インターミッション 〜招かれざる客〜
それは朝からよく晴れ渡った日のことだった。と近藤は井戸の前で顔を合わせた。
「近藤局長、おはようございます」
「おはよう君。早いんだね」
近藤はもう洗い終わったからと言い、に井戸端を明け渡した。
は頭を下げて井戸の前に進み、釣瓶を使って水を汲み上げた。
汲んだ水を手ですくい、顔を洗う。その冷たさに、頭の奥から意識がはっきりしてくる。
はその心地よさにため息をつきながら手ぬぐいで顔を拭いた。
が目を開けると、近藤がこちらをじっと見つめていた。
「局長?」
は手ぬぐいを肩に掛け、首を傾げる。
「な、何でもないよ。君は今日も黒谷かい?」
近藤は急に空を見上げた。
「はい」
も返事をして、近藤と同じ方向へと視線を移す。
青い空には薄い雲が転々と散らばっていた。
「いいお天気ですね」
「ああ、そうだね」
「では」
ぺこりとは頭を下げると、土方の部屋へ戻っていった。
朝餉の後、局長室に近藤と山南、そして土方が集まり、今日の日程を確認していた。
「失礼します」
そこへが入ってきた。
「お茶をお持ちしました」
「おはよう君。おや、神谷君は? ああ、一番隊は朝の巡察か」
山南が振り返った。
「はい、今朝は私が代わりに」
茶をひとつずつ置きながら、が答える。
「そうか、君も忙しいだろうに、ありがとう」
近藤がに笑顔を向けた。
「いいえ、では黒谷へ参ります」
は畳に手をついて、丁寧に頭を下げた。
「ああ」
土方はのほうを向くことなく短い返事だけをする。
「気をつけてな、君」
「はい」
は静かに障子を閉め、局長室を退出した。
「なあトシ」
近藤が土方を見た。
「今朝、井戸で君と話したんだが、少し変わったな」
「あ?」
土方はの名が出たことに顔を上げる。
「どう言ったらいいのか…こう、ぶれが僅かになったような、そんな感じになった」
「ああ、近藤さんの言いたいこと、わかるな。もともと大きくは動かない子だけど、座ってきた感があるね」
「そうか?」
近藤と山南の言葉に土方は眉を寄せた。
しかし土方はそう言いながらも二人の話に合点がいっていた。
数日前、一緒に食事に行ってから、に変化が訪れたのに土方も気がついていた。
彼女が何も自分に返せるものがないと塞いでいたのでそれを取っ払ってやった。
いささか乱暴な手口ではあったが、それ以来は何かが剥がれ落ちたように落ち着いた。
あんなことで変わるとは、と土方は苦笑する。
「どうかしたのかい?」
山南が土方を見た。
「いいや、何でもねえ。余計な話は終わりだ、とっとと話を続けるぞ」
土方はこほんとひとつ咳払いをすると、表情を厳しいものに改めた。
は黒谷に到着すると、英吉利語の宿坊に手荷物を置き、まずは柴司の墓へと向かった。
柴の墓は黒谷で許可された会津藩の墓地の中にある。御影堂を見下ろす小高い丘の上だ。
あれから一月半になるが柴の墓には花が絶えず、若き侍の死を今でも誰もが悼んでいる。も出来る限り柴の墓に通い、
墓前で手を合わせていた。
は宿坊に戻り、室内を掃除すると庭に出た。
今日は少し早めに着いたので、庭も掃き清めることにした。
池田屋から禁門の変、どんどん焼けと来ても屯所での仕事に忙しく、英吉利語の授業に出ることが出来なかったが、
他の生徒たちもまた然りだった。市中の見廻りや復興の手伝いなどに駆り出される毎日だったからだ。
当然宿坊には人が入らず、手入れが行き届かない日が続いた。宿坊の室内は閉めきられていたので埃がある程度だったが、庭は木の葉などで雑然としていた。
竹箒がざっざっと地面をこする音を立て、木の葉が集まる。
は手を動かしながら考え事をしていた。
土方に対する気持ちに気づいてから、随分と楽になった。
土方に女性の影がちらつく度に感じていたもやもやとした感情も嫉妬だとわかった。
そんな単純なことだと割り切ってしまったら、妙にすっきりしてしまった。
自分の想いを土方に気づかれてはならない。
簡単なことだ、今まで通りに過ごしていればいい。
土方が別の女性とどうしようと、許嫁がいようとも、自分には本来妬く権利などない。
全く意識するなというのは無理だが、意識していない振りなら出来る。そうしなければいけない。
池が光って元の時代に戻るまで、ただ己の感情を黙殺していれば済むだけのことだ。
(それでも)
箒の動きが止まった。は青い空を見上げる。
誰かを想う気持ちは、何と心地よいことだろう。
無事にこの時代で生きていけるよう取りはからってくれるだけでなく、こんなに温かい感情を与えてくれるのは、間違いなく土方だ。
そう思うとますます彼への気持ちが大きくなってくる。
(この気持ちを隠し通せるか、ちょっと心配になってきたな…)
黙殺を決心したばかりなのにとは肩を竦めた。
「おい、アンタ」
とその時、は後ろから声を掛けられた。
は箒を持つ手を握り直し、ゆっくりと振り返った。
そこには、町人体の男が立っていた。
着流しの胸元を肌蹴けさせ、結い上げた髪はところどころほつれている。どこかの商家のぼんぼん、といった風体だ。
しかしはその男の目に違和感を感じた。口元は緩んでいるのに、目だけが強い光を放っている。
「どなたでしょうか」
は箒を自分の体の前に持ち、少し後ろに下がって相手と距離を取った。
「ここは会津藩の英吉利語の宿坊だろ?」
ふっと男は笑う。
隠しているわけではないが、どうして町方の者がそれを知っているのだろう。はさらに一歩下がった。
「そう警戒するなよ。アンタ、英吉利語の勉強してんだろ。俺はお前らの雇い主だ」
「えっ…」
にやにやと笑うその男を、は驚愕の目で見つめた。
は頭の中で、黒谷にて英吉利語を学ぶようにと言われた時のことを思い出した。
会津藩はさる方から学業への勤勉さを買われて英吉利語の学舎を置くように言われた、と公用方の秋月悌次郎が話していた。
今後は異国との折衝は外交の重要課題になる、今から人材を育てておかねば日本国にとって危機をもたらすとさる方が言っていたとも。
あの時秋月が言っていた「さる方」が、この男なのか。
「ちょいと近くまで来たんでね、中を見学させてもらおうと思ってさ。上がってもいいよな」
そう言うと男は玄関へ回り、さっさと式台を上がってしまった。
は箒を玄関先に置き、男の後を追った。
「へーえ、結構いい宿坊だな」
じろじろと部屋を眺めながら、男は差し出された茶を啜る。
「こちらが我々で作った辞書と、文例です」
は先だって作り上げた辞書をハーバーの部屋の襖の奥から持ってきて、男の前に置いた。ハーバーとの会話や
テキストから役立ちそうな文を拾って集めた手書きの文例集もその横に添えた。
男はそれを手に取り、ぱらぱらとめくって目を通す。
「ふーん、そこそこ真面目にやってはいるみたいだな。実際通用するかはわからないが」
ふふんと鼻を鳴らし、男は机の上に辞書と文例集を放り投げた。
はちらりとそれを見た。無造作に扱われたが、壊れたわけでも折り目がついたわけでもなく、内心ほっとする。
それから男はに、この宿坊で行われている授業の内容について事細かに質問してきた。はハーバーや他の生徒たちとの様子を丁寧に答える。男はへらへらと笑いながらの話を聞いていた。
「喉が乾いたな。おい、お茶お代わり」
「かしこまりました」
横柄な雇い主の注文に、は席を立った。
は小さな台所に向かい、沸いている湯を急須に注ぎ入れた。蒸れるのを待ちながら、は小さくため息をつく。
雇い主だと名乗るあの男は、一体何者なのだろう。雇い主であることの証拠はないが、普通なら知る由もない英吉利語の宿坊の存在を知り、こうして上がり込んであれこれ聞いてくることを考えると、あながち嘘でもなさそうだ。
だが怪しいと思う気持ちに代わりはない。早く誰か来ないだろうか。一人で応対できないわけではないが、心許ない。は茶を注ぐと盆の上に載せ、台所の入り口へと振り向いた。
目の前に、あの男が立っていた。
「っ!」
いつの間にそこにいたのだろうか、まったく気がつかなかった。
は驚いて、盆を取り落としそうになった。
「なーにそんな吃驚してんだか」
くくっと男は笑いながらに近づく。
「お茶なら今入りましたから。お持ちしますので、向こうの部屋でお待ちください」
は土間の土をじりと踏んで後じさった。
「もう茶はいいや。それより」
男はすたすたと前に出て、を壁際へと追いつめた。
「アンタ、武左じゃねえな。その前に男ですらねえだろ」
は一瞬で血の気が引いた。
盆を持つ手の感覚がない。
呼吸が浅くなり、背を嫌な汗が伝ってきた。
「私は、男です」
何故バレたのか。は動揺を押し隠しながら、真っ直ぐに男の目を見つめた。
「そんな揺れる目で見つめちゃあますます怪しいぜ。どうしてもって言い張るんなら、脱いで証拠を見せなよ」
男はの首筋に指を這わせる。
はぞわりと毛が逆立つのを感じ、盆を落とした。
ごとりと音を立てて二つの茶碗が転がり、茶が土間に広がった。
「ふん、やっぱりな。細けえ仕草や憂える後ろ姿はなかなか色っぽかったが、惚れてる野郎以外には見せねえように気をつけた方がいいぜ」
「な…っ」
動けずにいるに、男は耳元で囁いた。
は土方の姿が頭をよぎり、かあっと赤くなる。
「く、ははは!」
その様子が余程おかしかったらしく、男は体を折って笑い始めた。
はやっと体を動かせるようになり、素早く横に逃げて男から離れた。
やはりこの男、自分にとって危険だ。明確な根拠はないが、頭の奥で警鐘が鳴る。
「すいやせん、どなたかいらっしゃりやせんか!」
玄関の方で声がした。
「おっと、かくれんぼは終わりだ」
男は笑いすぎて目の端に浮かんだ涙を拭うと立ち上がった。
「俺はこう見えても面白えことが大好きでね。アンタのことも悪いようにはしねえ。名を聞こうか」
男はに向き直った。その目は新しい玩具を見つけた子どものようにきらきらと輝いている。
「山口…です」
はかすれた声で告げた。
「ふうん、ね。いい名だ」
男はに歩み寄った。
「またな」
そう言うと男はさっとの腰に手を伸ばし、尻をひと撫でした。
「っ」
は再び身の毛をよだたせ、ぺたりとそこに座り込む。
男は高笑いをしながら、宿坊を出ていった。
(な、何なのあれ…)
あの男の行動が何もかも理解不能だ。は男の笑い声が聞こえなくなると、ふーっと長い息を吐き出した。
バレた。
悪いようにはしないと言っていたが、一体何をどう悪くしないつもりなのだろう。自分が女であることを、あの男一人の胸にしまっておいてくれればそれだけでいいのだが。
はへたり込んだ足元が冷たいのに気がついた。
落とした茶碗から流れ出た茶の上に座ってしまったらしい。右足の膝から下の袴がびっしょりと濡れていた。
はまたひとつため息をつくと、確かハーバー用の着替えが彼の部屋にあったことを思い出し、それを借りようと思案した。
「若旦那、こんなところにおいでで」
男を迎えに来た者がほっとした顔を見せた。
「ああ、面白え奴に会ったぜ」
思い出し笑いをしながら男は早足で三門に向かう。
「若、肥後守様にはお会いにならないんで? そのためにお越しになったんじゃあ」
「そのつもりだったがもういい。いきなり訪ねていったら驚くだろうと思ったが、あれにはいつでも会える。そんなことより、松蔵」
「へえ」
「俺が今から言うものを用意しな」
にやにやと妙な笑みを浮かべながら、男は松蔵と呼んだ下僕らしき男に命令した。
はハーバーの着替えを借りた。丈は長すぎるのでたくし上げ、袴はなかったので着流し姿だが仕方がない。そして黒谷中を歩き回り、斉藤を探した。バレたことをすぐ斉藤に報告したかったからだ。
が、斉藤はいなかった。前に斉藤から、秋月に隠密の仕事をもらっていると聞いたことを思い出したので秋月の元も訪ねてみたが、今日は何も用を言いつけていないということだった。
は屯所へ帰る旨の書き付けを残して、宿坊を後にした。屯所に戻れば土方がいるはずだ。きっと一緒に善後策を考えてくれるに違いない。はまだ日が高くなる前の道を、急ぎ足で戻っていった。
屯所に戻り土方の部屋の障子を開くと、そこには土方と斉藤がいた。
「ひ、じかた、さん。さいと、さん」
息を切らしては座り込む。
「どうした、何かあったのか」
文机に向かっていた土方と、その傍らに座していた斉藤は、の様子に眉を寄せた。
は黒谷で起きた事の次第を土方と斉藤に話した。
二人は怒ることはしなかったが、がそれだけの隙を見せていたことだけは注意した。
「ったく、一人だからって緩んでんじゃねえよ」
「お前らしくもない」
「すみません…」
二人ともがわざとそのようなことをしたわけではないことは重々承知している。が、人目がある以上、常に気をつけていなければならないのもまた然りだった。
「その野郎がお前らの雇い主か。お前の正体を知ったところで悪いようにはしねえって、意図がまったく掴めねえな」
土方が腕を組む。
「そうですな」
斉藤も表情は変えずにいたが、何か考え込んでいる様子だ。
「相手がどこのどいつだかわからねえ以上、出方を待つしかねえだろう」
「はい…」
「そうですな」
土方の言うことが正しい。それしか出来ない。自分の名を聞かれた時、相手の名も問い返しておくべきだったとは後悔した。
その日の夕方。
の元に、ひとつの包みが届けられた。
差出人のないそれを開けてみると、中には真新しい鎖帷子が三領納められていた。細い銀の輪が無数に連なり胴を覆う形になっている。体を攻撃から守るための胴衣だ。
鎖帷子の下に、小さな守り袋があった。が手に取ってみると、袋の上からでもわかる紙の感触があった。は袋を開き、紙を取り出してみる。
「土方さん、これ、何だと思います?」
その紙に書かれている意味がわからず、は隣で一緒に包みを改めていた土方にそれを渡した。
土方は紙に目を通す。
「…お前、これ、一体…」
土方は紙から視線を上げると、驚愕の目でを見た。
紙には、
「この者、一切構うべからず」
と書かれ、その左に、
「一橋慶喜」
と添えられていた。
「禁裏守衛総督の一橋慶喜公だぞ? どこでお前を」
「ええっ、そんな、私」
禁裏守衛総督と言えば御所を守る大事な役職である。それぐらいはにもわかった。
だが、そんな人物がいつどこで自分を知ったのか。
「…あ」
の脳裏に、昼間のあの男が思い浮かんだ。
(まさかあれが…一橋慶喜公…?)
「もしかすると、もしかするかもな」
土方も同じ事を考えていたらしい。
何故あのように町人の格好をしていたのかは知らない。が、状況を考えるとあの男しかいない。はあの男がきっちりと裃に身を包んだ姿を想像することが出来なかった。
「公が何を考えているのかは俺にもさっぱりだが、これは大事にしておけ。いつか役に立つかもしれん」
土方は紙をに返した。
「はい」
は紙を守り袋に戻し、鎖帷子と一緒に包み直して自分の行李にしまい込んだ。
夕餉の時間になり、と土方は部屋に膳を据えて食事をとった。
「今回はデケえことにならなかったからよかったものの、お前は隙がありすぎる。もっと気をつけろ。何考えてた」
土方は口を動かしながらに再度釘を差した。
「はい、気をつけます。すみませんでした」
はこくりと頭を下げた。
何を、って。
あなたのことを考えていました、とは言えない。
だいたい、そんな感情にかまけていられる状況ではない。
今回のことはいい教訓になった。今後はもっと気を引き締めていかねばならない。は箸を動かしながら自分に喝を入れた。
黒谷に英吉利語の授業の場が出来る発端となったのは、一橋慶喜だった。
世に対する先見の明があった人物であることは間違いない。が、そのことがこの時代におけるの運命に道筋をつけ、ひいては新選組を、幕府軍を、そして日本国を揺るがしていくのは、まだ先の話であった。
20090821