六月:〜鳴雷月(なるかみづき)の兆しは荒らかに〜
萌え出てきた若葉がその色を濃くしてきて、景色は緑に染まる。
季節は初夏へと移り変わってきた。
今日は日差しが強かった。
英吉利語の授業が終わったは、屯所への道を歩きながら空を見上げる。
葉の緑と同様、雲の白と空の青もくっきりとした色合いになってきていた。夕焼けの色も濃くなった。
そろそろ笠があったほうがいいかもしれないとは思い、屯所に帰ったら納戸にしまってある笠を出して、痛んでいないか確認することを心に書き留めた。
数日が経ったある夕方、は息を切らして屯所へと戻った。
鈍い色の重たそうな雲が忍び寄り、その合間から機嫌の悪そうなうなり声が聞こえる。
今にも雨が降り出しそうな空だったので、は急ぎ足に駆け足を交えながら道を辿ってきたのだ。
笠を被っているから多少の雨は大丈夫だが、本降りになったらまずい。
前川邸の門をくぐると同時にぽつぽつと雨が落ちてきた。は濡れずに戻ってこられたことにほっとし、土方の部屋へと入っていった。
土方は部屋にいなかった。
文机の上がきれいに片づけられているので、仕事がひと段落ついて息抜きにでも出かけたのだろう。
は神谷たちと大部屋で食事をとると、風呂に入り、布団を敷いた。
隣に敷いた布団の主はまだ戻ってこない。
目をつぶると、雨がもたらす湿り気に誘われるように、すっと眠りに落ちていった。
夜半。
がた、と障子の開く音がして、左右に開かれた隙間から冷えた空気が入り込む。
が気づいて目を開けると、土方が部屋に入ってきた。
「おかえりなさい」
は体を起こした。
「ああ」
土方は軽く頷くと羽織を脱ぐ。
雨を含んだ夜中の空気がの首筋をかすめ、は身を縮めた。
「土方さん、お茶、いかがでしょう」
「もらおうか」
「かしこまりました」
は茶を入れに台所へ入った。
いつしか雨は本降りになっており、雨が鋭く地面をうがつ音が聞こえる。闇夜に雨音が重く響いていた。
湯を沸かしながらは、少しだけ開けた戸から外を眺める。
土方が戻ってきたのに気づいたのは、障子が開いたからだ。
その時流れ込んできた空気に混じって、微かにいつもの匂いがした。
妓の焚く、香の匂いが。
茶を提案したのは、その匂いにざわつかせた心を落ちつかせたかったからだ。
梅雨の寒さに温かい茶はどうかと聞かれて断る者はいないだろう。
鉄瓶に入れた水も、この寒さで冷たいところから沸かされている。
それが時間をかけて熱く変化するのを待ちながら、は己の心を均していった。
湯が沸くとは茶を淹れて土方の部屋に戻った。
手燭を枕元に置き、その明かりを頼りにして土方に茶を渡す。
土方は湯飲みを受け取ると、ゆっくりと口をつけた。
ごろ…と低い音が鳴った。
次の瞬間、天を裂くような雷鳴が轟き、稲光が障子を照らした。
は突然の出来事に思わず息を呑む。
土方は帰り道に稲妻の到来を予想していたのか、大して驚きもせず茶を啜った。
雷鳴と稲光が交互に夜の暗闇を侵し、一段と激しい雨がすべてを閉じ込める。
庭の草木は矢のような雨に打たれるがままだ。
「すごい降りになりましたね…」
は細く障子の隙間を開け、外の様子を確認する。
「ああ。酷くなる前に帰ってきてよかったぜ」
土方が呟く。
「そうですね」
帰ってきた、という言葉に再び沸き上がってきた気持ちを抑え込み、は布団に潜った。
頭まで布団を被ると、雷鳴も雨の音も小さくなる。香の匂いもしない。
はそっと息を吐きだし、目を閉じる。
ぽん、と布団の上に手が置かれた。
「雨、気をつけろよ」
ぼそりと短く土方の声が掛けられ、手が離れる。
土方がごそごそと布団に入る音がした。
外の音が布団の中に小さく忍び込んでくる。
土方が、自分を気遣う声を掛けてくれた。
それだけで、また心が平らかになる。
たったそれだけでと、は忍び笑いを漏らした。
翌朝、まだ雨は降り続いていた。
は黒谷に出向くのを休むことにした。
「お前、ゆうべ笑ってたぞ。何の夢見てたんだ」
土方が聞く。
自嘲したのを聞かれていたのかとはばつが悪くなる。
「覚えてません」
はそう答え、降り続く雨に目を向けた。
20100601