五月:月不見月(つきみずづき)は密やかに目覚め
色とりどりに咲く花は散り、緑の葉が萌え出でる季節。
景色を霞ませるふんわりとした光はすでになく、青い空からまっすぐな日差しが届く。
は土方とともに前川邸を出る支度をしていた。
今日は土方が黒谷に用事がある。
誰かと一緒の黒谷行きは久し振りだし、相手が土方ならばなおさら、は心が浮き立つ。
しかしそれを露わにはせず、今朝だけの偶然と自らを戒め、荷物を手にした。
前川邸を出ると、すぐそこは八木家だ。
「あ、山口はんと鬼副長はんや」
八木家の次男坊の勇之助が道に飛び出してきた。
「おはようございます、勇之助さん」
がくすりと笑って言う。
「誰が鬼副長だ」
土方はぴくりと眉を吊り上げた。
「なあなあ、二人とも、ちょっとだけ寄って」
土方の眼力を物ともせず、勇之助がと土方の羽織を引っ張る。
「何ですか?」
「オトナはガキに付き合ってるほど暇じゃねえんだ、離しやがれ」
「あのな、端午の節句のお飾りしたんや、見てって」
にこにこと嬉しそうに、勇之助は言う。
「ほら、早う。オトナは暇やないんやろ?」
ぐいぐいと勇之助に引っ張られ、と土方は八木家へと連れて行かれた。
八木家の門を入り、玄関の前に立つ。
すると式台を上がったところに、三段の立派な雛壇があった。
しかしそこに飾られているのは雛人形ではない。
鍾馗という中国における戦や魔除けの神の、初代天皇である神武天皇、力持ちの坂田金時などの人形や、鎧兜、槍、長刀、紙製の幟など、
男の子用の飾りが並べられてる。
「近う寄って見てええよ」
えへんと勇之助が胸を反らせ、二人を式台に上がらせた。
「すごい…細かいですね」
は小さく作られた飾りに顔を近づけ、よくよく見た。
どれも精巧な出来で、鎧兜は金具ひとつひとつが本物と同じようにきちんとはめ込まれており、
幟には家紋が描かれ、人形はまるで今にも呼吸をするかと思われるほど生き生きとした表情をしている。
元の時代ではこのようなミニチュアではなく、もっと大きな鎧兜や坂田金時の人形が飾られることを、は思い出した。
「山口はん、見てこれ」
勇之助がの手を引き、最下段にある太刀飾りを指さした。
「これな、昨日お父ちゃんが買うてくれたんねん」
鞘は黒の漆塗りであちこちに金色の金具を配する、小さくても豪華な太刀飾りだ。
「いっつも兄ちゃんのばっかりやって言うたら、ほなこれお前のなって、お父ちゃんが」
が勇之助を見ると、えへへと嬉しそうな顔で満面の笑みを浮かべている。
兄弟のいる家では、何かにつけて下の子は上の子のお下がりであることが多い。勇之助もそうなのだろう。
こうして時たま、自分用買ってもらえることが嬉しいに違いない。
「何言うとるん勇坊、それは去年お前が壊したから、今年新しいの買うてもろただけやろ」
その時、式台の奥から勇之助の兄である為三郎が顔を出した。
「兄ちゃんっ」
図星だったのか、勇之助が狼狽えての背に隠れる。
「かっこいいー言うて壇から持っていって、転んだ拍子に庭の石に打ち付けたくせに」
「ええやん、もう済んだことやし、お父ちゃん怒らんかったもん」
勇之助は、べえと舌を出すと走って外へ出て行った。
「あっ勇坊、こいつ、待て」
為三郎も草履を突っかけて、土方の横をぴゅうと駆けていった。
「…大丈夫でしょうか」
為三郎がえらい剣幕で追いかけていったのを見て、は心配そうに言う。
「大丈夫だろ」
土方はにべもなく答え、行くぞとに声を掛けて八木家を後にした。
壬生寺の前を通ると、子どもたちの声が聞こえる。
近所の子どもたちが集まって、わいわいとはしゃいでいた。
その中には為三郎の顔も勇之助の顔もある。
「ほらな」
土方は八木家の子どもたちを顎で示した。
「はい」
はその様子を見てほっとし、寺の前を通り過ぎた。
何日か経ち、五日になると、八木家から新選組の皆へと粽(ちまき)が配られた。
と土方も夕餉の膳に載せられたそれを食べた。
もちもちとした粽の食感を楽しみながら、は思い出す。
元の時代では、五月五日にいつもやったことがあった。
「…土方さん」
食べ終わると、は土方に声を掛けた。
「何だ」
土方も食事を終え、口元を拭きながら言った。
「ちょっと、その柱のところに立ってもらえませんか」
「あ? ああ」
が頼むと、土方はすっくと立ち上がり、部屋の隅にある柱へと寄った。
は土方に柱へ背をつけてもらい、自分の手を土方の頭の上に伸ばした。
そして土方にその場をどいてもらい、今度は自分が柱に背をつける。
土方の身長を示したのとは反対側の手で己の頭の上を示すと、手をずらさないようにしながらその高さを比べた。
いつも土方と並ぶ時には彼を見上げている。
が、こうして客観的に高さを比べてみたことはなかった。
頭一つ分までとはいかないが、それに近い身長差である。
「ふーん」
土方もが何をしているのか気づいて、柱を見た。
が土方に視線を移すと、土方は何か思いついたようにふと笑った。
土方は伸ばされたの手を掴むとその体を引き寄せて、すっぽりと自分の腕の中に収める。
「っ、土方さん」
「暴れんな」
土方はの肩に手を回し、片腕だけでを拘束している。
は体を離そうと土方の胸を押すが、びくともしない。
ぴたりと土方の手の平がの頭に当てられると、やっと体が離された。
何のためにこんなことを、とが土方を見上げると、土方は自分の顎のあたりに手の側面をくっつけている。
「だいたいこの辺だな、お前の頭」
「柱で比べたじゃないですか、いちいちそんなことしなくても」
「実際この辺だって教えてやったんだ」
は急に抱き締められて顔を赤くし、土方はからかってやったとばかりにくつくつと笑った。
その日は八木家から粽のほかに、菖蒲も贈られた。
菖蒲は勝負に通ずる、または魔を祓うと言われており、菖蒲湯などに使われる。
は菖蒲の葉の青い香りが漂う湯船に身を沈めながら、水面に浮かぶ葉を見つめた。
菖蒲の葉は湯に浸かってもなお青々とし、ぴしりとその身を伸ばしている。
自分も、ちょっと腕の中に収められたぐらいで赤くなったりせず、この葉のようにしっかりしなければ。
は菖蒲の葉を一枚摘むと真っ直ぐに立て、葉を見つめてうんうんと頷いた。
20100501