久遠の空 ドリーム小説 八景集 夜雨

八景集 夜雨



 ここ数日、晴れたり曇ったりと京の天候は非常に不安定だった。
 生暖かい風が頬を撫で、湿気を含んだ空気が心なしか息苦しさを感じさせる。

 以前、黒谷から戻ってくる途中で雨に見舞われ、同時に元の時代で雨に濡れた“”と精神だけ入れ替わってしまった。
それ以来は雨に濡れない様に空模様には常に気を配っていた。
 入れ替わるのならば、精神とともに体も一緒でなければ意味がない。そのためには雨でなく池の水が光ったところへ、互いが同時に 飛び込まねばならないと言うのが現時点での見解である。

 これからの季節は特に雨が多い。つまり、にとっては普通の人間以上に傘は手放せない。
 だが、勉強のための道具が詰まった風呂敷を抱えながら傘まで持つのは重い。出来ることなら傘は持たずに行き来したいので、 は前川邸にも黒谷にも自分用の傘を置いて雨に備えていた。


 前川邸を出る時も、黒谷を出る時も、はその都度空を見上げて、雨が降りそうかどうかを確認した。
 今日の空は薄く雲がかかっているものの、雨が落ちてきそうな気配は見られない。
 はこれなら傘を持つ必要がないだろうと思い、風呂敷包みだけを持ってハーバーと一緒に黒谷を辞した。

 ところがの予想は外れた。
 ハーバーをみなと屋まで送り届け、四条通で買い物を済ませて店を出ると、空に黒い雲が広がっていた。
 はまずいと思い、急ぎ足で大通りを抜けて行った。
 細い道に入ったところで、瞼にぽつりぽつりと雨粒が落ちてきた。
 そして前川邸が見える角を曲がったところで大粒の雨が降ってきた。


 壬生寺の門の下に駆け込み、は雨が止むまで待つことにした。
 もう少しで前川邸に戻れたのに、買い物などせずに早く帰るべきだった。
 買い物と言っても、雨の季節の前に準備しておこうと思い手拭いを何本か買っただけだったが、新しい柄が入荷したと店主に勧められ、眺めていたのがいけなかったのかもしれない。 また今度来るからと言って断ればよかったと、は湿った空気の中にため息を吐き出した。

 雨はだんだんと強まってきた。弱い風に乗って雨粒が屋根の下まで打ち付けてくる。
 は大事な勉強道具を濡らしてはならないと思い、風呂敷包みを胸元にぐっと抱き込んだ。
 それと同時に自分の体も雨から守らねばならず、軒下の路面が濡れていない場所へと足を動かした。

 日が暮れて、寺の本堂に明かりが灯るのが見えた。雨がひどいせいか、夕刻には門の前に下げられる提灯を広げて火を入れに来るはずの 寺の者が姿を見せる気配も無い。

 は足元を気にしながら顔を上げた。
 八木邸や前川邸からも、行灯や蝋燭と思しき光が仄かに漏れている。
 すぐそこに戻るべき場所があるのに。
 普通の人間ならば、荷物だけを濡らさないようにして雨の中へ飛び出し、前川邸までの数十秒を走っていくのだろう。
 だが自分にはそれは出来ない。あの黒い板塀の向こうに走り去る、たったそれだけのことが。

 そう考えている間にも雨はますます強まり、容赦なくの足元を濡らしていく。
 冷たい感触がじわじわと足袋越しに這い上がってきた。
 もしこのまま、本物のとまた中途半端に入れ替わってしまったら。
 は雨に当たらない様、出来るだけ体を縮めて立った。

 寒い。
 雨が着物に少しずつ浸透してきた。
 少し経ってこの雨が止めばいいが、一晩中降り続けたらどうしようか。
 いや、どうしようかではない。寝ないで出来る限り雨に当たらないように立ち、時代を超える場面を回避せねばならない。
 無論、あちらの時代で“”が同時に雨に当たっていなければ時を渡ることはない。
 が、前回と同じように再び互いの体に戻れるとは限らないと思うと、寒さとは別の震えがこみ上げてきた。

 雨のせいか、壬生寺を訪れる信徒もいない。もしいれば前川邸に行ってもらい、隊士の誰かに傘を届けてもらうように言付けてもらえるのに。
 は足元が濡れて気持ち悪くなってきたので、持っていた手拭いで水気を吸い取った。
 しかしそれだけでは間に合わない。先ほど買った新しい手拭いも取り出して足袋の上に当てた。
 新品でのりがついているため、水の吸い取りはよくない。が、少しでも水の感触を除くことができては安堵した。
 雨の強さは変わらないが、止むまで待つしかない。たとえそれが明日の朝になろうとも。
 は何度か足元の水気を取りながら、根気強く雨が止んでくるのを待った。



 濡れた手拭いを絞っているうちに、ついていたのりが落ちてだいぶ水気を取れるようになってきた。
 が絞った手拭いを広げて畳んでいると、壬生寺の前の道に闇の中を動く影が現れた。 この雨の中をどこへ行くのだろう。着流しの裾を短めにたくし上げ、傘を斜めに差しての急ぎ足だ。 濡れるのをものともせずに歩く姿はどことなく粋に見える。
 もしかして、いや、あれは、きっと。
 はほっと息を漏らし、口に手を当てて人影の名を呼んだ。

 「土方さん」

 人影はぴたりと立ち止まり、くいっと傘の縁を持ち上げた。
 「こんなところにいやがったか」
 その人物はが思ったとおり土方だった。
 暗闇の中に浮かび上がる輪郭が、水溜りを跳ね上げてに近づいてきた。
 土方はの前に立つと、傘の影でもわかるほどくっきりとした皺を眉間に浮かべた。
 「雨は降るわ遅えわで、どれだけ俺が」
 そこまで言うと土方は急に口を噤んだ。
 雨が傘に落ちる音が二人の間に響く。
 「…ご心配、おかけしてすみません」
 その後を受けてが謝った。
 「心配なんかしてねえ」
 ぷいと土方は横を向き、傘を傾げて顔を隠した。

 傘から水滴がぼたぼたと垂れ落ち、の袖にかかった。
 「あっ…」
 は小さく声を上げ、手拭いで水気を払う。
 土方はその声にすっと傘を動かし、に水滴がかからないようにした。

 「帰るぞ」
 土方は寺の門に背を向け、肩越しにに言った。
 「あの、お手数ですけど一度前川邸に戻って私の傘を持ってきていただけませんか? 部屋の納戸に入れてあるのですが」
 は土方を見上げて頼んだ。
 「面倒だ、一緒に入っていけばいいだろ」
 土方は少し傘を持ち上げ、自分の左側を指差した。どうやら同じ傘の内に入っていけということらしい。
 「え…」
 は僅かに後じさった。
 「何だ、早くしねえか」
 なかなか自分の横に来ないを、土方は苛々として睨みつけた。
 「は、はい」
 は風呂敷包みを胸元で抱え直し、土方の傘の左半分に入った。

 傘に雨粒が絶え間なく落ち、舗装されていない道は水浸しな上に泥でぬかるんでいて歩きづらい。
 早く前川邸に戻りたいと思い、はもどかしく思いながらも急いで足を動かした。

 土方がの肩に手を回し、ぐっと体を引き寄せた。
 が土方に視線を向けると、土方は軽く頷いてゆっくりと歩き出した。
 二人で中途半端に離れて早く歩くよりも、寄り添って歩幅を合わせたほうが濡れにくい。
 はすっかり傘の影に隠れ、濡れるのは足元だけになった。

 前川邸の門をくぐると、二人は式台からは上がらず土方の部屋の縁側へと向かった。
 は縁側で足袋を脱ぎ、袴の裾をぎゅっと絞って部屋に上がった。
 土方はから手拭いを借りるとさっと足だけを拭いて中に入った。


 はすぐに風呂に入れられた。
 すでに葉桜の季節とはいえ、雨に当たれば寒くもあり、風邪を引く可能性もある。
 土方が自分の遅い帰宅を気にしながら風呂を沸かす指示を出しておいてくれたのだろう。
 人に命令を出して後は知らない振りをしているが、細かいところまで気の利く男だ。
 それがいつでも有り難いと思う。

 そして先ほどの傘の下でも。
 自分が濡れないように引き寄せてくれた。
 は、後でいいからと言う自分を引きずって風呂場の脱衣所に放り込んだ時に見えた、土方の右半身を思い出した。
 紺色の縞の長着が一段暗い色に染まっており、雨に当たって濡れていたのを表していた。
 自分が濡れないように、傘を大きくこちらに掲げてくれていたのだ。
 まだ先でも間に合うはずの手拭いの買い物などをして、おまけに新作の手拭いを眺めていて雨に降られ、土方にこんな迷惑をかけるなど、 申し訳ないことこの上ない。
 はさっと全身を洗って温まると、手早く着替えて部屋に戻った。


 土方が風呂に入りに行った。
 は行灯の薄暗い明かりの中で濡れた着物を衣桁に掛け、手拭いで水気を取った。明日、土方の分と一緒に火熨斗をあてようと思う。
 着物を上から下まで丹念に触っていくと、袂に何かが入っている感触があった。
 取り出してみると、それは財布だった。買い物をした際に胸元に押し込んだつもりだったが、いつの間にか袂まで落ちていたらしい。

 木綿で出来た財布もまた雨にじっとりと濡れていた。
 は紐を解いて中身を取り出した。じゃらじゃらと小銭ばかりが畳の上に散らばる。それを一枚ずつ拭いて、別の布の小袋に入れた。

 最後の一枚を拭いて袋に収めようとしたの手が止まった。
 五百円玉より大きいそれの表には、寛永通宝の文字が刻まれている。学生の頃に社会科の資料集で見たものと同じだ。 まさか自分の目で本物を見ることになるとは思ってもいなかった。

 元の時代の硬貨と、大きさも重さも手触りも違う。
 機械で均一に作られたものではない、人の手による鋳造の凸凹した感触だ。
 通貨単位も違うので、こちらに来て買い物を最初にした時はどの硬貨をどのぐらい出せばいいのか全くわからなかった。
 たいていは土方や斉藤が一緒にいてくれたし、二人がこの時代の通貨について教えてくれたのを必死で覚えたため、今は何の問題もなく買い物が出来る。

 いつの間にかこの時代の通貨での買い物に慣れてしまった。
 いつか帰らねばならないのに、どんどん順応していってしまっている。
 池を観察する頻度も、こちらに来た直後ほどではない。
 ここにいる限りはこの時代での生活に慣れねばならないが、だからと言っても慣れすぎてはいないだろうか。
 帰るのを、僅かにでもこうして戸惑うほどに。
 こちらでの生活に順応していることを、後ろめたいと感じるほどに。


 いつか、ここを離れて帰らなければならない。それを忘れてはならない。
 は手の中の丸い硬貨を固く握り締めて項垂れた。


 さらりと障子が開いて土方が戻ってきた。
 はっとしては体を起こす。

 「どこか痛えのか」
 「…いいえ」
 土方に言われて、は首を振った。
 どこも痛くなどない。
 痛くない、はずだ。

 土方はの横に腰を下ろした。
 そしてその細い肩に手を置き、抱き寄せた。

 雨だれが軒先から地面を穿つ。
 の耳に届くのは、雨の音と、土方の鼓動。

 肩に伸びていないほうの土方の手が、の顎を掬う。
 はその力に逆らわずに上を向いた。

 目を合わせ、二人はしばし黙ったまま見つめ合った。


 どのぐらいそのままであったのかはわからない。
 が、は土方の心を窺うように首を傾げた。
 すると土方は顎から手を離し、の頬をつねった。

 「いたた、何するんですか」
 強めの力でつねられ、は土方の手を頬から外した。
 頬を押さえて痛がる様子に土方はぷっと吹き出した。
 「もう寝るだろ。俺の分も布団を敷いておけ」
 の体を離すと、土方は行灯を文机の横に移動させて、自分もその前に座った。文机の上には書状が何通も乗っており、 まだ仕事が残っている様子だった。
 「お仕事の途中なのに、迎えに来てくださったんですか?」
 は書状の山から目を上げて聞いた。
 「テメェひとりのためにそんなことするわけねえだろ。ガキじゃあるめえし。気分転換だ」
 筆の穂先に含ませた墨をしごきながら土方が答えた。
 「この雨の中をですか? それにさっき、雨は降るわ遅いわでって」
 「うるせえ、俺はまだ仕事が残ってんだ。とっとと静かに寝やがれ」
 が疑問を口にしたが、土方はそれを一蹴して文机に向かった。



 は二人分の布団を敷くと、土方に挨拶をして床に就いた。
 雨脚はまだ弱まっていない。土方が迎えに来てくれて本当によかった。そうでなければ今頃まだ壬生寺の門の下で立ち尽くしていただろう。 そしてもしかしたら、また中身だけ入れ替わっていたかもしれない。
 土方が言っていたのはただの言い訳だ。この豪雨の中を、誰が気分転換と称して歩き回るだろうか。
 は土方の背中に無言で感謝を送ると、枕に頭を置いて目を閉じた。


 その夜、は眠りが深くなったり浅くなったりを繰り返した。
 雨に濡れて少し熱でも出たのだろうか、ふわふわと眠りの狭間を漂っている感じがした。

 そしてその中で、誰かに固く抱き締められている夢を見た。
 低い声で誰かが自分の耳元で囁いていた。
 行くな、と。
 何に対しての言葉なのかがわからず、は相手の肩口に顔を埋めていた。

 ふと額に何か柔らかいものが押し当てられた。
 力が抜けて、周りが暗くなるのを感じた。夢が終わったのだ。



 夢の果てた後、は朝までぐっすりと眠り込んだ。





どうしようもないおまけ。


 20090515