと斉藤が部屋を出ると、廊下で沖田が壁にもたれていた。 二人をちらりと見ると沖田はずかずかとセイに向かって歩いてきて、 セイの腕を掴んで駆け出した。 沖田は新聞を見て、居ても立ってもいられなくなった自分に気づいた。 思い慕う相手が別の男たちとの噂を立てられて、頭に血が上る。 その途端、沖田の足は自然と本社へ向かっていた。 きっと近藤たちに呼び出されていると予想して。 その後の沖田は、もう止まらなかった。 トレーニングやスポンサーへの挨拶回りには必ずセイと共に行動し、僅かな休みもセイと過ごした。 斉藤には以前から宣戦布告済みだったが、近藤と土方にも自分の気持ちを打ち明けて堂々としていた。 彼の走りそのままの、真っ直ぐでクリーンな勝負。 斉藤もそれを受けて立った。 二人の真ん中でとまどっていたセイも、真剣な男たちの態度にだんだんと感化されていった。 晩秋から冬になり、暗い夜空に星が美しく瞬く年末。 三人の関係に決着をつける時がやって来た。 沖田と斉藤はそれぞれセイと観覧車に乗り、自らの気持ちを小さな指輪に託してセイに差し出した。 摩天楼のイルミネーションを見下ろす大きな観覧車がゆっくりと回る中で、セイが受け取ったのは。 沖田の、指輪だった。 そこからはとんとん拍子に話が進み、あっという間に記者会見の席まで設けられた。 土方と、潔く身を引いた斉藤の鉄壁のガードが功を奏し、沖田と神谷が付き合っていることはうっすらと感づかれていたものの、 婚約したこと自体はマスコミに記者会見を行うファックスを流すまで完全に漏れることはなかった。 ここでもチームワークのよさが遺憾なく発揮されたのである。 記者たちの質問にひとつずつ答えながら、沖田とセイは何度も目を合わせた。 テーブルの下ではまだ手が繋がれている。 「ずばり、プロポーズの言葉を教えてください!」 記者の一人から、誰もが知りたい質問が飛びだした。 「それは…」 セイがマイクを取る。 場は再び水を打ったような静けさに包まれた。 「二人だけの秘密です」 横からマイクを奪い取り、沖田がセイの肩を抱いて笑いながら答えた。 「ええ、沖田さん、そりゃあ殺生な!」 「是非お伺いしたいです、いったいどんな言葉で神谷さんの心を浚っていったんですか?」 「ファンの皆さんも知りたいと思ってますよ!」 記者たちの間から溜息と野次めいた言葉が飛んできた。 「えー、ではそろそろお開きの時間とさせていただきます。本日は皆様、大変ご足労様でした」 くつくつと喉の奥で笑いながら、土方が場内に記者会見の終わりを告げた。 記者たちはぶつぶつと文句を言いながらも、退出していく沖田たちに祝福の言葉とフラッシュの洪水を投げかけた。 「あれでよかったんですか土方さん、ちょっとやり過ぎじゃ…」 控え室に戻りながら沖田が苦笑いを浮かべる。 「馬鹿言え、お前らをゴシップ野郎どもから守るのにどんだけ苦労したと思ってる? あれぐれえしたって罰は当たらねえよ」 勝利の笑みを浮かべ、土方はネクタイを緩めた。 「ははは、歳に任せておけば何も心配はいらないさ。そうだろう、神谷君」 近藤も土方と同じような笑みを見せ、セイの方を向いた。きっと近藤も二人を守るために手を尽くしていたのだろう。 「まあ…そうかもしれませんね」 ははっと乾いた笑いを漏らし、左手の薬指に手をやった。 沖田の走りには、昔から魅了されていた。 そしてその本人にも。 あまりにも鮮やかに自分の心を奪い取って。 セイは沖田を見上げる。 沖田もセイと目を合わせた。 今までも、これからも、この人と走ってゆく。 人生という長い道は、コースのように舗装されてはいない。 それでも二人で手を携え、風を切っていけるだろう。 どんな悪路でも、この人とならきっと乗り越えていける。 セイも沖田も互いに確信しながら、どちらかともなく手を握り合った。 |