久遠の空 ドリーム小説 インターミッション 〜言葉なく、ただ。〜

インターミッション 〜言葉なく、ただ。〜



 「申し訳ありませんが、私にはお慕いしている方がいますので」
 そう言っては目の前の相手に頭を下げた。
 相手は一瞬戸惑いを見せたが、呼び出しを断らず話を聞いてくれたことに感謝すると、に背を向けてその場を立ち去った。

 会津藩が京都守護職として陣を張る金戒光明寺。
 つぼみが膨らみかけた桜の枝が、やや重たそうに階段の上に影を落としている。
 は今日も英吉利語の授業が終わり、その影の下を歩いた。

 光明寺の隅に構えられた小さな宿坊にこっそりと出入りする自分を、いつ、どのように見かけたのかは知らない。 が、上京している会津藩の藩士に、時折声を掛けられる。衆道の相手となってはくれまいかと。
 その度にはさっき述べたような台詞を口にし、丁重に断ってきた。今回も無事に断ることが出来て、の肩からほっと力が抜ける。

 足を止め、桜の枝を見上げた。
 まだ咲きそうもない固いつぼみであるが、確実に開花へと近づいている。
 梅は咲いたか、桜はまだか。そんな歌があったような気がすると思いながら、ぼんやりと空を仰いだ。



 「
 後ろからを呼ぶ低い声がした。
 「…斉藤さん」
 ゆっくりと振り返ったは、声を聞いてすぐに斉藤だとわかっていたが、改めてその姿を目で確認した。
 「帰りか?」
 「はい」
 「では一緒に」
 「はい」
 斉藤はの横に並ぶとちらりとを見遣り、が頷くのを見ると、すたすたと歩き出した。



 「たまには付き合え」
 と斉藤は、途中でを居酒屋へと誘った。
 「私は飲みませんけどいいですか?」
 店の奥の席に座るなり酒を注文した斉藤に向かってが言った。
 「わかっている。お前はお前で好きなものを頼め」
 斉藤は酒の他にふたつみっつ、つまみになりそうなものを頼んだ。
 は茶を頼み、斉藤の注文したものを少しもらうと言って他には何も注文しなかった。

 向かい合わせで座る斉藤との前に、注文したものが運ばれてきた。店の娘が、ごゆっくりと愛想笑いを浮かべて席を離れた。
 「なかなか顔を合わせられなくてすまんな」
 斉藤がちびりと酒を舐めながら呟いた。
 「いいえ、私のほうこそ」
 は茶を啜って短く答えた。
 互いに新選組に籍を置いているものの、本当は会津藩士。そしてそれぞれに任務が課せられている。斉藤は隠密、は英吉利語の習得と、 藩と組との日常の連絡係だ。は日中ほとんど屯所にいないし、斉藤も隠密と三番隊組長の兼務で他出していることが多い。顔を合わせる時間が 少ないのは当然だった。

 「変わりは無いか」
 「はい」
 「不自由だとか、足りないだとか」
 「全くありません。お気遣いありがとうございます」
 「妙な奴に言い寄られたりとか、付きまとわれたりしていないか」
 「実はさっき、一人お断りしたばかりですけど、特には」
 「そうか」

 斉藤はじっとを見つめた。
 こちらの世界に現れてそろそろ一年が経とうとしているが、何とかうまくやってきている。土方や自分があれこれと手を回している部分もあるが、 それ以上に、本人の努力の賜物である。
 はじめは慣れぬ着物姿もぎこちなかったが、だんだんと自然に振舞えるようになってきたし、すっきりとした男らしさのようなものも身についてきた。 男所帯で暮らしているので手本には事欠かない。少し観察していれば、どのようにすれば男らしい身のこなしになるかわかるだろう。それを観察する力が彼女にはある。

 彼女は、少し痩せた。
 毎日のように会っていないからこそ、斉藤が気づいたことだ。
 斉藤は黒谷の階段でが振り向いた時にそう感じ、何かあったのかと思って食事に誘ってみた。
 男として生きている彼女が、女らしさを排除して男らしさを取り入れるためには、他人を観察する力が必要である。それと同時に、他人から自分がどのように 見られているのかにいつも気を使っているのではないか、つまり、他人からの目を常に意識しているのではないかと斉藤は思った。
 別の時代からやってきたという事実の秘匿、女子であることを見破られてはならないという義務感、他人からどのように見られているかという緊張感。 そんなものに毎日相対していれば、神経をすり減らすのも当然だ。

 それに先ほどから見ていれば、茶で僅かに口元を湿らせるばかりで、料理には全く手をつけていない。箸置きに置かれた箸もそのままだ。 大食いしているところを見たことはないが、夕方のこの時間なのだから、煮物のひとつやふたつを口にしてもおかしくないのに。


 「土方さんとはどうだ」
 斉藤が切り出した。
 「よくしていただいてます」
 は口元に笑みを浮かべる。
 本当に、土方には気を使ってもらい、万事うまくいくように取り計らってもらっている。甘やかすようなことはせず、悪いことは悪いと言い、 この時代に自分が溶け込めるように手を尽くしてくれている。お陰で、先ほどのように妙な理由で男に言い寄られてもうまくかわせるようにまでなった。
 従弟として身を保証してくれる斉藤にも感謝しているが、日常を支えてくれる土方にも有り難いと思う気持ちでいっぱいだ、と彼女は語った。

 「…変なことはされていないか?」
 「変な、ことですか?」
 斉藤の言葉には首を傾げる。
 「押し倒されたりとか」
 ぼそりと斉藤は単刀直入に告げた。
 「そんなのしょっちゅう…しょっちゅうってほどでもないですかね、時々ありますけど、土方さんがふざけているだけです」
 事も無げには言い、再び茶碗に口をつけた。

 「他には?」
 さらに斉藤は質問を重ねる。
 「例えばどんなことですか?」
 「そうだな…夜中に布団に入ってくるとか」
 「…あ、今、夜って寒いじゃないですか。私のほうが先に布団に入ることが多いので、潜り込んできて暖をとっていらっしゃいますよ」
 京の夜はことさら寒いような気がします、とは続け、茶碗を置いた。
 「何かされたりとかしないのか」
 「…はい? 何かって?」
 斉藤の質問はどんどん奥へと進んでいくが、はきょとんとして、まるっきりわかっていないようだった。
 その様子に斉藤は、この女もあの黒ヒラメと同じく野暮天なのだなと改めて確信を持った。

 土方との関係は良好なのだろう。少なくとも気まずいことにはなっていないようだと斉藤は踏んだ。
 が、それは同時に土方との間に何も無いことを表している。土方の気持ちを知っている斉藤は、少々複雑な気持ちになった。 口説いて落ちぬ女はほとんどいないだろうと思われるあの土方が、毎晩同じ部屋で眠る女にこのような扱いを受けているとは、と。

 彼女が自らその身に課している秘密を守るためには、誰にも心を開かぬ必要がある。
 相手がどこの誰であってもだ。
 それが土方の気持ちに気づかぬ一因となっているのは否めないのだろう。

 しかし。

 「…もう少し、土方さんを頼ったらどうだ」
 斉藤はことりと猪口を置くと静かに口を開いた。
 温かい茶碗を囲むの指が、ぴくりと小さく震えた。
 「お前が現れたあの場にいたのは土方さんと俺だ」
 あのまだ浅い春の日に目の前の彼女は、前川邸の池から斉藤の従弟と入れ替わりに出てきた。
 「俺はお前と頻繁には会えぬ。その分、土方さんがいる。何でも話して、少しは気を休めろ」
 斉藤の言葉が終わってしばし間があいた後、はゆっくりと口を開いた。
 「話してますよ。土方さんが夕餉の時に聞いてくるんで」
 「そうではない」
 斉藤は口調こそ変えなかったが、重たい空気を言葉に混ぜた。
 「お前が来た時代のこと、昔のこと。何でもいい、いろいろ話してみろ。そしてお前を知ってもらえ」

 今のままでは、いずれ彼女の心に破綻が訪れるかもしれない。
 うわべだけで誰からもその心の奥底を垣間見てもらえず、理解もされないことに耐え続けて。
 今はそれに本人は気づいていないようだが、この先そうなる可能性は十二分に考えられる。

 土方なら、きっと彼女を支えてやれるだろう。
 惚れていると自覚していても手を出さずに、傷つけないよう見守っている土方ならば。
 今までの秘密もこれからの彼女の告白も、全てを受け止めて。
 そういう存在が、誰にでも必ず必要なはずだ。
 自分にとって、今は亡き親友がそうであったように。


 「それをして、どうするのですか?」
 茶碗から手を離さずに、は静かに言葉を放った。
 「私は本来ここにいてはならない存在です。私がいたという証拠は、出来るだけ残さないようにしたいんです。 どこにも、誰の中にも、です」
 は一度言葉を切り、ぬるくなってきた茶に視線を落とす。
 今のこの時代から考えれば自分が来た時代は未来だ。未来のことを話して、もし歴史の流れに抵触したらどうなることか。 はそれをいつも心において生活している。
 「仮初の身であることを忘れてはなりません。私は今、こうして何不自由なく過ごさせていただいているだけで充分なんです」
 は低い声でそう続けると、茶碗を持ち上げて、こくりと一口飲み込んだ。


 「土方さんは、そんなに弱い人ではないぞ」
 斉藤はの言ったことを充分理解していた。別の時代から来た存在であることは重々承知しているし、それを漏らしてもいけないことを。
 しかし、斉藤が言いたいのはそういうことではない。
 「わかってます、土方さんは強い人です」
 は顔を上げて斉藤と視線を合わせた。ありとあらゆる局面で、土方が弱みを見せたことなど無い。 たとえ一時は悪くても、その後は何だって解決してきたし、新選組も自分もそれに助けられてきた。それぐらいわかっている。

 「だったら、少しは甘えてみろ」
 斉藤はに視線を固定し、目を逸らさずに言った。
 「え…?」
 甘える、という言葉には眉を寄せた。
 「お前一人を受け止め、隠しておくぐらいの度量はある人だ。一人で強がるのはほどほどにして、たまには土方さんに寄りかかってみろ」
 「強が、る…?」
 斉藤の話を聞いて、の目の色がいささか変化を見せた。
 「私、強がってますか…?」
 そんなつもりは毛頭ないのであろう、は訝しげに斉藤に聞いた。
 「端から見ればな」
 斉藤は手を伸ばし、猪口を手のひらに収めた。
 「そう、ですか…」
 は小さな声になり、再び茶碗に視線を落とした。

 「…まあよかろう。冷めぬうちに食え」
 斉藤はが項垂れて顔を上げようとしないのを見て、話はここまでとすることにした。そして机の上のつまみに箸を伸ばした。
 はこくりと頷いたが、斉藤が飲み終わるまで料理には何も手をつけず、ただ茶だけを口に運んでいた。



 真っ暗な空に、冴え凍るような大気。星が鋭く瞬く中、二人はほとんど会話をせずに屯所まで歩いていった。
 「ごちそうさまでした。今度は私がごちそうしますね」
 は廊下の分かれ道で斉藤に頭を下げた。
 斉藤は軽く頷き、ゆっくり休むように言うと自室へと消えていった。

 「ただいま戻りました」
 は声を掛けてから土方の部屋に入った。
 「遅かったじゃねえか、どこ行ってた」
 土方は部屋におり、行灯をともして書状を書いていた。
 「連絡も無しにすみません。斉藤さんとちょっと食べてきました」
 は土方の傍に正座をすると小さく頭を下げた。
 「…ならいいが、一人の時はあまり遅くなるなよ」
 がさがさと音を立てて、土方は書いていた書状を折り畳む。
 「明日、これを藩に渡してくれ。この前の大坂行きの詳細だ」
 「はい」
 はもう一度頭を下げると立ち上がり、預かった書状は風呂敷に包んで、羽織を脱ぐと衣桁に掛けた。
 そして肩越しにちらりと土方を見、すぐに視線を外した。


 交代で風呂に入り、布団を敷いて横になった。
 土方はいつもの通りにに背を向けていた。

 「…土方さん」
 が自分を呼ぶ声に、土方は閉じていた目を開いた。
 「何だ」
 土方は背を向けたまま用件を聞く。


 「そっちにいってもいいですか?」


 の意外な言葉に、土方の目は大きく見開かれた。
 「ああ、構わねえが…」
 「すみません、失礼します」
 は自分の布団から出ると、土方の布団の端をめくった。そして土方の広い背中を目の前にして中に潜り込んだ。

 (温かい…)
 いつもは自分が潜り込まれるほうだから気づかなかったが、人の体温で温まった布団の心地よいこと。
 は土方が自分の布団に入り込んで温まる気持ちが少しだけわかったような気がした。

 土方の背中に顔を寄せ、手を伸ばしてそっとしがみついてみる。
 背につけた耳から、自分と異なる心音が聞こえてくる。ぴたりとついた背中から、自分とは別の体温が伝わってくる。

 土方は背を向けて黙ったまま、身じろぎ一つしない。

 は目を閉じ、斉藤に言われた言葉を思い出した。
 たまには土方に寄りかかってみろ、と。
 今まで頑なに拒んできた他人との接触が、これほどまで体に染み渡っていくとは。
 何だかそれがとても心地よく感じられて、はしがみつく手にもう少しだけ力を込めた。

 (土方さん…)
 そして言葉にはせず、心の中だけで土方の背にそっと話しかけた。
 今日あったこと、ここ最近の出来事で土方に伝えていなかった小さなこと、そして元の時代でのことも、少しだけ。
 家族のことや日常のことなど、ほんの些細なことだったが、頭に浮かんだことを額から土方の背に向かって送り込むつもりで。
 は土方が黙って背を貸してくれているのに感謝しながら、自分も黙って額をつけていた。



 つ、と土方の背をの手が滑り落ちた。
 土方はここでようやくのほうを向いた。
 (こんなこったろうと思ったぜ)
 土方が顔を覗き込んでみると、はいつの間にか眠っていた。

 土方は腕を伸ばしての頭の下に入れた。
 が自分の布団に自ら入ってくるなど、おかしいと思った。が、そこで詰問するような雰囲気でもなかった。
 だから本当は振り向いて抱きしめてやりたいのを抑えて、彼女のしたいようにさせていた。
 一日が終わって疲れているところへ、人の体温だ、すぐに眠ってしまうであろうことは容易に想像がついていた。

 何かがあったのだろうとは察しがつく。
 しかし彼女は何も言わなかった。
 その代わり背に額をつけ、そこから何かを言っているようだった。

 伝わってきたのは、安堵。
 自分に言葉なく何かを言うことで落ち着いたのだろう。



 彼女が自分の元で落ち着くのなら、たまにはこういうのも悪くない。
 まだ少し湿っている彼女の髪の先をもてあそびながら、土方はの寝顔を見つめた。
 本当はこういう時を利用して、彼女の身も心も落とすのだろう。難しいことではない。彼女から話を聞きだし、同情する振りをして 言葉巧みに言い寄ればすむ話だ。
 しかし、今夜、相手が自分に望んでいるのはそんなことではなかったのだと思う。
 ただ寄り添い、温もりを感じ、心の穴を埋めたい。そんな感じだった。

 今はそれで充分なのだろう、自分と彼女の関係は。
 に無理を強いれば二人の関係が破綻に向かうのはわかりきっている。
 欲をかかずに、今は自分の領域にが自ら入ってきたことを喜ぶべきだと土方は思い、自然に眠くなるまでの寝顔を見つめ続けた。



 翌朝、二人は同時に目を覚ました。
 外はまだ薄暗いが、微かに明るさが差し込んでくる。
 おはようございます、とが土方の腕の中で呟いた。
 少しだけ恥ずかしげなその顔を見て、やはりゆうべは無理強いしておくべきだったのだろうかと、土方は少しだけ後悔した。


 20090306