八景集 瀑布
それはある寒い冬の日のことだった。
土方は今日の仕事が早く終わり、部屋で一服していた。
すると原田と永倉と藤堂がやってきた。
やかましくしゃべる三人に、折角静かな時間を過ごしていたのにと土方が文句を言うと、
“がいないからいらいらしてるんだろう”と囃し立てた。
そんなことはないと否定する土方を三人はさらにあおり立て、本当にそんなつもりのない土方に雷を落とされた。
「…ったく、あの野郎ども…」
土方は原田たちを怒鳴りつけた勢いで屯所を出てきてしまった。
そのまま当てもなくぶらぶらと歩く。
(そろそろあいつが帰ってくる時間だな…)
暮れるのが早い冬の夕方、西の空は濃い藍色からゆったりと薄い橙色へ様相を変えてゆく。
土方はの顔を思い浮かべた。
どんなに寒かろうと暑かろうと朝は一定の時間に起き、黒谷へ赴く彼女。
男の振りもますます板についてきたが、女だとばれないように細心の注意を払い、外の世界と付き合っていくのは
かなりの努力が必要だろう。
そして屯所でも、自分と同じ部屋にいることで余計な詮索を受けずに済んでいる面もあるが、一方では常に自分と一緒で
、必ず人目のある生活をしている。自分は惚れた相手だから平気だが、向こうはどうだろう。窮屈に思ったりしていないだろうか。
気になるなら直接本人に聞けばいい。言葉や仕草から、彼女が内心どう思っているのか読み取れるだろう。
しかし、聞いたところでどうなるわけでもない。今以外にどうすること出来ない。
それに万が一、彼女が嫌な思いをしていて、それがわかってしまったらと思うと、やはり聞けない。
そんなことをもやもやと考えながら歩いていると、いつの間にか遠くまで来てしまった。何度も通っている、知った道。上七軒への道だ。
土方は懐を探った。財布が入っていたので中を改めてみると、そこそこの妓ひとりを買えるぐらいの金が入っていた。
ちょうどいい、どこか寄って帰ろうと土方は思った。
土方はすたすたと早足で、冷たい風を切って歩いた。
上七軒に近づくにつれ、道を行く人が増えてきた。
その数がいつもよりも多いような気がして、土方は辺りを見回した。
太い通りの向こうに、人の出入りの多い場所があった。
大きな鳥居が立ち、その後ろには突き当たりの見えない長い参道が暗く続いている。
(北野天満宮か…)
土方の頭の中に、その場所の名前が思い浮かんだ。
北野天満宮はかの有名な菅原道真を祀る神社である。菅原道真は幼い頃から才に溢れ、中流の学者の家系からとんとん拍子に出世した。
三十三歳で右大臣の地位を得たが、左大臣の藤原時平に、自分の娘を嫁がせた斉世親王を天皇の座に就けようとしたと無実の罪を着せられて大宰府へ左遷される。
道真が冤罪を晴らすことなく大宰府で亡くなった後、京では次々と道真の政敵やその縁者が亡くなり、ついには清涼殿に大きな雷が落ちた。
これを道真の祟りと見た人々は、雷が道真の力の具現とし、火雷天神が祀られていた北野に道真の霊を鎮めるための神社を建てた。
それが今、土方の目の前にある北野天満宮である。
もっとも、度々起こる大災害を道真の怨霊のせいとしたのは天満宮が建立されてから百年後辺りまでのことで、今では道真が生前に優れた学者であった
ことから、学問の神として信仰されている。
そして北野天満宮と言えばもう一つ有名なのが梅である。
梅は菅原道真がことのほか愛した花であり、その道真ゆかりの天満宮には数千本の梅の木が植えられている。今が盛りのその花を見に、
多くの人出があるのだ。
梅は土方も好んでいる。昔、自分が労咳を患った時に、近藤が見舞いとして一輪だけ咲いている枝を折って持ってきた。
それ以来、友との大事な思い出の花として、そして己の生の証として、土方は梅の花を愛でてきた。
梅で有名な天満宮の前まで来たのだからついでに見ていくかと、土方は通りを横切った。
道の向こうから見た鳥居は、近づいてみるとさらに大きかった。
鳥居にかかっている額の文字は、すでに夕闇の迫る時刻で何と書いてあるのか見えない。
土方は額を見上げていた頭を戻し、鳥居をくぐろうとした。
「ね、お兄さん、ひとつだけでいいから買ってよ」
「いえ、あの、本当にいいですから…」
土方の後ろから、物売りの声に続いて耳慣れた声が聞こえてきた。
「…」
土方が振り向くと、そこにはがいた。
「あ、土方さん」
物売りを挟んで向こう側からが返事をする。は馬を引いており、しつこい物売りに捕まっていた。
土方が物売りを一瞥すると、物売りはそそくさと逃げていった。
「何やってんだお前、こんなところで。黒谷からの帰りじゃねえのか」
つかつかと土方はに歩み寄った。
「はい、あの…迷子で」
は肩をすくめて答えた。
「またか。一人で帰れもしねえくせに余計なところほっつき歩いてんじゃねえ、いい加減にしろ」
土方はの額をぴしりとはたいた。
「いたっ、すみません、でもこれには訳が」
「あ?」
が珍しく言い訳をしようとしている。土方はそれを聞くことにして腕を組んだ。
「昼間に黒谷で馬に乗る練習をしているんですけど、教えてくれる英吉利語の仲間が、今日は馬に乗って帰って、明日は乗って来いって」
「それで?」
「黒谷から乗ってきたのはよかったんですが、しばらくしたら馬が…」
が言うには、黒谷を出てしばらくすると馬が急に言うことを聞かなくなり、勝手にゆるゆると走ってここまで来てしまったとのことだった。
土方はが引いている馬を見遣った。馬は土方の視線に気づきながらも下を向き、暢気に前足で地面をかいていた。
「なめられてんだよ、どうせ恐る恐る乗ってたんだろ」
くっと土方は笑う。
「え…そうなんですか」
馬にそんな風に思われていたのかと、はしゅんとして下を向いた。
たまにみせる、このしおらしい態度が可愛い。が、それを口にすると女扱いしないでくれと彼女が文句を言うので、土方はより笑みを深くするに留めた。
「お前、後は屯所に帰るだけか」
「はい」
「じゃあちっと付き合え」
にこの後予定が無いことを確認すると、土方はが引いている馬の手綱を近くの木に結わえ付け、彼女を伴って鳥居をくぐった。
「ここはどこですか?」
がきょろきょろと周りを見回しながら問う。
「北野天満宮だ」
土方がそんな彼女を見下ろしながら言った。
「あ、北野天満宮ですか…菅原道真の」
「そうだ。知ってるのか」
「はい。学問の神様ですよね。元の時代でも有名ですよ」
「そうか」
白い息を吐きながら二人は長い参道を歩いた。左右には石灯籠があり、行く道を仄かな明かりで照らしている。
まず楼門が目の前に現れた。梅の神文が入った提灯が左右に据えられ、屋根や縁には金の金具で装飾が施されている。門の中には右大臣と左大臣の像が
どっしりと鎮座していた。
門の向こうから次々と人が出てくる。きっと梅を見終わった者たちが出てきているのだろう。
土方とは道なりに左へと曲がった。
「あ、牛…」
曲がったところに、大きな牛の像があった。
「何で牛がいるんですか?」
は土方を見上げて聞いた。
「俺もその辺はよく知らねえが、菅原道真が丑年の生まれだとか丑年に亡くなったからだとか、いろいろ話があるみてえだな」
「へえ…」
土方の解説を聞いたは、足を止めてしげしげと牛の像を眺めた。
「あっちにもいるぞ」
土方が先の道にある牛の像を顎で示し、そちらへ向かった。
「はい」
は小走りにその後をついて行った。
「この牛を撫でると、その場所にご利益があります、ですって」
はその牛の像の横に建てられている看板を見て言った。
「撫でると悪いところが治る…か」
土方もその横で看板を読む。
は袂を押さえて、そっと牛の像の頭を撫でた。
「そうだな、頭でも撫でておくか」
と土方も牛の頭に手をやった。
「土方さんでも、もっと頭良くなりたいんですか?」
ふふっと笑ってが言う。
「いや、これは俺のじゃねえ。お前だ」
土方も笑みを浮かべた。
「私、ですか?」
は土方の言葉にきょとんとした。
「ああ。お前の阿呆な迷子が治るようにな」
「え…まあ…そうですけど…」
土方が口の端を上げてそう言うと、は目を逸らした。思い当たることが多いらしい。
こんなことで困った顔をする彼女をからかうのが楽しいと思い始めたのはいつからなのだろう。土方はに背を向けて肩を震わせた。
さらに二人は奥へと進んでいった。参道の両脇には梅が咲き誇っており、暗い闇の中に白く赤く浮び上がっている。
人がその周りに集まり、近くに寄ったり遠くから眺めたりと、思い思いにその姿を楽しんでいた。
「綺麗ですね」
ありきたりな感想だが、他に何を言えと言うのだろう。梅が闇を薄く霞ませる情景は、美しいと形容する以外何ものでもなかった。
「ああ。先に参拝を済ませてからゆっくり見るぞ」
土方も軽く頷いてに同調した。これだけ見事な梅だ、見ごたえがあると思いながら。
参道の終わりに、もうひとつ門が現れた。
その姿を見て、は思わず息を呑んだ。
三光門と呼ばれるそれは、大きな桧皮葺の屋根を掲げていた。一階建てならではの屋根の近さが、こちらに迫ってくるような感覚を与える。
少しずつ檜の皮をずらして葺かれた屋根の先端は、まるで鋭い刃物で斬られたように尖っており、奥に控える社殿を守る刀剣のようだ。
「すごい…」
は小さな声で呟いた。
「何呆けてんだ。中に入るぞ」
だが土方にとってそれは何の感慨も与えなかったらしい。上からぶら下がる梅の文様が入った布を掻き分けて土方が振り向いた。
二人は社殿の前に進んだ。
横に広い社殿の屋根も桧皮葺であり、その明るい茶色は、屋根を支える無数の垂木に為された金色の帯金物の光と馴染んでいる。
参拝の列に並びながら、土方はを横目で見ていた。の目は社殿に向けられており、屋根の下に見える彫刻や、ぶらさがっている大きな提灯を
珍しそうに眺めていた。
列が進み、二人の番になった。
二拝二拍手をし、頭を下げる。
「土方さん」
手を合わせて目を閉じようとした土方に、が囁いた。
「よその国の言葉が上達しますようにってお願いしても大丈夫ですかね?」
英吉利語のことか、と土方は思った。
「大丈夫じゃねえか? もともと日本にもよその国からの学問が入ってたしな」
「はい」
土方の賛成の言葉には少しだけ表情を崩し、社殿の中に向かって頭を下げた。
が祈りを捧げるのを見て、土方は自分も目を閉じた。そしてふと何を願おうかと考えた。学問について願うことなど無い。読み書きも出来るし、
特にこれと言って不自由していない。俳句が上達するように、というのは何かが違うような気もする。では何を願うべきなのか、この天神様に。
何も願うことが無いので、土方は合わせた手を下ろしての方を向いた。も同時に土方を見、揃って後ろに順番を譲った。
参道を戻りながら梅を眺め、土方とは三光門を出た。
すると土方が社殿を囲む外壁に沿って、裏へと回ってゆく。
「どこへ行くんですか?」
まっすぐに参道を戻ろうとしたは、方向を変えて土方の後を追った。
「裏にある地主社のところにも梅があると聞いた。そこへ行く」
「はい」
二人はその途中にも花をつけている梅に時々足を止めながら、社殿の裏へと回った。
「うわあ…」
社殿の真裏にあたる場所には、北野の創建より前から崇拝されている地主の社があった。
朱色に塗られた社は、先ほどの社殿よりうんと小さいながらも、荘厳に建っていた。
そしてその社の両脇に、薄い桃色の花をつけた梅が咲き誇っていた。
参道や社殿よりも花の数が多く、こぼれんばかりに艶やかな姿をしている。
は最初に感嘆のため息を漏らしてからは、一言も発せずにただ梅に見入っていた。
土方もこれほどの梅は初めて見た。見事だと思いながら顎に手をやる。
「…匂い起こせよ梅の花、でしたっけ」
沈黙を破ってが言った。
「菅原道真が大宰府に左遷になった時、句を読んだとか」
「ああ。“東風吹かば 匂い起こせよ梅の花 主なしとて 春な忘れそ”だろ」
「そう、確かそれです。よく覚えていらっしゃいますね」
が感心したように土方を見つめた。好きな梅の花を取り入れた句であるから、何かの折に聞いたのをその場で覚えたことを土方は思い出した。
「飛び梅伝説ですよね。道真公がその句を読んだら、大宰府に庭の梅が一晩で飛んできたっていう」
「そうだな」
「余程梅が好きだったんですね、語り掛けに梅が応えてしまうほど」
はそう言うと覗き込んでいた身を起こし、別の梅の木を見ようとその場を離れた。
好きだと言うなら。
土方はの後姿を見つめた。
自分も梅を好んでいる。大事な思い出の花であることもそうだが、この淡いしとやかな香りも、清楚な花びらも、満開でありながら静かな佇まいも好みだ。
ふと土方は思った。まるで彼女のようだ、と。余程のことがなければ落ち着いており、大きな動きをせず、無駄に大声を出したりしない。
黒い羽織の小さな背中が、好みの花の面影と重なる。土方の胸がどきりと音を立てた。
「あ、こっちの花は白ですよ、土方さん」
が指をさした先には、大きな枝垂れ梅が立っていた。
白い花を闇に光らせ、地面まで大きく枝を伸ばしている。その白が、まるで滝壷に落ちる滝の水しぶきのようだった。
がその花の香りを嗅ごうと、鈴なりになっている枝垂れ梅の枝へと近づく。
その時だった。
土方がの腕を強く引き、その腕の中に細い体を抱きこんだ。
は突然の出来事に、目を丸くする。
「土方さん…?」
が土方の胸の前で、くぐもった声を出した。
が白くこぼれる滝のような花へと近づいた時。
土方の目には、彼女がその滝に飲み込まれる様が映し出されたのだ。
彼女が消えてしまうような錯覚に陥り、土方は思わずその腕を掴んで胸元に収めてしまった。
「どうしたんですか…?」
そう問うの声は、乱暴に腕を引いたことを責めるわけでもなく、長々と抱きしめていることを咎めるわけでもなく。
ただ、どうしてこんなことをしているのかだけをまっすぐに聞いていた。
土方はゆっくりとの体から力を抜いた。
答えを待つは身じろぎをすると、土方をその腕の中から見上げた。
「…何でもねえ」
腕の中に彼女がいることを確認した土方は、内心ほっとしながらを離した。
まさか梅の花にお前が飲み込まれて消えるかと思ったなどと言えるはずも無く、土方はに背を向けた。
「お前、飯は食ったのか」
土方は気持ちを落ち着けると振り向いた。
「いいえ、まだです」
は土方の傍に歩を進めた。
「何か食って帰るぞ」
「はい」
土方は足早に歩き出し、もそれに小走りで付いて行った。
二人は東門から北野天満宮を出た。そして上七軒の細い道を歩いて、小さな料理茶屋に入った。
土方はに英吉利語の授業の話を振り、彼女がぽつぽつと話すのを聞き流していた。
完全に、どうかしている。
派手なところも無く、目立たないようにしている何の特徴も無い女に、何故こんなに惚れ込んでいるのか。
土方はを見つめた。
「私の顔に、何かついてます?」
は土方が箸を動かすことも無くじっと自分を見ているのに気がつき、声を掛けた。
「目と鼻と口はついてるぞ」
我に返り、土方はありがちな言葉で取り繕った。
はそれにふふっと笑った。
「お疲れなんですね。余計なおしゃべりはやめますから、おいしいもの食べましょう」
土方の言い繕いを受け流したは、それから食事が終わるまで黙って、出された膳をゆっくりと味わった。
そうか、と土方は思いついた。
この雰囲気だ。互いが黙っていながらも気まずくなく、存在を意識しあいながらも邪魔をしない。
そんな空気を作り出す彼女を稀有に感じている自分に、土方は気がついた。
ようやくそれがわかり、土方はくっと喉の奥で笑った。
も土方の笑みに気づいていたが、ちらりと視線を寄越しただけで、黙々と料理を口に運んでいた。
食事が済むと、二人はが乗ってきた馬の元へと戻り、それに乗って屯所へと帰ることにした。
「道案内お願いします」
前に座して手綱を握るが、後ろに頭を曲げて土方に乞う。
「ああ」
土方が頷く。
は軽く馬腹を蹴り、馬を進めた。
少し進むと、辺りに人影がなくなった。土方はに掴まっている腕に力を込めて、ぴたりと寄り添った。
「土方さん?」
が振り向こうとした。
「こら、ちゃんと前を向け。姿勢を正しくしろ」
の耳元で土方が囁いた。
「そ、そんなにくっつかなくても…」
声の振動がむずがゆくなり、は土方が囁いた耳の方の肩を上げた。
「下手くそは黙って教えに従え。そんなんだからいつまでたっても乗れねえで、馬にまで馬鹿にされるんだ」
反対側の耳に顔を移動させ、土方は再びの耳元で声を発した。
ははいと返事をすると、前を向いて手綱を握り直した。
土方は屯所へ戻るまでの道に人が少ないところを選び、常にと体を密着させ続けた。
そのくっつき具合が時々妙に感じられて、はその度に土方に抗議した。
が、残念ながらそれは屯所に戻るまでに解消されることは無かった。
遅くに屯所へと戻ったは、風呂に入るとすぐに眠ってしまった。
土方は眠る彼女の傍へと寄り、その顔を眺めた。
この小さな白梅を、いつか愛でてみたいと思う。
それが叶わぬ夢だとわかっていても。
土方はぐっすり眠る彼女の布団に潜り込み、背を合わせた。
朝になって目が覚めたら、きっと彼女はまた勝手に布団に入ってきてとため息をつくだろう。
その顔を思い浮かべながら、土方も掛け布団を引き上げて目を閉じた。
20090226