久遠の空 ドリーム小説 2010年拍手文 九月

九月:〜寝覚月(ねざめづき)に残滓は沁みて〜



 はとっぷりと日の暮れた道を、屯所に向かって小走りに急いでいた。
 今夜は十五夜で、神谷が月見をするから早く帰って来るようにと言っていた。
 しかしそういう日に限って英吉利語の授業が長引く。
 は手早く道具と机を片付けると、急いで黒谷を出た。


 四条大橋に差し掛かった時、はふと歩みを止めた。
 東の空に、大きな円を描く月が昇っている。
 とうとうと流れる鴨川の水面を、月の光がきらきらと彩っていた。

 橋の上は月見の人出で混雑している。
 はその隙間を縫うようにして中程まで進んだ。

 が。
 (少しだけ…)
 周りの皆がそろいも揃って頭上を見上げて嘆息しているのを見て、も少しだけ月を見たくなる。
 は橋を渡って人混みから抜け出すと比較的空いている橋のたもとへ行き、欄干に手を掛けた。

 濃紺の夜空に、ぽっかりと浮かんだ丸い月。
 まだ低い位置にあるせいか、とても大きく見える。
 なぜ大きく見えるのかは、がいた時代でも解明されていない。


 この時代でも、この位置の月は大きく見えるんだ。
 は感心して欄干にもたれかかる。
 じっと月を見つめる。
 黄金色の輝きも、ウサギが餅をついているように見えるクレーターも、が元いた時代と何も変わらない。

 「…」
 はしばらくぼんやりと眺めた後、欄干から手を滑り落とし、家路を急いだ。



 屯所に戻ると、すでに屯所は静寂を取り戻していた。
 本当は集会所の前で、巡察のない隊士たちが集まる予定になっていた。
 神谷が作った月見団子を頬張り、持ち寄った酒やつまみを口にしながら月を愛でる。
 そういう約束になっていた。
 だが、遅すぎたようだ。
 今夜の巡察は神谷が所属する一番隊なので、早めに解散したのだろう。

 せっかく誘ってくれた神谷に悪いことをした。
 はふうっと息を吐くと階段を上がり、まだ起きている平隊士の声がする部屋の横を通り抜ける。
 そして土方の部屋へと入っていった。


 「遅えじゃねえか」
 部屋に入るなり、土方の眉間に皺が寄った。
 「すみません」
 薄暗い行灯に照らされたその顔は不機嫌そのものだ。
 は謝りながら風呂敷を置いた。

 土方が文机の上をちょいちょいと指さす。
 がそこへいざり寄ると、布巾がかけられた皿が置いてあった。
 「お前の分だとよ」
 土方に言われては頷き、布巾を取った。
 そこには白くて丸い、月見団子が鎮座していた。


 は皿を持って縁側へ出る。
 座ると、月の光が降って来た。
 後ろには黒い影が伸びる。
 月は先ほど四条大橋で眺めた姿と、まったく変わらない。

 土方がのっそりとやってきて、の隣に腰を下ろす。
 は団子をひとつ摘んで口に入れた。
 月と同じく円に形作られた団子の表面は乾いて少し固くなっていたが、布巾がかかっていたおかげで中は柔らかい。

 土方の手が伸び、が持つ皿の上から団子を取る。
 白いそれが土方の口の中に放り込まれた。


 二人は何も言わずに、ただ月を見上げる。
 はちらりと土方に目をやった。


 もし、元の時代に戻ったら。
 その時、今夜のように月を見上げたら。
 やはりその輝きも姿も、今見ているあれと変わらないのだろう。

 そして思い出すのだろう。
 こうして、この人の隣で月を眺めたことを。
 時を越えるなんて非現実的だと言われても、自分にとっては紛れもないこの事実を。


 の肩に土方の大きな手が置かれ、体が引き寄せられた。
 「寒くないですよ」
 は土方を見上げる。
 昼はまだ夏の影が残っているが、夜はすでに涼しく過ごしやすい。
 「俺も寒くねえ」
 土方もを見下ろす。


 目が合うといつも思う。
 土方のまなざしはいつもまっすぐで、強い。
 まるで今宵の月光のように。


 は小さな団子に目を落とすとまたひとつ口に入れ、月を見上げる。
 いつか元の時代に戻っても、今夜の月を思い出せるように、強く心に焼き付けながら。


 20100901