四月:得鳥羽月(えとりはづき)は邂逅を誘う
昼間は柔らかな日差しで暖かい日が続く。
花もだんだんと咲いてきて、春らしい風景になってきた。
ほどよい暖かさは日中の眠気を誘う。
それはもまた例外ではない。
真剣に英吉利語の講義を聴いているはずなのに、いつのまにか瞼が落ちてしまう。
今日はとうとうかくりと頭が下がってしまった。
まずいと気づいて、おそるおそる周りを見渡せば、苦笑いする師と仲間の顔があった。
は反省がてら、居残り勉強を自ら申し出た。
ほんのうたたねで冴えた頭は、師の出した課題に次々と答えてゆく。
帰宅時間になった師は別の仲間に送ってもらい、はさらに課題に取り組んだ。
日が暮れて、灯かり無しでは小さな文字が読めなくなった頃、はやっと勉強を切り上げた。
夢中になりすぎたと肩をすくめる。いつもより前川邸への戻りも遅くなってしまいそうだ。は手早く片づけを済ませた。
宿坊の戸締まりを確認して小さな門をくぐる。
御影堂の前から延びる石畳の向こうには、濃紺に染まった空を背景に、黒い三門がどっしりと構えていた。
帰って来るのが遅えと眉間にしわを寄せるあの姿を思い出すと、緩い傾斜のある石畳を下っていった。
三門をくぐったところで、は見覚えのある、いや、ありすぎる後ろ姿を見つけた。
「あれ…土方さん?」
「ん?」
呼ばれて怪訝な顔をして振り向いたのは、やはり土方だった。
「遅えじゃねえか、やっと終わりか?」
土方はそう言って眉を顰めた。
さっき予想したとおりの反応に、は思わず小さな笑いを漏らしてしまう。
「何だよ」
「いいえ、何でも」
くすくすと笑い続けるを見て、土方は眉の間に谷を増やした。
土方は近藤と数人の供と、ここ会津藩本陣の金戒光明寺に来て公用方と面会したのだが、帰りは一人で歩くことにしたのだと言う。
「お一人で…って、何かあったんですか?」
が聞く。
「別に、何もねえよ。気分だ、気分」
土方はふいと向こうを向いた。
「もしかして、待っててくださった、とか」
黒谷に通い始めた頃、もし土方が黒谷に“ご用”で来る時があって帰り時間が同じになったら一緒に連れて帰ってほしいと言ったことがあった。
それを今でも覚えていて、待っていてくれたのかとは思って口にした。
「馬鹿野郎、気分だっつっただろ。人の話を聞け。帰るぞ」
土方は振り返っての額をこつんとはじくと、早足で石段を下り始める。
「はい」
はひりひりと痛む額を押さえると、土方の後に続いた。
空には大きな満月が上っている。
提灯が無くても建物の影ぐらいは判別できる明るさだ。
昼が暖かだったせいか、空気は夜になっても寒くない程度の温度を保っていて、歩いていて心地よい。
は自分の少し前を歩く土方の背を見る。
土方は否定したが、たぶん自分を待っててくれたのだろう。
昔、自分が言った一言を忘れずに。
もちろんそんなことだけで、土方の気持ちを勘違いなどしない。
土方は決してそう見えるようにしていないが、律儀なのだ。
それでも、覚えていてくれて嬉しいことには変わりない。
慣れているとは言え、暗くなってからの一人歩きは心許ない。
こうして時たま、誰かと帰れるのはほっとする。
それが土方ならなおさらだ。
はいかつい肩に向かってにこりと微笑んだ。
特に話すこともなく、二人は壬生まで歩いてきた。
「あ…」
とが足を止める。
土方もそれに気がついて、歩みを止めた。
天には大きな満月が力強く輝いている。
その下には、畑に植えられた菜の花が、ゆったりと風に揺られていた。
明るい時間には、そして満月がなければ気づかなかった、天と地による黄金色の風景。
漆黒の闇のせいか、輝きがさらに引き立つ。
自然の織りなす光景に、と土方はしばし魅入って立ち尽くした。
二人がしばらく眺めていると、何かが菜の花の上をひらひらと漂ってきた。
「蝶…ですかね?」
遠めなのではっきりわからないが、二枚の羽が羽ばたいているように見える。
少し大きく見えるから、シジミチョウではなくモンシロチョウかもしれない。
「珍しいですね、夜に飛んでいるなんて」
「ああ、夜は閉じている花が多いから、蜜を吸うのは難しそうだがな」
の言葉を受けて続けた土方は、腕を組んだ。
そしてを見てにっと笑った。
「ま、どこの世界にも変な時間にふらふらしてる奴がいるってこった」
はピンと来て土方を見上げる。
「別に私、ふらふらしてる訳じゃありません。勉強していて遅くなっただけです」
「お前のことだなんて、俺は一言も言ってねえぜ?」
「そ…そうですけど…」
言い返され、は詰まって下を向いた。
どうしてだろう。
いつも、土方には勝てない。
いつだって軽くあしらわれてしまう。
意味もなく、悔しさがこみ上げる。
くしゃり。
の頭に大きな手が置かれ、前髪がかき上げられた。
「何を馬鹿正直に受け止めてんだ」
その手がの顎を取り、顔を上へ向けられる。
二人の目と目が合う。
月明かりに照らされた土方の顔は、苦笑い。
きっと自分を冗談の通じない、固い奴だと思っているに違いない。
その笑顔が、いつもよりずっと大人びて見えて。
ますます、悔しい気がする。
の顎から土方の指が離れ、はふと畑のほうへと視線を向けた。
すると、先ほどの蝶のほかに、もう一羽の蝶がやって来て、二羽でふわふわと飛んでいるのが目に入った。
は土方をもう一度見上げた。
土方も自分の視線を追っていたのか、二羽の蝶に気づいたようだ。
「もう一羽、変な時間にふらふらしているのがいますね」
「何だお前、その含みのある言い方は」
「別に…」
「前の蝶がお前で、あの蝶が俺だって言いてえのか?」
「そんなこと私、一言も言ってませんけど?」
「…この野郎」
が一瞬早く駆け出し、その後を土方が追った。
土方がを捕まえようとするところを、はひらりと逃げる。
前川邸までの短い距離を、は何とか捕まらずに戻ってきた。
前川邸の門内に入った二人は追いかけっこを止め、肩で息をする。
土方はよく逃げ切ったとばかりに口の端を上げると、の頭をくしゃくしゃと撫でて、式台を上がっていった。
大きく呼吸をしながらは草履を脱ぐ。
そして願った。
結ばれないのは百も承知で。
どうか、土方との関係が、いつまでもこんな風に明るくありますようにと。
20100401