穏やかに暮れる、春。
日が昇り、鶏が暁を告げる。
新選組の屯所にも朝が訪れ、皆が目覚める時間となった。
しかし春眠暁を覚えず、隊士の中にはいつまでも心地よい布団から出られずに、朝餉を食いっぱぐれる者も少なくない季節である。
今日、は講師のハーバーが体調を崩しており、黒谷への出仕が休みだった。
春の寒暖差は体の機能を翻弄し、急に倒れてもおかしくない。
昨日のハーバーもそうであった。昼頃から頭痛を訴え、今日は大事を取って休講の運びとなったのである。
はいつもより心持ちゆっくりめに朝食と掃除を済ませると、柔らかな日差しが差し込む障子の側に陣取り、繕いものを始めた。
いま繕っているのは土方の着物だ。
ゆうべ、黒谷から戻ってきたが翌日の休みを告げると、土方は自分の行李から長着を取り出してに押しつけた。
がそれを行灯の明かりに広げてみると、袖の付け根がほつれている。縫っておけ、ということらしかった。
取り立ててやることもなかったので、は朝一番で土方の着物を修繕することにした。
明るいところで確認すると、穴は二寸ぐらいの、大きめなものだった。その端から糸が切れて長く伸びている。
は伸びている糸を切った。そして針に新しい糸を通し、ほつれている箇所より少し前から縫い始めた。
雑にならないよう、縫い目を確かめながら針を進めてゆく。
時折意識だけを土方に向けると、土方は書状を読んだり書いたりと忙しそうにしている。声を掛ける隙もない。
も必要以上に話しかけることはないので、副長室は静寂に包まれる。
聞こえてくるのは、巡察の当番でない平隊士たちの話し声や、雀が飛んで戯れる声ぐらいだった。
「ひーじかーたさん、さーん」
が縫い進めている最中に、沖田がやってきた。
「あ、沖田さん。おはようございます」
日差しと同じく暖かみのある声の持ち主に、は顔を上げた。
「おはようございます」
沖田はにこやかに笑みを返した。
「何の用だ」
土方は文に視線を落としたまま、不機嫌そうな声を出す。
「用がなかったら、来ちゃいけませんか?」
沖田はその声色をまったく意にせず、土方にも笑いかける。
「神谷さんが居続けでいないし、一番隊は非番だから暇なんですよ」
「あ、例の月に三日の居続けですか」
「こっちは仕事してんだ。暇なら部屋に帰れ」
「暇だから、刀の手入れでもしようかと思って。さん、一緒にやりませんか?」
「え、あ、はい」
「総司テメェ、んなこたぁよそでやれ」
「いいじゃないですか、一人でやるの寂しいし。ねえ、さん」
「えっと…」
「人の話を聞けよ」
沖田は縁側に腰を下ろし、持参した手入れ道具を広げる。
もちょうど繕い終わったところだったので、裁縫の道具を片付けて手入れの道具を出し、沖田の横に座った。
沖田に和紙を渡され、二人はそれをくしゃくしゃと揉む。
すると土方も書状を机の上に置き、自分の大小と道具を持って縁側に出てきた。
「土方さんもお手入れするんですか?」
「気分転換だ」
「混ぜてもらいたいんでしょう、素直じゃないなあ」
「違えよ」
「ふふっ、土方さんのこういうとこ、かわいいと思いませんかさん」
「…よくわかりません」
「違うっつってんだろ、黙りやがれ。もいちいち真に受けて返すな」
「まあ、黙るっていうのには賛成ですよ」
三人は自分の前に道具を揃えると、懐紙を折って口にくわえた。
沖田が大刀を持ち、音もなく鯉口を切る。柄を握ったほうの肘をすっと引くと、銀色の刀身が鈍い光をともなって現れた。
は横目でそれを見ながら、沖田に倣って大刀を抜く。
土方も大刀の鞘を払い、自分の横にごとりと置いた。
まず目釘抜きを使い、目釘を柄から抜く。
沖田と土方は慣れた手つきで刀身と柄を分離させた。
は左手で柄を握って、反対の手で左手の甲をとんとんと何度か叩くが、いっこうに刀身が出てこない。沖田が刀を寄越すように
ちょいちょいと手で合図する。は沖田に刀を渡した。沖田が同じように柄を握ってとんとやると、刀身はすぐに柄から出てきた。
ハバキを外すと、もう刀身を飾るものはない。
よく揉んだ和紙で刀身を拭う。広げてみると、まったく使っていないの刀にも汚れはあり、薄い茶色が和紙の表面についている。
刀の表面に塗ってある油が変質してきたのかもしれない。
は沖田の手元を見た。ちらりと紙面が見え、のものよりももっと濃い――赤黒いような色が見えた。
背筋をぞわりと何かが走り、の口元の懐紙がかさりと小さな音を立てた。
紙の面を変えて刀の表面を何度か拭い、今度はきれいに洗って陰干しした柔らかい布で拭う。この布も事前に揉みほぐしてあり、
刀身に傷を付けないようになっている。
次は打粉を打った。砥石の粉末を吉野紙で丸く包み、さらにそれを綿や絹などでくるんだものを、刀身に軽く打ちつける。
は沖田と土方が打っているのをじっと見て、力加減を観察した。初めて刀身の手入れをした時には斎藤に教わったのだが、
何度か一緒に作業をした後、ひとりで手入れをした時に、打粉を打ちすぎて刀に細かい傷をつけてしまった。
それ以来は必ず誰かと手入れをし、相手の打粉の量を確認してから自分の刀に施すようにしている。
刀の表と裏の全体に薄く打った粉を布で拭う。ひと拭いするごとに光を反射させ、拭い残しがないかを確かめる。
が眩しいのをこらえて細目で刀を見ていると、横から土方が刀身の一部を指さし、残っている箇所を教えてくれた。
刀身を磨きあげたところで、袱紗をあてがって刀の傷を確認した。刃に欠けがないか、特にきっさきから三、四寸は切れ味に関わるため、
慎重に見る必要がある。
三人とも研ぎに出すような欠けや傷、錆などはなかった。
拭いに使ったのとは別の布に丁字油をつけ、ハバキを装着する辺りから鋒(きっさき)に向けて動かし、刀身全体に油を塗る。
はこの時も両隣に座る男たちの手元を見て、油の塗り具合を参考にした。油の塗り具合で失敗したことはなかったが、念のためである。
油を塗り終わると、揉んだ和紙をもう一枚取りだして刀身を茎(なかご)から鋒へ、そして鋒から茎へと往復させ、余分な油を拭い取った。
手についてしまった油を茎に撫でつけ、油膜を張る作業は終了した。
最初とは逆の手順で、ハバキをつけて柄を取り付け、目釘を打つ。
鞘を持つと鯉口部分に鋒を乗せ、鞘と刀身を水平に保つと、棟を滑らせて光る刀身を納めた。
「ふー…」
刀身に唾をとばさないためにくわえていた懐紙を口から外すと、は小さくため息をついた。重たく危険な刀の手入れは気を遣う。
「これぐらいで何ため息なんかついてやがる」
土方も懐紙を取り、を見て笑った。
「お疲れさまでした。でもまだ小刀が残ってますよ」
沖田も笑って次の刀を手にする。
は頷くと自分も大刀から小刀に持ち変えた。
三人はもう一度懐紙をくわえ、小刀の手入れに取りかかった。
「これで終わり…と」
沖田は手入れを済ませた小刀を鞘に収める。土方もも手入れを終え、道具を片づけた。
三人は揃って副長室へ入った。
「何でお前が入ってくんだ」
じろりと土方が沖田を見やる。
「仕事の邪魔はしませんよ」
沖田はにこりと微笑んで、部屋の真ん中にごろりと転がった。
土方はわざと大きく溜息をつき、文机の前に座って書状を読み始める。
は書見台に本を載せ、しおり代わりの紙を引き抜くと続きに目を通した。
しばらくすると、沖田はむくりと起きあがって部屋を出ていった。八木家の土地に作った道場で稽古があるからだ。
土方も机上の仕事を途中で切り上げ、副長自ら隊士たちに稽古をつけに道場へと向かった。
はひとりで静かに本を読み進める。
外の様子に耳を澄ませれば、稽古で上げる気合いの声が聞こえてきた。
昼餉の時間になり、稽古が終わった隊士たちが戻ってきた。土方と沖田も汗だくになって帰ってきて、井戸端で汗を流す。
二人が部屋に上がると、が膳を運んで食事の支度を調えていた。
「なんかこう、やることやったら眠くなってきました」
そう言ってごろんと沖田は畳の上に横になった。
「たかが稽古で張り切りすぎなんだよ。一番隊はともかく、他の隊の野郎どもからはテメェの稽古は厳しすぎるって評判だぞ」
土方が沖田をこづく。
「だって稽古楽しいんですもん」
くすくすと沖田が笑った。
「この陽気ですからね、お疲れの体にはお昼寝日和なんじゃないですか?」
は外に視線を移す。
青い空、白い雲。
もう冬の寒さなどどこか遠くへ行ってしまったような、ふわりとした暖かさ。
かすかに漂う花の香り。
すっかり、風光る、春。
沖田は仰向けで腹の辺りに手を組むと、目を閉じた。
土方はまた書状に目を通したり、書き物を始めた。
は読書に戻り、春めいた日差しにうとうととしながら紙面をめくった。
日が濃い色を帯びてきた頃、は土方に言われて茶を淹れた。台所から茶碗を三つ持って戻ってくると、寝息をたてる沖田に、
左三つ巴の紋が入った羽織が掛けられていた。
うららかに午後は過ぎてゆき、空に月が上る。
明日は神谷さんが居続けから戻ってくる、頼んでおいた老舗の甘味を買って、と沖田が頬を緩ませる。
人様の部屋に暇つぶしに来るんじゃねえと土方が文句を言う。
煙管を加えた土方の口元は険しいが、口調に柔らかさが混じっているような気がするのは春のせいだろうかとは茶を啜った。
土方の吐いた煙が、朧月をより霞ませる。
まろやかな月光に覆われ、静かで穏やかな一日が終わりを告げた。
20100415