時渡り、神隠し 6
「ふー・・・」
ざぶりと湯船に浸かり、は息を吐き出した。
この暖かさは本物。
つまり、いま別の時代にいるのも事実。
この状況は本当にどういうことなのだろうか。
京都に来た。ホテルに着いた。庭を歩いていたら池があった。光る様子が気になったので覗き込んだ。足を滑らせて落ちた。
そうしたら。
全く別の時代に出てきて、いきなり刀を突きつけられて、取調べのように座らされて・・・
ここはそもそも、いつの時代でどこなのだろう。
あの二人の姿形からすると、江戸時代辺りだろうか。
それに土方歳三、彼の名前には聞き覚えがある。
こんなことなら、もっとまじめに歴史の授業を受けておくべきだった。
・・・いや、こうなることを想定して勉強する者などいるわけない。
どうやったら戻れるのか。
一緒に京都へ来た母は心配しているだろう。
そして、自分と入れ違うようにして消えたという斎藤の従兄弟。
会ったことのない他人ながら、どこでどうしているだろうと気になる。
何もかもがどうしていいのかわからない。
土方の言うように、とりあえず十日待つしかない。
もしかしたら、斎藤の従兄弟が「十日ほど京都に滞在する」と言ったのが期限で、十日経ったら戻れるかもしれない。
髪についた細かい池の沈殿物を湯で流しながら、自分に言い聞かせる。
落ち着け。今は焦ってもどうにもならない。
元々着ていた服も風呂で洗い、小袖だけを簡単に体に身につけて、は風呂から出た。
そして土方の部屋へと戻り、土方の指示で斎藤に着物の着付けを教わった。
十日しかいないとは言っても、その間自分で服のひとつも着られないようではいけない。
どう教えたのかはわからないが、斎藤は褌のつけ方も無事に伝授したようだ。
「・・・さて」
はすっかりこの時代の外身に改めて正座した。
その前に土方と斎藤が同じく座る。
「髷が結えないのは仕方ないが、その他はまぁまぁだな」
「ですな」
しげしげとを眺めて二人は感想を漏らした。
髪は土方の言うように髷が結えるような長さではないが、まとめてすっきりさせた。
着物の着心地は悪くない。襟元は先ほど斎藤にきちんと締めてもらったし、袖から入る空気も思ったより遮断されている。
黙って静かにしていれば、彼女が別の時代から来たとバレはしないだろう。
「近藤さんだけには挨拶しておいたほうがいいな」
「そうですな」
土方と斎藤が顔を見合わせて言った。
「近藤、さん」
も会話の中に出てきた人物の名前を復唱した。
「俺たちのいるこの“壬生浪士組”の頭だ」
土方が誇らしげに言った。
「壬生浪士組・・・」
「京都守護職松平肥後守御預、壬生浪士組だ」
斎藤がの目を見て言った。
京都守護職とは何だろう、とは首を傾げた。
「すみません、今、何年ですか?」
ふと思い立ち、は斎藤の視線を受け止めて聞いた。
「文久三年だ」
和暦だ。文久三年とは西暦では何年だろう。
「えーと・・・」
何を聞いたら一番いいだろうか。下手に歴史上の人物の名を出して、そこから今いる時代の歴史に影響を与えてもいけない。
だが、聞かなければ現在の状況をより多く入手することはできない。
「・・・源頼朝、知ってますか?」
は探るように聞いた。
「あぁ、知ってる」
土方が鷹揚に答えた。
「今の徳川将軍は十四代、家茂公であらせられる」
の質問の意図をすばやく理解した斎藤が静かに口にした。
「徳川将軍・・・やはり江戸時代・・・」
自分の考えが当たっていた事には少しだけ安堵したが、それでも何かが変わるわけではない。
「じゃ、行くか」
土方が畳に片手をついて腰を上げる。続いて斎藤も無言で立ち上がった。
も彼らの後ろに従って廊下に出る。
「近藤さん、俺だ」
すぐ隣の部屋の前に立ち、一言断ってから土方は障子を開けて中に入った。
が、部屋の主は中におらず。
「どこ行ったんだ?」
今日は特に外出の予定はなかったはずだが、と土方は頭の中で本日の日程を確認した。
ちょうどその時、庭のほうから話し声がしてきた。
「面白いものですな、あのようなところに出口があるとは」
「そうでっしゃろ?私も前川はんから教えてもろたときには感心して・・・」
「近藤さん」
土方が声をかけた。
庭の向こうから井戸の側を通って、近藤と呼ばれた人物が手を上げて歩いてきた。
「おお、トシ、斎藤君。・・・お客人か?」
二人の隣に知らない者がいるのを確認した近藤は、を見て尋ねた。
「私の従兄弟で、播州明石藩足軽の三男、山口と申します」
斎藤がすっと出てきて紹介した。そしてに挨拶するよう目配せをした。
「や、山口、です。よろしくお願いします」
名前を間違えないように注意しながらはの名を名乗り、頭を下げた。
「私が京師にやって来たことを知り面会に来たのですが、浪士組の趣旨を理解して、後学の為しばし滞在したいと」
まるで台本でも読むかのように斎藤はすらすらと説明を口にした。
その様子に、事の当事者であるも、そして土方もあっけにとられた。
「そうかそうか、どうぞゆるりと過ごされよ。仕事が仕事ゆえ、あまりおもてなしはできないが・・・おっと、自己紹介が遅れたな。私は壬生浪士組を預かる局長の近藤勇と申す」
近藤は嬉しそうに破顔した。
高く頑丈そうな頬骨。意思の強そうな口元。一部の隙もなく結い上げられた髷。笑うととても細くなる目。
そして、纏っているものの上からでもわかる骨格。がっしりとした体格は柔らかい布の外側へも浮き出ていて、いかにも武術に長けている印象を与えていた。
「ところで近藤さん、どこへ行ってたんだ?」
ひとしきり挨拶が終わったところで土方が聞いた。
近藤は隣に立つ年上の男性の顔を見ながら答えた。
「八木さんに前川邸の秘密を教えてもらっていたんだ」
「秘密?」
「前の屋敷に住んでおります八木と申します。山口はん、お見知りおきを」
五十歳ぐらいだろうか、愛想よく笑いかける初老の男には会釈を返した。
「あちらに蔵が見えまっしゃろ?あの蔵には床下に隠し通路がありましてな、別のところから繋がっとるんですわ」
どこから繋がっているかは近藤はんとの秘密ですけどな、と八木は近藤の方を見ていたずらっぽく笑った。
「へぇ」
土方はいささか面白くなさそうに眉を寄せた。
「あぁそれから、前川はんから聞いた話で私はまだ見た事あらへんのどすが」
そう言うと、八木はおもむろに池を指差した。
「この池、時々光るんだそうですわ」
「えッ」
ははっとして顔を上げた。
土方と斎藤も目を見開いた。
「八木さん、それは」
斎藤が真っ先に口を開いた。
「いえね、本当に時々、何年かに一度らしいんどすが、この池が妙な色合いで光ると前川はんが申してました。特に何かあるというわけでもないそうですが」
柔らかい口調で話す八木の言葉ひとつひとつに、は自分でも異常だと思うほど過剰に神経を尖らせていた。
喉に何かが張り付いたように緊張して、頭の中が真っ白になる。
池についてもっといろいろ聞きたいのに、なぜか思考回路が停止して質問を考えられない。
「どれぐらいの頻度で光るかご存じか」
の様子を横目で見ながら土方が問うた。
「さぁ・・・先ほど申しましたように、何年かに一度としか聞いておりまへん」
「何日ぐらい・・・光っているものなのでしょうか」
やっとのことで、絞り出すようには質問を口にすることができた。
「うーん・・・ちょっと存じ上げまへんな」
すんまへん、と八木は頭を下げた。
「もしそれが本当なら是非見てみたいものですな」
斎藤は表情を崩さずに言った。
他にも幾つか前川邸についてのあれこれを語って、八木は帰っていった。
身内の気安さがあってはいけないという半ば取ってつけたような理由を近藤に説明し、が斎藤の部屋ではなく土方の部屋へ泊まることを納得させた。
たっと十日だ、それぐらいなら近藤に本当のことを言わなくても構わないだろうと土方は判断した。
客用の布団を運んでくると、部屋の隅ではきちんと正座をしていた。
池のほうへと顔を向けて。
先ほど運んでおいた夕餉にはまったく手がつけられていなかった。
「どうした、メシ食わないともたねぇぞ」
土方は埃が立たないようにそっと布団を下ろした。
「すみません、なんだか食欲がなくて・・・」
は一瞬だけ土方の方へ視線を向けて、またすぐ池へと戻した。
「いつ光るかはわからねぇんだ、少しでもいいから食っとけ。もし光ったときに池まで走る体力がなかったら困るだろ」
そう言うと土方は、膳をもう少しだけに近づけた。
「はい・・・」
は返事をして箸を手に持った。土方の言うことは最もだった。
正直、たいした献立ではなかった。
麦入りの飯にわずかに実の浮かんだ味噌汁。そして漬物二種類が数枚と野菜の煮付け。
いただきますと小さな声で言い、は汁椀から口をつけた。
薄めの出汁に薄めの味噌。でも間違いなく日本の味だった。
麦入りの飯はやや固めだったが炊き立てのようで美味しい。
漬物を一枚箸で取り、口に運ぶ。
ぽりぽりと音を立てて咀嚼すると、塩味が広がった。
「うまいだろ、それ」
土方もいつのまにか膳を運んできて、の前で食事を始めた。
「はい、おいしいです」
「俺の親戚から譲ってもらったもんだ」
土方も向こうが透けて見えるほど薄い漬物を箸でつまんで口に放り込む。
しんとした室内にかすかに聞こえる漬物を咀嚼する音。
「・・・俺たちもこっちに来たばかりでな、今日はたいしたことなかったが明日はまた忙しい」
飯椀を手にして土方は話しかけた。
「俺や斎藤がいない間に池が光っても挨拶はいらねぇからな」
遠慮しないで帰っていいぞ、ということらしい。
「はい・・・ありがとうございます」
土方の気持ちを正確に理解したは口元を緩めた。
彼女がここに現れてから初めての笑顔だった。
とても微かなものではあったが、土方は見逃さなかった。
やっと笑ったな。
土方は次々と膳のもの口に運びながらそう思った。
20070702