久遠の空 ドリーム小説 2010年拍手文 ※月

六月:〜鳴雷月(なるかみづき)の兆しは荒らかに〜



 萌え出てきた若葉がその色を濃くしてきて、景色は緑に染まる。
 季節は初夏へと移り変わってきた。



 今日は日差しが強かった。
 英吉利語の授業が終わったは、屯所への道を歩きながら空を見上げる。
 葉の緑と同様、雲の白と空の青もくっきりとした色合いになってきていた。夕焼けの色も濃くなった。
 そろそろ笠があったほうがいいかもしれないとは思い、屯所に帰ったら納戸にしまってある笠を出して、痛んでいないか確認することを心に書き留めた。



 数日が経ったある夕方、は息を切らして屯所へと戻った。
 鈍い色の重たそうな雲が忍び寄り、その合間から機嫌の悪そうなうなり声が聞こえる。
 今にも雨が降り出しそうな空だったので、は急ぎ足に駆け足を交えながら道を辿ってきたのだ。
 笠を被っているから多少の雨は大丈夫だが、本降りになったらまずい。
 前川邸の門をくぐると同時にぽつぽつと雨が落ちてきた。は濡れずに戻ってこられたことにほっとし、土方の部屋へと入っていった。

 土方は部屋にいなかった。
 文机の上がきれいに片づけられているので、仕事がひと段落ついて息抜きにでも出かけたのだろう。



 は神谷たちと大部屋で食事をとると、風呂に入り、布団を敷いた。
 隣に敷いた布団の主はまだ戻ってこない。
 目をつぶると、雨がもたらす湿り気に誘われるように、すっと眠りに落ちていった。



 夜半。
 がた、と障子の開く音がして、左右に開かれた隙間から冷えた空気が入り込む。
 が気づいて目を開けると、土方が部屋に入ってきた。
 「おかえりなさい」
 は体を起こした。
 「ああ」
 土方は軽く頷くと羽織を脱ぐ。
 雨を含んだ夜中の空気がの首筋をかすめ、は身を縮めた。
 「土方さん、お茶、いかがでしょう」
 「もらおうか」
 「かしこまりました」


 は茶を入れに台所へ入った。
 いつしか雨は本降りになっており、雨が鋭く地面をうがつ音が聞こえる。闇夜に雨音が重く響いていた。

 湯を沸かしながらは、少しだけ開けた戸から外を眺める。
 土方が戻ってきたのに気づいたのは、障子が開いたからだ。
 その時流れ込んできた空気に混じって、微かにいつもの匂いがした。
 妓の焚く、香の匂いが。

 茶を提案したのは、その匂いにざわつかせた心を落ちつかせたかったからだ。
 梅雨の寒さに温かい茶はどうかと聞かれて断る者はいないだろう。

 鉄瓶に入れた水も、この寒さで冷たいところから沸かされている。
 それが時間をかけて熱く変化するのを待ちながら、は己の心を均していった。



 湯が沸くとは茶を淹れて土方の部屋に戻った。
 手燭を枕元に置き、その明かりを頼りにして土方に茶を渡す。
 土方は湯飲みを受け取ると、ゆっくりと口をつけた。


 ごろ…と低い音が鳴った。
 次の瞬間、天を裂くような雷鳴が轟き、稲光が障子を照らした。
 は突然の出来事に思わず息を呑む。
 土方は帰り道に稲妻の到来を予想していたのか、大して驚きもせず茶を啜った。


 雷鳴と稲光が交互に夜の暗闇を侵し、一段と激しい雨がすべてを閉じ込める。
 庭の草木は矢のような雨に打たれるがままだ。
 「すごい降りになりましたね…」
 は細く障子の隙間を開け、外の様子を確認する。
 「ああ。酷くなる前に帰ってきてよかったぜ」
 土方が呟く。
 「そうですね」
 帰ってきた、という言葉に再び沸き上がってきた気持ちを抑え込み、は布団に潜った。


 頭まで布団を被ると、雷鳴も雨の音も小さくなる。香の匂いもしない。
 はそっと息を吐きだし、目を閉じる。

 ぽん、と布団の上に手が置かれた。
 「雨、気をつけろよ」
 ぼそりと短く土方の声が掛けられ、手が離れる。
 土方がごそごそと布団に入る音がした。


 外の音が布団の中に小さく忍び込んでくる。
 土方が、自分を気遣う声を掛けてくれた。
 それだけで、また心が平らかになる。
 たったそれだけでと、は忍び笑いを漏らした。



 翌朝、まだ雨は降り続いていた。
 は黒谷に出向くのを休むことにした。
 「お前、ゆうべ笑ってたぞ。何の夢見てたんだ」
 土方が聞く。
 自嘲したのを聞かれていたのかとはばつが悪くなる。
 「覚えてません」
 はそう答え、降り続く雨に目を向けた。


 20100601