時渡り、神隠し 5
斎藤は風呂の支度を黙々としていた。
従兄弟の山口は、斎藤の叔母の子である。は三男で、頭脳明晰で物静かな長兄と武芸全般に秀でた次兄、快活でやはり頭の回転の速い姉が上にいる。
家督を継ぐ可能性も低く、武家の子息としての資質もごくごく平凡なは、それでも優秀な兄たちに追いつこうと必死だった。
だが、先に生まれて先に物事を会得した者に評価は傾き、同じことができるようになっても、への言葉は彼が望むほどの賞賛を含まなかった。
自然に、は自分自身への評価を落としていく事になる。
そこへ現れたのが斎藤一だった。
父親と二人で江戸から明石までの母を訪ねてきたのだった。
再会を懐かしんだ後、しばし皆で歓談した。
しかし、時勢や武林の話でも一段高いレベルの話をされ、には理解できない事もあった。
厠へ立つふりをして、会話の聞こえない庭の隅へ行った。
虫が静かに鳴いているそこで、膝を抱えて座り込む。
冷えた夜の空気が、己の劣等感に気持ちよかった。
「そこで何をしている?」
頭の上から声がして、そちらを向いてみるとを見下ろす斎藤がいた。
「・・・俺にはわからない話だから」
はそう言って顔を下へ向けた。
「いつもそうなんだ。父上や兄上たちの話には、どーしてもついていけないんだ」
自嘲を口元に浮かべ、はぽつりと言った。
「・・・俺だって、頑張ってるのに・・・っ」
誰も己の価値を認めてくれないのだと。
従兄弟といえど、初めて会った相手に今までひとりで抱えていた気持ちを零してしまった。
「・・・アンタはそのままでいいと思うがな」
斎藤もの隣に同じように座った。
「・・・」
「アンタはアンタなりにやればいい。誰も評価してくれないからと言って、アンタの価値が下がるわけでもあるまい」
「・・・!」
その言葉は、の心に鋭く突き刺さった。
心の底に己の存在を繋ぎ止める楔のように。
今初めて、自分の表面的な部分と内面の奥底に眠る部分が合致したような気がした。
「っ・・・」
の目から涙がぽろりぽろりと零れ落ちた。
にとっては、それはあるいは心の鱗であったかもしれない。
それ以来、は斎藤の事を“はじめ兄ぃ”と呼んで何度も文を交わしたり、時には行き来するようになった。
纏わりつかれるのが鬱陶しいこともあったが、自分を純粋に信じて育っていく従兄弟を見て、斎藤は嬉しくもあった。
他人の背中を追うことに必死で己を見失っていたが、本来の明るい姿を取り戻したのは喜ぶべき事であろう。
しかし状況は一変した。
自分を訪ねてやってきた従兄弟が消え、消えたところからまったくの別人が現れたのだ。
一体は今どこにいるのだろう?
今いる、従兄弟と似ている彼女は何者なのだ?
「斎藤」
火をくべている斎藤に話し掛けたのは土方だった。
そして斎藤の横に腰を下ろした。
「今、が気が付いた」
「?」
「・・・あの女の名だ」
土方は辺りの様子を窺いながら、の名を出した。
沈黙がしばし場を制する。
「・・・十日か・・・」
土方が溜息をつきながら言った。
「十日して従兄弟が戻ってこなかったらどうすんだ」
斎藤が薪を火に投げ込むのを見ながら土方は聞いた。
「・・・その時はその時ですな」
己の手先にだけ視線を向けて斎藤が答えた。
「もし戻ってこなかったらアイツの家にどう言うんだ」
土方が再び問う。
「それもその時ですな」
斎藤も再び答えた。
参ったな、という空気が、燃え盛る火の熱気と共に二人を包み込んでゆく。
もちろん双方ともに元に戻って欲しい。だが、余りにも唐突で不可解な状況下で起きた事態をどうすることもできない。
土方が二回目の溜息をついた時、大きな水音が響いた。
はっと顔を上げて、ふたりは土方の部屋へと走っていった。
部屋の廊下から池を見遣ると、思ったとおりだった。
が池に飛び込んでいた。
「この馬鹿・・・っ」
なんとか潜っていこうとする彼女の襟首を掴んで、土方は乱暴に引き上げた。
引っ張り出されて地面に横倒しにされたは首を押さえて大きく呼吸をしていた。
「何やってんだテメェ、死にてぇのか!」
さしもの土方も堪忍袋の緒が切れて、を怒鳴りつける。
大して深くはない人造の池だから本当は入水などできるわけもないのだが、それでも彼女の行為に憤りを覚えずにいられなかった。
「す・・・みませ・・・ん、でも・・・」
は俯いて言った。
「池に落ちた時のことを考えていたら、池が光っていたのを思い出したんです」
「光る・・・?」
土方は訝しげな顔をした。
「それによく似た光り方を、今、一瞬したんで、戻れるかと思って・・・」
それで飛び込んだと言うのか。
土方は何も言えずにいた。
「あまり焦っても仕方あるまい」
斎藤が言った。
「しばらくしたら風呂が沸く。それまで冷えないようにしておいたほうがいい」
続けてそう言うと、まとめてあったの風呂敷包みから着替え一式を出し、畳の上に置いた。
「副長、何か拭くものを」
「あ、ああ」
土方は斎藤に促されて手拭いをあるだけ出した。
脱力して座り込むに手拭いを渡し、体を拭いて着替えるように言うと、斎藤は再び風呂の様子を見に行った。
ひゅう、と風が吹いた。
池から現れた時と同様にずぶ濡れになったの体を通り抜けてゆく。
まだ冬の最中でその温度は低く、体の熱を奪っていった。
体がカタカタと震え出す。
「・・・早く着替えろ」
土方はまた溜息をつきながらに言った。
は黙って頷いて体を簡単に拭き、土方の部屋に上がった。
外から土方が障子を閉める。
そして縁側に座った。
土方は目の前に佇む池を見つめた。
あの中から・・・自分の目で見て、自分の手で引っ張り上げた。
それでもまだ信じられない。一体どういうカラクリなんだ。
「・・・土方さん」
こそりと障子の開く音がして、僅かに開いた隙間からが顔を出した。
「なんだ」
「すみません・・・着物の着方がわからないんですが」
土方は瞠目した。
「わからないってお前、一応日本から来たんだよな?」
「はい・・・」
「それなのにわからないとはどういう了見だ」
「・・・日常ではあまり着ないものなので」
は困ったように眉根を寄せた。
そう言えば、確かにの着ていた服は見慣れないものだった、というか、まったく知らない服装だったと土方は思い至った。
「とりあえず着流しにしておけ」
「着流し・・・?」
「そこに小袖があるだろうが。それを左前にして、帯を締めろ」
「はい」
「きちんとした着方は後で教えるから、風呂に入るまでその格好でいろ」
「はい・・・でも、あの」
「まだ何かあるのか」
「・・・これ」
は片手に持ったものを障子の隙間からひょろりと出した。
「これ、どうやって締めるんですか?」
・・・褌だった。
20070630