八景集 夕照
「すみません土方さん、お待たせし…」
店から出てきたは、目の前の光景に動きを止めた。
土方が、旅姿の女性と対峙している。
しかも土方には、小さな男の子がしっかりとしがみついていた。
そして、男の子は言った。
「と、ととさまぁ」
と。
と土方の休暇が重なったある日、二人は散歩がてら買い物に出かけた。
まだ残暑の厳しい日差しの中、普段よりもゆっくりと店先を見て回る。
足袋屋での足袋の替えを買い、蕎麦屋で遅めの昼餉をとった。
その後にが、まだ買い物があるというので別の店へと向かった。
すぐに出てきますからとは言い、一人で店の中へ入っていった。
黒光りする格子が印象的な小間物屋だった。
土方は店先の床几に腰を下ろして懐を探り、使い込んだ携帯用のたばこ入れを取り出した。
ちょうど小間物屋の女中が打ち水に出てきたので頼んで火をもらい、赤く大きな日避けの傘の下で一服し始めた。
無駄に青い空に向かって、煙を吐き出す。
ぷかりと浮かんだ白いそれはやんわりと形を変えて、いつの間にやら消えていった。
汗がだらだらと流れて止まらない。
と二人で出かけるのはいいが、あまりにも暑すぎる。
彼女が店から出てきたら前川邸に戻ろう。そして部屋でのんびり過ごすことに決めた。
おそらく非番の沖田や神谷がすぐに嗅ぎつけてきてわいのわいのと騒ぎ出すに違いないとわかっていても、この暑さよりはましかもしれないと土方は思った。
そんなことを考えながらぼんやりと遠くを見ていると、土方の視界に旅姿をした女が目に入った。
きょろきょろと何かを探すように辺りを見回している。
土方はその女が何を探しているのだろうと思い、しばらく女を見つめていた。
こちらを向いた女と、土方の視線が交わった。
女はほっとしたように目元を緩め、土方のほうに向かって歩いてくる。
何だと土方が眉を寄せていると、女は土方の前に立った。
「もし、お侍様。お助けください」
と女は言い、頭を下げる。そして訝る土方の前に、ずいっと何かを差し出した。
それは小さな男の子だった。年は二、三歳といったところだろう。
男の子は目を手の甲でごしごしとこすりながら泣きじゃくっていた。
「私は旅の途中なのですが、どうやらこの子がおうちのかたとはぐれてしまったみたいで。探してあげたいのは山々なのですが、
私はこれから伏見に行って船に乗らねばならないのです。どうか代わりにこの子の親御さんを見つけてあげてはくれないでしょうか」
「あ?」
土方はますます眉間に皺を寄せた。この暑い中、ガキを連れて人捜しとは、と。
他の誰かに頼むよう丁重に断ろうと土方は腰を上げた。
すると女は、
「私はここまでです。後はこのお侍様に助けていただきなさい、ほら」
と男の子の背を押した。
男の子は立ち上がった土方の足にしがみつき、
「と、ととさまぁ」
と言い放ったのであった。
が店から出てきたのは、この「ととさま」発言の直前である。
旅姿の女性はすぐ雑踏の中へと消えていった。
「お前が今、何を考えているか当ててやろうか」
土方は流れ落ちる汗を顎から滴らせて言う。
「いえ、別に…」
は目を泳がせた。
「このガキは俺の子じゃねえからな」
土方は憮然とした表情でを睨み付けた。
旅姿の女が子ども連れで自分の前に立っていたのを見た瞬間、どこぞで関係を持った女性が身ごもって自分の子を産み、旅の果てにやっと自分を見つけて認知を迫ってきたのかとでも思ったのだろう。の目はそんな目だ。
「でもこの子、土方さんをととさま、って…」
「関係あるか」
ここ数年は金で遊べる女としか寝ていない。そういう女は子が出来ないように様々な工夫をしている。それに先ほどの女の顔に見覚えなどない。神にかけてもいいほどだ。
「えっと…誰と来たのか、わかるかな?」
は気を取り直すと座り込んで、男の子の頭を撫でた。
男の子はの手がふわりと頭に触ったのを感じると、のほうを向き、ぎゅっと抱きついてきた。
「ととさま、ととさま」
「え?」
「ほらな」
このガキが“ととさま”と言うのは、目の前にいる男が父親だと言いてえんじゃねえ、と土方は目でに合図した。
この酷暑の中で立っていたら大人でも倒れてしまうと思い、と土方は男の子を連れて、小間物屋の向かいにある甘味屋に入った。
冷やしあめを頼み、男の子に飲ませる。男の子はおいしそうにそれを口にした。
「誰と一緒に来たの? お父さんかな?」
が男の子の目を覗き込んで聞いた。
男の子はこくりと頷き、ととさま、と言ってにこりと笑った。
「ととさまは今、どこにいるかわかる?」
その笑顔に釣られて自分も口元を綻ばせながらは再び問うた。
が、男の子は急に顔を曇らせてふるふると首を振る。
「わかるわけねえだろ。わかってたら今頃とっくにさっきの女が親父のところに連れて行ってるだろうが」
土方は頬杖をつき、実に面倒くさそうに呟いた。
「あ、そうですよね…」
は失言だったと思い下を向いた。
三人はしばらく外を眺めていたが、幼い子どもを捜しているような大人は通らなかった。
だんだんと日が傾いてきて、このままではこの子の親を捜すのが難しくなってくる。
と土方は店を出た。
ぽつぽつと店じまいをする光景が増えてきた。
夕方の気配を感じてか、男の子はまためそめそと泣き出した。
「どうしましょうか…」
このまま待っていても埒があかない。が、探す手立てもない。は途方に暮れた。
男の子はぽろぽろと涙を流し、の袴を小さな手でぎゅっと握った。
はその感触を得て下を向くと、手を伸ばして男の子を抱き上げる。
男の子はの首にしがみついた。そしてわしわしとの首元に頭をこすりつけた。
「かかさまと、おなじ、におい」
「えっ」
は固まった。何か香るものを身につけているわけでもないし、風呂にだってちゃんと入っている。それでもやはり、女性ならではの匂いがするのかも知れない。
は土方を見上げた。
土方は仕方ねえなと呟くと、男の子をから引きはがして両手で持ち上げた。
男の子の体がふわりと宙に浮く。
そしてさらに高く持ち上げられると、土方に肩車をされた。
「いいか、日が落ちるまでにお前の親父を見つけられねえと、鬼の棲処に連れてっちまうぞ。しっかり探せ」
土方は男の子の両足をしっかりと持ち、歩き出した。
男の子は土方の言ったことがわかったのか、土方の頭に捕まって落ちないようにしながら辺りをきょろきょろと見回す。
は立ち尽くした。
男の子を担いだ土方の黒い背中が、赤い夕映えに際立っている。
きり、と無意識に胸が痛くなる。
彼には許嫁がいる。
そのうち所帯を持つだろう。
そしていつかは子どもを得て、今のように肩車をして歩く日が来るのだ。
「オイ」
土方がを振り返った。
「何ぼんやりしてんだ、置いてくぞ」
「あっ…はい、すみません」
ははっとして土方たちのほうへと駆け出した
結局、男の子の父親はこの後すぐに見つかった。
男の子の母親は病がちで、薬をもらうために父親が男の子を連れて町中へ出てきていた。父親が僅かに目を離した隙に男の子がちょろちょろと歩いて人混みに紛れてしまったらしい。
男の子は父親の顔を見ると顔を輝かせ、ととさま、ととさまと嬉しそうに抱きついていた。
父親は何度もと土方に頭を下げて、片手は薬を包んだらしき風呂敷を持ち、片手は男の子と繋いで雑踏の中に消えていった。
と土方は屯所へ戻ることにして、帰り道へと踵を返した。
赤い景色は夕間暮の闇へと変わっていく。
忍び寄る暗さに、は先ほどの男の子が早めに父親と会えて本当によかったと胸を撫でおろした。
もし出会えなかったら男の子はもちろん、父親だって心配で夜も寝ずに探し回ったことだろう。そうならないでよかった。
「…土方さんが肩車をしてくださったおかげで、見つけられましたね。ありがとうございました」
は土方を見上げて微笑んだ。
「別にどうってこたあねえ。第一な、ガキなんかちょろちょろとはしっこいに決まってんだ。手を離すなってんだよ」
ぷいと土方は向こうを向く。
「でも、肩車したお背中、結構似合ってましたけど」
ふふっとは笑みを漏らした。
きっと土方はいい父親になるだろう。口は悪くても、心配して助けずにはいられないような。
しかしそんな土方の隣に立っているのは自分ではない、別の誰かだ。
そう思うと、さっきと同じ痛みが胸に去来する。
決して結ばれない。それが自分の運命だと知っていて、この思いを抱いたというのに。
「どうかしたのか」
土方がの目の前に立ち、目をのぞき込んだ。
は胸に軽く握った拳を当てた。
この思いは、決して悟らせない。
落ちてゆくしかない夕日のように、土方という闇に飲み込まれた振りをして。
時々胸が痛むことがあっても、この気持ちは闇に沈めておけばいい。
「…いいえ、何でも」
にこりとは笑ってみせる。そして土方の横をすっと通り抜けた。
土方は小さな溜息をつき、の後を追う。
夕闇迫る、晩夏の夕。
二人の影は時折触れながら、前川邸への道を辿っていった。
20090828