一話もの バレンタインデー・キッス
「ただいま戻りました」
は黒谷での英吉利語の授業が終わって帰営し、土方の部屋に戻ってきた。
「お帰りなさいさん。待ってたんですよ、入って入って」
を最初に出迎えたのは、部屋の主でなく沖田だった。沖田に背中を押されては部屋に入った。
真ん中に火鉢が置かれ、その前に土方が座っていた。
「土方さん、ほら、お渡しして」
「…ああ」
はその隣に座らされると、目の前に紙で包んだものを土方から差し出された。
「何ですか、これ」
それをはじっと見つめた。
「いいからやる」
土方は包みをの胸元にがさりと押し付けた。
「椿餅ですよ」
沖田は土方を挟んでと反対側に座った。
「さん、四条通に新しいお店が出来たのご存知ですか? 十四堂って言うんですけど」
「いいえ」
は紙包みに手を伸ばしながら答えた。
「そこのお店のご主人が、いつだかの十四日の夜に、夢に恵比寿様が現れて甘味屋を開くようにお告げになったとかでそんな名前になったんだそうです。
そこで夢を見た日にあやかって、毎月十四日に季節の甘味を個数限定で売ることにしているんですって」
先月は雪の白さと若草の緑を模したきんとんで、今月はこの椿餅なのだと沖田は言った。
紙包みに指先が触れた瞬間、ぴたりとの手が止まった。
「…今日、十四日でしたっけ?」
「ああ」
受け取る手を止めたを、土方は訝しげな目で見た。
「一番隊は夕方からの巡察だったんで、開店と同時にお店に着くように行ったんですよ。そうしたら土方さんまでいたんで一緒に買ってきたんです」
沖田が土方をちらりと見て笑みを浮かべた。
「人聞きの悪いこと言うんじゃねえ。俺はただの散歩だ」
土方が眉間に皺を寄せて続けた。土方は昨日のうちに仕事があらかた片付いていたため、朝餉が終わってが黒谷に行った後、
ぶらぶらと散歩に出かけた。そしてたまたま十四堂で買い物を終えて店から出てきた沖田と行き会ったのである。
「おいしいから、さんにおひとつお土産で買っていったらどうですかってお勧めしたんですよ」
「総司お前、店から出てきた途端に食ってやがったな。少しは鬼の新選組の一番隊組長らしくしねえか」
「だって一ヶ月に一度の待ち遠しい日ですよ? 土方さんだって同じ気持ちになりませんか?」
「俺はお前じゃねえ。それより、さっさと受け取らねえか」
沖田との問答を打ち切って土方はを見た。
は未だ紙包みを受け取らずに手を宙に浮かせたままだった。
「あ、はい。ありがとうございます…」
は包みを受け取って礼を述べた。が、土方はその表情が僅かに固いのに気がついた。
沖田はこれから巡察があるからと自分の部屋に戻っていった。
は台所に向かい、茶を淹れてきた。
「土方さんもおひとついかがですか?」
包みの中には椿餅が二つ入っていた。はそのうちひとつを懐紙に載せ、茶と共に土方の前に差し出した。
「ああ、もらおうか」
夕餉の前で小腹が空いていたし、彼女と二人でこうした時間を過ごすのも悪くないと思い、土方は餅の載った懐紙を手にした。
は懐紙を目の高さまで持ち上げて、椿餅をしげしげと眺めた。
茶色い餅が、緑濃い椿の葉で上下を挟まれている。
上の葉をはがすと、かすかに八つ橋のような香りが上がってきた。
付属の楊枝を手に取り、餅の真ん中を切る。
先ほどの香りが少し強く立ち上ってきた。おそらく肉桂(ニッキ)だろう。
断面の中央にはこしあんが小さく丸まって入っていた。
切った片方を楊枝に刺し、口に運んだ。
肉桂の香りが口の中に広がる。
餅の柔らかな食感とあんの甘み、肉桂の香りが絡まって、喉の奥にそっと滑り落ちていった。
もう片方も味わって食べ、懐紙に楊枝を包んだは茶を一口飲んだ。
一日の仕事が終わった後に、ゆっくりと甘いものを口にして、肩の力が抜ける。
「土方さん、ありがとうございました。おいくらでしたか? お金払います」
は茶を置くと、財布を取り出そうと懐を探った。
「あ? それぐらい別に構わねえよ」
食べ終わって茶を飲んでいた土方が呟く。
「でも、限定なんて高くなかったですか?」
「高かねえよ、そんなちっけえ餅。つべこべ言わずに財布しまえ」
「じゃあ…今回はご馳走になります」
はぺこりと頭を下げ、取り出した財布を再び懐にしまった。
薄暗い部屋に、茶から立ち上る湯気が白く浮き上がる。
「お前、さっき何で受け取るのをとまどった?」
「えっ?」
は土方の問いかけに、眺めていた湯飲みから顔を上げた。
「俺が餅を出した時、受け取ろうとして手を止めただろ」
「あ…はい…」
ついとは土方から視線を逸らした。
土方はじろりとを見た。彼女がこういう態度を取る時は、決まって何かを隠しているのだとわかっている。
「元の時代に関係あることか?」
このまま黙っているとそのままになりそうだったので、土方は自分から話を促した。
「…どうしてわかるんですか?」
は目を丸くして土方を見た。
「お見通しだ」
その様子がおかしくて、くっと土方は笑った。
ふう、と息を吐いては話し始めた。
「元の時代では、二月の十四日に贈り物をする習慣があるんです」
「何だ、お前のいた時代はやたらと日付で贈り物をしやがんだな」
「ええ、まあそんなものです」
「で? それから?」
「…えっと…」
「全部吐け。二月十四日の贈り物の習慣とやらを」
「…その贈り物は、…好きな人にするんです」
「ブッ、馬鹿、お、俺はそんな意味ねえよ!」
「女の人から男の人にですよ。他にもお義理であげるとか、女の子の友達同士で交換するとか、自分用に買う人もいます」
「それを早く言え」
「でも、最近では男の人から女の人に愛を告白するためにあげるという場合も」
「あるのかよ!」
はあ、と土方はため息を吐き出した。
「…言っとくが、俺はそんなこと考えてねえからな」
「わかってます」
つまらないことを聞いたと土方は後悔した。
自分が慌てたところを見せてしまったのに、彼女の答えがあまりにも冷静なのも気に入らない。
少し困らせてやろうと思い、土方はの肩を掴んで畳に押し倒した。
「っ、土方さん?」
「だいたいお前はいつもすましてばかりで面白味がねえ。たまには笑ってみやがれ」
「はい?」
すましているつもりはないんだけれども、とは首をかしげた。
が、次の瞬間、土方の思わぬ行動に体を強張らせた。
「や、やめてくださ、ひ、土方さんっ」
土方の手がのわき腹に伸び、いきなりくすぐり始めたのだ。
「ほら、少しは笑ってみろ」
「ちょっ、そんな無理やり」
「笑ったらやめてやるが?」
「やっ、土方さん、ほんとにやめっ…」
は体を捻って横を向く。
が、土方はお構い無しにの体のあちこちをくすぐりまくった。
「やめてください、ふ、勘弁して」
とうとうがくすくすと笑い出した。
「まだまだだな。もっと笑え、この野郎」
土方は意地悪く口の端をつり上げて、ますますを笑わせようとくすぐった。
「もう、やめっ、お願いしますっ」
堪えきれずに笑い声を挟みながら、は土方の手を掴んでどかそうとする。
しかし男の力に敵うべくもない。なすすべもないまま、されるがままになってしまった。
「…ひどい、です」
やっと土方がから手をどけると、は息も絶え絶えといった様子で畳に突っ伏した。
「お前は笑わなすぎなんだ。笑う門には福来るって言うだろ。ありがたく思え」
土方はを抱えたまま、くつくつと喉の奥で笑った。
「土方さんは、鬼です…」
「鬼で結構」
「もうこんなこと」
しないでくださいねと、目を合わせて言おうとしてが上を向いたその時。
間近にあった土方の顔と、の顔が触れて。
互いの唇を、掠めた。
「あ」
「お」
それぞれが口元を手で押さえた。
「ご…ごめんなさい…」
今のは間違いなく、触れてしまった。しかも自分が動いたせいで。
くすぐられて上気していたの顔は、一瞬で青ざめた。
「俺こそ、悪かった」
近づきすぎたな、と土方は言った。
どうしよう。
偶然とはいえ許嫁のいる人に、何てことを。
は口元を押さえたまま土方から目を逸らした。
「気にすんな。たまたまだろ。それにこれぐらい、手え触ったのと同じだと思えばいいじゃねえか」
皮膚の表面が触れただけ、ということを考えれば土方の考えは当たっている。
しかし唇と唇が触れることはまた別だ。
それは、好き合っているもの同士がすること。
「…こっち向け」
ため息と共に土方がに言う。
はまだ口を隠しながら、おそるおそる上を向いた。
その手をどけると、つい、と土方の手がの顎を取った。
「何なら、ちゃんとするか?」
土方はニヤリと笑う。
「っ、土方さん、からかうのもいい加減にしてください」
はぐっと両手で土方の胸元を押し、彼との距離を取った。さすがに少しは頭にきたらしい。
「まあ今のことは忘れろ。夕餉が出来たか見て来い」
体を起こした土方は、の手を引いて彼女の体も起き上がらせた。
「はい…」
畳に手をついてすっと立ち上がると、は足早に台所へと向かった。
は、廊下の角を曲がったところでへたりと座り込んだ。
「あー…もう…」
頭を抱えて目を瞑る。
時々、暦で日にちを確認しているが、元の時代にはこの日にどんなイベントがあったかを思い出すことがある。
クリスマスの時はよかったが、今回は気持ちを伝えるバレンタインデーだ。義理であげることもあるが、余計なことはしないほうがいい。
そう自己完結して二月十四日のことを忘れていたが、まさかこのような事態になるとは夢にも思っていなかった。
長々とため息を吐き出した後に、はやっと立ち上がった。
(土方さんも忘れろって言ってくれたし、忘れることにしよう。えっと、こういう時って何て言うんだっけ…犬に噛まれたと思って、だっけ)
いや、新選組は前に“壬生浪”から転じて“壬生狼”と呼ばれていたこともあるから、この場合は狼に噛まれたと思ってが正しいのだろうかなどと
埒もないことを考えながら、は台所へ歩いていった。
がいなくなった部屋で、土方は一人で笑いを堪えていた。
(おもしれえ、あれぐらいでうろたえやがって)
たかが唇が掠ったぐらいで。
実はあれはわざとだった。土方はが振り向くのにあわせて顔を近づけ、ぎりぎり掠めるところで待っていたのだ。
他のことには慎重で、何があっても動じない彼女が、自分の罠にはやすやすとかかってしまうのがおかしくて仕方ない。
いつも自分の方だけが困ったりもやもやしたりしているのだから、たまには相手に困ってもらっても罰は当たらないだろうと土方は鼻をフンと鳴らした。
は夕餉を持って戻ってきた。
互いにしばらく黙ったままだったが、ぽつりぽつりと言葉を交わし、夜に布団を並べて寝る頃にはいつもの雰囲気に戻った。
遠のいて、近づいて。
二人の距離は、まだまだ揺れる。
意思を持ってその唇同士が重なるのは、いつの日か。
参考文献:
『暮らしの歳時記 お茶と和菓子の十二ヶ月』 鳥越美希 ピエ・ブックス 2007年
背景画像: かぼんや様
20090212 Wishing you a happy St. Valentain's Day.