インターミッション 〜ああ不憫〜
空には薄い膜のように雲がかかり、太陽の輪郭もぼんやりとしている。空気も湿っている感じがするので、これから一雨来るかもしれない。
西本願寺の太鼓楼脇にある門を出た斎藤が、その鈍い光の上がる方向に向かって歩き出そうとした時、後ろから声が掛けられた。
斎藤が振り返ると、そこにはがいた。手には風呂敷包みと傘を持っている。
「斎藤さん、おはようございます」
「」
「今日は黒谷行きですか?」
「そうだ」
「お邪魔でなければご一緒してもいいですか?」
「構わん」
「ありがとうございます」
斎藤が返事をすると、はぺこりと頭を下げて横に並んだ。
家や店の前を箒で掃き清める姿が多い中を、二人は歩く。
天気や隊内の様子など、たわいもない会話をぽつぽつとしていると、鴨川に出た。
湿った灰色の雲と川の水が、しっとりとした空気を生み出している。
そう言えば、と二人でこうして歩くのは久しぶりだと斎藤は思った。江戸へ向かう時以来だろう。
「江戸では大変だったな」
斎藤がぽつりと呟く。
「えっ…」
が斎藤を振り仰いだ。
「開成所の教授方にと望まれたのだろう、豚一公が断ってくれて助かったな」
「あ、ああ、そっちですか。はい、助かりました…」
の慌てたように言葉を濁す様子を見て、斎藤は心の中で首を傾げた。
遠い江戸まで行くという経験をしたが、に劇的な変化は見られない。
開成所の教授方にと望まれたが本人も断ったし、雇い主である一橋慶喜も江戸への派遣に否と答えた。
もし一橋公が諾とすれば嫌でも江戸で仕事をせねばならなかった。
そうなれば京を離れ、時を越えてきた女子という秘密を共有する土方と自分の元を離れ、たった一人で秘密を守っていかねばならない立場に追いやられるはずだった。
だが、今のの返事では“江戸であった大変なこと”が開成所の一件ではなさそうな感がある。
斎藤は江戸に行った時の記憶を素早く引き出してみた。
江戸へ行く途中の道、江戸に着いてからの開成所訪問、試衛館に泊まっての隊士募集。
どこをとっても、の行動に不審な点は見られない。
あるとしたら、隊士募集が一段落して土方と数日出かけたあの時か。
「江戸で、土方さんと何かあったのか」
斎藤は単刀直入に聞いてみた。
「な、何もありません」
は即答し、川のほうへと頭を向ける。
が、後ろで短く束ねられた髪の下にある首は、真っ赤に染まっていた。
(何かあったな…)
緩い川風を受けながら斎藤は思った。
江戸にいた時は忙しかったり彼女が風邪を引いていたりで気づかなかったが、何かあったらしい。
思い返せば、帰り道に品川で宿を取った時、おかしいと気づくべきだった。
風邪の看病を何故伊東に頼んだのか。
あの時はただ、伊東と土方を引き離すための彼女なりの作戦なのかと思っていたが、土方と彼女の間に何かがあったと考えれば、彼女自身が土方から逃れるために
伊東の部屋に逃げ込んだという説も成り立つ。
は黒谷までそれっきり黙りこくってしまった。
斎藤も口数は少ない。追求しない。
ただ並んで、重たい空気の中、歩を進めていった。
その日の夕方、斎藤は黒谷で公用方と顔を合わせて得た情報を持ち、副長室を訪れた。
土方も斎藤からの情報を待っていて、監察方が知らせてきた内容と照らし合わせ、今後の新選組の動きを模索する。
京で、大坂で、敵がどんな動きをするのか。それに対し、新選組はどう対処すべきなのか。
二人は次々と案を出し合った。
夕餉も忘れて話し込んでいるといつの間にか日は落ち、外は暗くなっていた。
会話が途切れてしんとした中、斎藤はぽつりという音を聞いて顔を上げる。
庭の草木が、風でない何かに揺らされている。
雨だ。
斎藤が土方に視線を向けると、あぐらをかいた膝の上に頬杖をつき、忌々しそうに眉を寄せて外を眺めている。
何が土方の心を苛立たせているのか、言うまでもない。
自然の水にずぶ濡れになれば元の世界へ帰ってしまうかもしれない彼女のことだ。
「ご心配ですか」
斎藤は平坦な声で聞いてみる。
「するかよ。出がけにちゃんと傘持ってっただろ」
土方がため息をつく。
「ですが、あまり雨が強く降ると」
「そん時は自分で何とかするだろう、ガキじゃねえんだ」
本当は気になって仕方がないくせに、それを見せない。突き放すような土方の物言いに、斎藤は閉口する。
斎藤の頭に、今朝方のの顔が思い浮かんだ。
の困惑顔と、今の土方のガキじゃねえんだという言葉が混ざり、斎藤はふと思いついた疑問を口にする。
「…ガキ扱いしない何かを、あれにしたのですか」
話し始めた時に用意してすっかり冷たくなった茶を口に運ぼうとした土方は、斎藤の質問にむせた。
「何の話だ」
「あれの様子がおかしいので、江戸であんたと何かあったのかと聞いたらゆでだこのようになってまして」
取り繕おうとする土方に、斎藤は追い打ちをかける。
土方は懐紙でわざとゆっくり口元を拭くと、またひとつ大きなため息をついて言った。
「ちょっと押し倒しただけだ」
「押し倒しただけですか」
「口も吸ったがな」
「それだけですか」
「…それ以上は追求するな」
煙草盆を引き寄せて煙管に煙草を詰めはじめた土方を見て、斎藤は推測する。
土方の言ったことは、ほぼ事実だろう。“それ以上”のことはたぶん起こっていない。
もし起こっていたら土方の返事は「追求するな」ではなく「仕方ねえだろ、やっちまったもんは」だろうし、の態度があれだけで済むとは思えない。
普段からあらゆる場面で己を戒めている彼女と土方が、旅に出て開放的になってうっかり事に及ぶとも考えづらい。
つまり、何かのはずみで土方が押し倒して、が拒んで、その場は仕舞になった。そう考えるのが妥当だろう。
「…難攻不落ですな」
斎藤もため息をついた。
「…ああ」
白い煙がまっすぐに、土方の口元から吐き出される。
少し雨が降っている程度で苛立つほど心配し、思わず押し倒してしまうほど惚れている。それは斎藤にもわかる。
しかし彼女を何事もなく、心も体も傷つけずに元の時代へ帰してやりたいと土方が思っているのも知っている。
本能と理性のせめぎ合いが男としてどれほど悩ましいことなのか、同性である斎藤には痛いほど理解できた。
「二人きりの時間など、よく我慢できるものですな」
心から同情し、斎藤は呟く。
「あいつが起きてる時はあいつが気を張ってるし、俺もそうそう暇じゃねえよ」
土方が煙管をこんと打つ。
「横で寝ていて平気ですか」
「ああ…あいつな、寝てる時無防備なんだよ。俺の側でこれでもかってほど緩んだ寝顔してやがる。それを見ると手も出せねえ」
斎藤は、深夜に仕事を片付けた土方がの隣で布団に入るところを想像した。
起きている間は隙を見せない彼女が、寝ている時だけ見せる無防備な様子。
いつ襲われても仕方ない夜中、薄暗い行灯の明かりで照らし出される安心しきった寝顔に、鬼の副長が思わず毒気を抜かれる。
「…」
細く開かれた隙間から見える目に、不憫という二文字が浮かぶ。
「哀れみの目で見るんじゃねえ」
土方が、くっと目をつり上げた。
「こんなことなら、とっとと元の時代に帰ってくれたほうが」
と土方が次の煙草に火をつけた瞬間。
ぎしりと廊下が軋んだ。
はっとして斎藤と土方がそちらを見ると、黒谷から戻ったが立っていた。
普段から無表情な顔つきが、色まで失っている。
「ただいま、戻りました…」
「…どこから聞いていた」
土方が、迂闊なことを口走った後悔を嚥下して聞く。
「わかってます、私も早く帰らなくちゃいけないことぐらい、わかってますから」
はすたすたと部屋に入り、襖を開けて勉強道具の入った風呂敷包みをしまい、着替えを出す。
「お風呂、いただいてきます」
固まる男たちを尻目に、は風呂へと向かった。
「…では、俺はこれで」
斎藤が腰を浮かせた。
「待て、あいつが戻ってくるまでここにいろ。二人で説明すればあいつだって」
土方が斎藤の肩をぐっと掴む。口元は笑っているが、その目には余裕が感じられない。
「俺がいてどうなるというのです」
斎藤はその手を振り払うと、そそくさと副長室を後にした。
長い廊下を行く背に恨めしそうな視線が飛んできたが、斎藤は無視して三番隊の部屋に滑り込んだ。
斎藤は布団に潜って考える。
はあの性格ゆえに、贈り物で機嫌を取ることも、うまいもので釣ることも出来ない。
土方の本当の気持ちを伝えてしまえばすぐ解決するのだろうが、それがもっともままならない。
いったい土方は、彼女が風呂から上がってきたらどんな釈明をするのだろう。
たったひとりこの時代に落とされたに心の拠り所を作ってやろうとして土方を焚き付けたが、土方にとっては逆に茨の道を歩ませてしまったようだ。
それに関しては斎藤も罪の意識は感じている。
が、それ以上に、切れ者で名高く女とは綺麗に遊ぶ鬼副長が、心底惚れた女を相手にどんな手腕を見せるのかが気になる。
成果は明日の朝のお楽しみと割り切り、斎藤は布団を頭までかぶった。
結局こうなる。
20101017