久遠の空 ドリーム小説 2011年拍手文 十月

十月:〜煙草と五の情景〜 其の三 嘲りと紫煙を浴びせる



 「いたたた…」
 は腰を押さえて副長室の前までたどり着いた。
 とある場所でしたたかに打ちつけてしまい、やっとここまで戻ってきたのだ。
 (絶対土方さんに笑われる…)
 は自分の迂闊さを反省しつつ、障子に手をかけた。



 時は少し前にさかのぼる。
 まだ薄暗い、夜明け直前の井戸端。
 ぎし、ぎし、と音を立てて滑車が回る。
 は縄をたぐり、その先に結びついている桶を引き上げた。
 汲みたての冷たい水で顔を洗えば、それが一日の始まりの合図である。

 「おはようございまーす!」
 の後ろから、元気な声が聞こえてきた。
 神谷が手を振りながら近寄ってきた。
 「あ、神谷さん、おはようございます」
 はしたたる滴を拭きながら答えた。

 「ちょうどよかった、朝日を見に行きませんかって誘いにいこうと思ってたんですよ」
 「朝日を?」
 「太鼓楼の二階から見たことあります? すっごいきれいなんですよ! 今日はたまたま早起きしたんで、これから見に行けばちょうど昇ってくるところが見られますよ」

 神谷はの腕をぐいぐいと引っ張る。その目はこれから見る朝日のようにきらきらと輝いている。
 「じゃあ、お供させていただきます」
 は手ぬぐいをたたむと廊下に上がり、神谷と並んで歩き出した。


 太鼓楼に着くと、戸が開いていた。
 「あれ、先客かな?」
 神谷が訝る。
 「明け六つの太鼓を叩きに来た方でしょうか」
 この太鼓楼では、時を告げる太鼓が叩かれる。叩くのは西本願寺の僧侶だが、たまに新選組の隊士がたわむれにやることもある。

 「まあいいや、上りましょう」
 神谷が階段に足をかけた。
 もそれに続いた。

 神谷は慣れているのか、とんとんと上がってゆく。
 は初めてなので、階段の端に捕まりながら上った。

 「あー、お坊さんだ、おはようございます」
 先に上に着いた神谷の声が聞こえてきた。
 「えっ、だ、誰ですか? どうしてこないなところに…」
 続けて、若そうな僧侶の声が降ってきた。

 「気をつけてください、階段に…」
 と僧侶が焦りの声を上げた、その時だった。
 次の段に足をかけたの足の裏に、べちょりと冷たい感触があたった。
 「え?」
 が気づいたときはもう遅い。
 の体は階段を上がるように力がかかっていた。
 「あっ!」
 べちょりとした何かにの足下はつるりと滑り、は階段を転がり落ちてしまった。

 だだだんと大きな音がして、は床に叩きつけられた。
 「だ、大丈夫ですか?」
 神谷が慌てて階段を下りてくる。
 「すんまへん、すんまへん」
 僧侶も半泣きで下りてきた。

 の足下を滑らせたのは、雑巾だった。
 若い僧侶は最近西本願寺にやってきたばかりで、太鼓楼の掃除を言いつけられたのは昨日が初めてだった。太鼓楼の床や階段を拭き清めるのである。
 広い太鼓楼の中をひとりで掃除するのは、時間も手間もかかる。階段の途中で疲れ果ててしまった彼は、雑巾を階段に置き、先に掃除を済ませていた楼の上でひと休みしていたのである。

 とっさのことで受け身をとることも出来なかったは、息が詰まるほど強く体を打ちつけてしまった。
 僧侶は平謝りで、神谷は部屋まで送っていくと言い出した。

 しかし、もし土方に知れたら、まず神谷が、自分を勝手に連れ出したことで怒られるだろう。
 そして若い僧侶も、階段に濡れ雑巾を置きっぱなしにしたことを、勤めを怠るとは何事かとしかられるに違いない。
 それに何より、少しでも雑巾の感触を確かめたのに足を滑らせて転んだ自分が恥ずかしい。土方に知られたくない。
 は平気だと言い張り、ひとりで副長室まで戻ってきたのだった。



 「遅かったじゃねえか」
 部屋に入るなり、土方はじろりとを睨んだ。
 「すみません、神谷さんと、しゃべってて…」
 は痛みを堪えながら返事をすると、ぎこちない動作で定位置の障子際に座った。

 はちらりと土方を見る。
 土方は腕を組んで、こちらをまだ睨んでいる。
 は目を逸らした。

 は再び土方を見やる。
 土方は煙草盆を引き寄せ、一服つけはじめた。

 誤魔化しきれているとは思わないが、このまま何も聞かないでいてくれると助かる。
 は痛みをため息に混ぜて吐き出した。


 「おい」
 土方が声をかける。
 「は、はい」
 は顔を上げた。

 気づかないうちに土方がすぐ隣まで来ていて。
 ふうっと、に煙を吹きかけた。

 「けほっ」
 当然、はむせる。
 「何、す、けほっ」
 は涙目で抗議した。
 「お前が泣きそうだったから」
 にやにやと、土方はいたずらな目を向ける。
 「おおかたどっかで痛い目でもみやがったんだろ、身なりも髪もぐちゃぐちゃじゃねえか」
 「う…」
 打ったところでない痛いところを突かれ、はすべて白状せざるを得なくなってしまった。


 話を聞いた土方は、すっと立ち上がった。
 「土方さんっ」
 は土方の袴の裾にしがみつく。
 「落ちたのは私の自己責任です、神谷さんもお坊さんも叱らないでください」
 「何でそうなる」
 土方は襖を開き、物入れから小さな紙袋を取り出してに押しつけた。
 「これ飲んでしばらくおとなしくしてろ」
 はその紙袋の表をあらためる。土方の家に伝わる打ち身の薬、石田散薬だった。

 「ありがとうございます…痛っ…」
 は土方の心遣いに笑顔が出たが、同時に痛みも出てしまった。
 「お前、馬鹿だろ」
 土方がくつくつと笑う。
 (やっぱり笑われた…)
 は痛みのせいなのか、煙のせいなのか、笑われて悔しいからなのか、にじんできた涙を着物の袖でそっと押さえた。



 20111001

お題配布元:Fortune Fate様