七月:〜愛逢月(めであいづき)に差す影は哀しく〜
笹の葉が軒端に揺れる季節。
葉を揺らす風は、この時期にしては涼しい。
二日ほど前から雨が降り続き、灼熱の連鎖が一時的に断たれた。
暑さの真っ最中に息抜きが出来、炎天下の巡察から逃れた隊士たちは皆ほっとしている。
雨脚は昼過ぎから弱まり、八つを過ぎた頃にはほとんど止んでいた。
しかしは空と同じ曇り顔になっていた。
雨に濡れると望む望まないにかかわらず時を越えてしまう可能性があるは、行く際に雨が降っていれば英吉利語の授業を休むことにしていた。
講師のハーバーには詳しい事情を話していないながらも、休むことを了承してもらっている。
女であることはばれているので、ハーバーも紳士の国の出身らしく、細かいことは一切聞かずにの頼みを聞いてくれているのだ。
は二日も授業を休んでしまっていることに罪悪感を持っていた。
雨が降ったら休みだなど、子供の頃に歌った童謡でもあるまいし。
思わず口から長いため息が漏れてしまう。
「何ため息なんかついてんだ。やっと雨が上がったのに辛気くせえ」
土方が文句を言う。
「あ、すみません」
はしゃんと背筋を伸ばした。
いつもならこの時間、自分は部屋にいない。土方が一人で静かに仕事をしている時間だ。
湿度が高く不快な時期に、普段いない気配が部屋にある。
それが土方の心理にどれだけの負担をかけているのかを想像し、ため息などついている場合ではないと己に言い聞かせた。
がため息をついた理由はもうひとつある。
今夜は七夕だ。
原田が巡察中に竹藪から切り取ってきた竹を使い、神谷が張り切って七夕飾りを仕立てた。
大きな竹は皆によく見えるよう、屯所の玄関に飾った。
が、幹部の部屋の前にある廊下の柱には、それぞれの部屋の前に短く切った笹の飾りがくくりつけられていた。
土方の部屋の前から見えるそれを眺めながらは思う。
七夕の夜、晴れて天の川が見えなければ、織姫と彦星は一年に一度の逢瀬を逃してしまうのだと七夕物語の本で読んだことがある。
そこに添えられていた挿絵には、洪水のような川に分かたれて嘆く、美しい織姫の姿があった。
もしこのまま曇りだったら、今年の逢瀬は望めない。
逸話だとわかっていても、なんだか気の毒に感じてしまう。
「そうだ」
は立ち上がり、笹飾りに近づいた。
なるべく大きい葉を見定めて、その先端を一寸ほど折り、さらに三つに裂く。
三つに裂いた左右の部分を、真ん中の部分の上を通して組み合わせれば、笹舟の出来上がりだ。
が笹舟から手を離すと、それは風でゆらゆらと揺れる。
こんなもので曇り空の向こうがどうこうなるとは思わないが、もし織姫と彦星の間に流れる川の水が、舟があれば渡れる程度のものだったら。
この舟に乗って越えられる程度の水かさであったなら。
一年にたった一度の逢瀬だから、会えればいいとは願う。
「へえ」
ひょいと土方がの後ろから笹舟をのぞき込んだ。
「っ」
まさか土方が後ろにいると思わなかったは驚いて、縁側の縁から足を滑らせる。
ぬかるんだ泥水の感触を覚悟して目を固くつぶったは、がくんと体が止められるのを感じた。
土方が片手を柱に回し、もう片方の手での胴をすくい上げていた。
「そんなに吃驚するこたねえだろ」
土方は呆れ顔だ。
「すみません…」
も苦笑いを返す。
「あっ」
自力で立ち上がろうとしたの目に、強烈な光が差し込んできた。
雲が切れ、夕日が現れたのだ。
は目を細め、久しぶりに薄い青とあかね色に焼ける雲を見る。
「あれ見ろ」
土方が光源からやや南の空を指した。
そこには、七色に輝く光の帯をまとった虹があった。
も土方も、湿気った空を色彩豊かな半円で彩るそれに、言葉を失った。
しばらくすると虹は消え、太陽も地平線に近づいて光を弱めてきた。
はいまだに自分が土方に抱えられていることに気づき、はっとする。
「こ、この空模様なら、天の川見えますよね」
は土方に話しかけながら、さり気なく体を離した。
「ああ。見るなら丑の刻あたりが一番見事だ」
土方も腕の力を弱め、を立たせる。
「丑の刻って…真夜中じゃないですか」
「二日間も動かねえでだらだらしてたんだ、今日そこまで起きていられるぐれえの体力は余ってんだろ」
「ほとんど動かないでいたのは確かですけど、自分で勉強してましたし、元々そんな時間まで起きてませんよ?」
「たまには起きててみろ。俺も付き合う」
そんな会話を交わした二人はその夜、遅くまで起きていた。
ところどころに灰色の薄雲を散らしたものの、空は満天の星を披露した。
縁側で、元の時代では見ることのない金銀砂子もかくやと思える天の川を見ていると、ひゅうっと流れ星が横切った。
はふと隣に座る土方を見る。
流れ星が消えるまでに三回願い事を呟けば、その願いは叶うという。
心の中にあるこの想いを呟けたら、どんなにいいだろう。
あんな一瞬で消えてしまう星に三回も呟けないほど大きくなってしまった気持ちを持て余しながら、は土方と同じ方向へと視線を上げた。
20100701