久遠の空 ドリーム小説 八景集 慕雪

八景集 慕雪



 その日は寒い夜だった。
 雪がちらほらと落ちてきて、あっという間にぼた雪になった。
 いよいよ冬も本番なのだと気付かされる。

 は少し遅くなって屯所へと戻った。
 雪で濡れた衣服が重たい。肌の表面どころか芯まで凍るような冷たさが入り込んできている。
 震えながら廊下を歩いていると、風呂上りの沖田と出会った。
 「お帰りなさい、さん」
 「ただいま戻りました」
 お互い白い息で言葉を交わす。
 「大丈夫ですか?お湯に入っていらっしゃい。まだ温かいですよ」
 の唇が血の気を薄くして震えているのを見て、沖田は提案した。
 「あ、はい」
 雪が降る中を帰ってきたのだ、風呂に入って温まってから眠らねば風邪を引いてしまう。
 「少し外で沸かしてあげますから、どうぞゆっくり入ってくださいね」
 沖田は濡れた髪を拭きながら言った。
 「沸かし直しは結構です。沖田さんが風邪を」
 「大丈夫ですよ、ほんの少しだけですから。ほら、準備してきてください」
 沖田に背中をぐいぐいと押され、は土方の部屋へと向かった。
 そして風呂の準備をして湯殿へと足を運んだ。


 「ふー…」
 そそくさと脱衣所に入り服を脱ぐと、はさっと体を洗って湯に浸かった。
 湯はそんなに多く残っていなかったが、きれいだった。
 少し身を屈めて肩まで浸かると、生き返ったような心持ちになる。
 沖田の親切が心底有り難かった。
 じわじわと体の表面から湯の温度が入り込んでくるのを感じながら、は目を閉じた。

 湯がぽたりぽたりと落ちる音の合間に、外から声が聞こえてきた。
 土方の声のようだ。
 何を言っているのかまでは聞こえないが、沖田らしい声も聞こえてきたので、二人で何がしかの会話をしているのだろう。
 は先ほど部屋に戻った時に土方の姿が見えなかったのを思い出した。他出していたらしい。
 きっと土方も体が冷えているだろう。もう少しだけ温まらせてもらったらすぐに上がって交代しようとは思った。


 沖田が外で薪をくべてくれているが、何だか急にとても熱くなってきたような気がする。
 はもう上がろうと思い、湯桶のふちに手をかけた。


 するとその時、がらりと湯殿の戸が開き、誰かが入ってきた。
 は心臓がきゅうと縮まるのを感じた。
 誰も入って来られない様に、入り口の戸につっかえ棒をしているはずなのに、何故。
 そこでははっとした。
 あまりの寒さに急いで風呂に入ってしまったため、つっかえ棒を忘れていた。


 まずい。
 まずいなんてものではない。
 どうしたらこの場を逃れられるだろう。
 ははやる動悸を必死に制御し、この場を逃れる方法を考えながらもう一度湯に体を沈めた。

 「誰だ?」
 湯気の向こうから聞こえてきた声の持ち主は、
 「…土方さん?」
 土方だった。


 「え、か?」
 こちらも驚いたが向こうも驚いたようだ。
 「は、はい…」
 そろりと湯船のふちから目だけを覗かせると、手拭いで下半身を隠した土方がそこに立っていた。
 「っ」
 さすがに大声は出さなかったが、はざぶりと音を立ててまた湯に身を沈めた。
 「すみません、すぐに出ますから。申し訳ありませんが、お部屋で待っててくださいませんか」
 は湯船の中で土方と反対の方向を向いて言った。
 このままでは出て行けない。
 手間をかけることになるが、土方にもう一度着替えてもらって部屋に戻ってもらい、その間に自分が出て着替えを済ませ、土方を呼びに行くしかない。
 まさか裸のまますれ違って“お先でした”なんて出るわけにもいかなかった。
 「あ、ああ」
 土方は踵を返したが、ふと考えが頭をよぎって足を止めた。

 戸が閉まる音が聞こえて、はほっとして前を向いた。
 が、何故か視界に入ってきたのは、湯気に煙る逞しい胸板。
 「…?」
 顔を上げると、そこには土方がいた。
 「えっ、土方さん?」
 出て行ったと思った相手がそこにいて、は驚きを隠せなかった。
 「一緒に入るか?」
 ニヤリと口の端を吊り上げ、土方が言う。
 「あ、あの…」
 は土方に背を向け、縮こまって体を隠した。

 さすがに赤くなっているを見て、土方は吹き出した。
 「馬鹿野郎、冗談に決まってんだろ」
 土方は人差し指で軽くの後頭部を小突いた。
 「まあしかし、もう一回服着んのもめんどくせえ。そこそこあったまったんなら俺が入るからお前は出ろ。見やしねえよ」
 そう言って土方は体に湯をかけた。
 確かに寒い中をもう一度着替えて部屋まで戻るのは面倒だろう。それぐらいは譲歩しなければならないと思い、は頷いた。

 土方が湯船に入り、その体積で湯が増えた。
 「悪かったな、総司の野郎が風呂沸いてるって言うからよ、確かめもしねえで入っちまった」
 外でしていた会話はそれだったのかとは思った。
 土方も雪で冷えていて、急いで温まりたかったのだろう。普段なら脱衣所の隅に隠すように置いてあるの着替えに気付くのに違いないのに。

 はその声が自分の方に向いていないことを耳で確認した。
 「出ますね」
 そしてそっと振り向いて土方が背中を向けているのを目で確認すると、自分の手ぬぐいで前を隠して湯船のふちに手をかけた。


 が。
 「どうですか、いいお湯ですか?」
 がらりと戸が開き、なんと素っ裸になった沖田が入ってきた。


 「!」
 は反射的に再び湯船に潜った。
 「総司?」
 土方も驚いて思わず戸の方を見遣った。
 「薪をくべてたらやっぱりちょっと寒くなったんで、軽く入りに来ました」
 何の罪悪感もなく沖田は言って、湯船に近づいてきた。
 「テメェ出ろ! 二人で満員だ!」
 かけ湯をして入ろうとする沖田を、土方は慌てて止めた。
 「えーちょっと詰めてくれれば入れるじゃないですか。ほらもう少しそっち行って下さいよ」
 沖田は口を尖らせて土方の隣に強引に身を沈めた。
 「出ろっつってんだ!」
 「いやですよ、また服着るの面倒ですもん」
 同じことを言って湯船に入った土方には返す言葉が見つからなかった。
 まさか沖田に“”は実は女だからと言うわけにもいかず、土方は背中にを隠した。
 もそれを察して、出来るだけ体を小さくして土方の影になるように座った。

 ちゃぽん、と水滴が落ちる音が響く。
 三人の男(一人は女だが)は黙って湯船に浸かっていた。
 一人は上機嫌で。
 一人は渋い顔で。
 一人は思案顔で。

 (どうする…)
 土方は、熱い湯に浸かっているのに額を冷たいものが伝うのを感じた。
 (とは言っても、総司が上がるまで待つしかねえが…)
 その背中にはの背中が当たっていて、柔らかい感触が伝わってくる。
 くだらない妄想が頭をもたげてきそうになったが、今はそんなことを考えている場合ではない。
 じっと息を詰めているを沖田が上がるまでこの背で守ることしかできないが、それが最も重要なことだった。


 「…土方さん」
 ぼそりとが低い声で呟いた。
 「何だ」
 苛ついた声で土方は答えた。


 「熱い…」
 はふうと息を吐いた。


 「のぼせてきた、みたい…です…」


 「あ?」
 この肝心な時に。
 (テメェが自分で状況悪くしてどうすんだ!)
 土方は心の中で舌打ちした。


 「え、さん?大丈夫ですか?」
 の言葉が聞こえ、沖田は土方の背へ視線を向けた。
 「…沖田さん、申し訳ありませんが、布団…敷いてきてくれませんか。あと鼻血が出そうなんでちり紙も…」
 は苦しそうに土方の背から話し掛けた。
 「土方さん…すみませんが、部屋まで…連れて行ってください…」
 「わかりましたっ」
 沖田は湯船を飛び出し、入り口の戸を開けて素早く後ろ手にそれを閉めた。


 ごそごそと着替える音が聞こえ、脱衣所の戸を開け閉めする音がした。
 廊下を小走りに行く足音を確認すると、土方は後ろを振り向いた。
 「オイ、大丈夫か?」
 「はい」
 「…え?」
 心配して声を掛けたのに、彼女の返事は平素とまったく変わらなかった。
 「今のうちに上がりますね」
 は土方に言った。

 はっと土方は思った。
 がのぼせたと言ったのは方便だと。
 沖田をこの場からすぐに去らせるための演技なのだと。

 …たいしたタマじゃねえか。
 土方はの機転に思わず笑みを漏らした。

 「沖田さんが来たら、一人でも部屋まで行けそうだからと言っておきます。どうぞ土方さんはゆっくり入っててください」
 平然とは言い、出ますから向こうを向いててくださいと告げた。
 土方は返事をして戸と反対の方を向いた。
 は肩越しにちらりとそれを確認すると、素早く湯から上がり、脱衣所へと急いだ。

 戸が閉まる音が聞こえた。
 土方は戸の方に体を向け、湯船のふちに体を預けた。
 自分の熱い風呂好きを知っている沖田が沸かしてくれたから温度は丁度いい。
 だが、あまり慣れていない者には熱すぎるだろう。

 無事にこの場を切り抜けることが出来て、土方はふーっと長い溜息をついた。
 が機転を利かせなかったら、それこそ熱くてのぼせて倒れたに違いない。
 彼女のそういうところは悪くないと土方は思った。



 どさり。
 と、脱衣所から何かが床に落ちる音が聞こえてきた。

 何の音だと土方は思ったが、瞬間的にある考えに思い当たって湯船を飛び出た。
 手ぬぐいを腰に巻きつけてがらりと戸を開けると、思ったとおりだった。


 が倒れていた。


 「オイ!」
 土方はを抱き起こし、頬をはたいた。
 「…すみません、本当にのぼせたみたいで…」
 は眉に皺を寄せて小声で言った。

 高温の湯でいつもの風呂上りよりも赤く染まった頬。
 苦しげに自分を見上げる目。
 まだ結ぶ前で緩く巻かれているだけの帯。
 長着の前ははだけ、湯に染まった桃色の肌が胸元まで見えている。
 そしてその下へと視線を辿ると、割れた裾から白い足が覗いていた。



 土方は、喉をごくりと鳴らした。



 「さん、大丈夫ですか! お布団の準備出来ましたよ!」
 そこへ、布団の支度を整えた沖田が飛び込んできた。


 「あ」
 「え」
 「?」




 「本当にお出かけするんですか?」
 「うるせえな」
 何とか沖田の目を誤魔化してを部屋へと戻した土方は、袴を付けながら沖田に答えた。
 「せっかくお風呂で温まったのに、何だってまた悪所なんかへ…ねえさん」
 「はあ…」
 沖田は眉を寄せてぶつぶつと文句を言った。
 布団に転がったにも、土方の真意がいまいちわからない。
 よもやその原因が自分にあるとは露ほどにも思っていなかった。

 (我慢できるならそうしてら)
 土方は恨めしそうな目でを見下ろした。
 日々忍耐を重ねて努力はしている。
 だが今日はきっと駄目だ。
 これから彼女と二人きりになったらと思うと、今夜の自分に自信が持てない。
 彼女と合わせた背中の、あの感触を思い出したら。
 首元から胸元まで見えた白い肌や、はだけた足がすぐそこにあると思ったら。
 うっかりコトに及んで彼女を傷つけるつもりなど毛頭ないが、それでは自分の方が辛くなるだけなのもわかっている。


 土方は障子を開けた。
 雪はぼた雪からふわふわと白く舞うものに変わっていた。
 「これは…今夜は積もりますね」
 沖田が雪を見て言った。
 「そうですね」
 それにも続く。

 「本当に…お出かけになるのですか?」
 土方の背にが言葉を掛けた。
 「ああ」
 深深と降る雪が庭を白く染めていく。
 その寒さに、土方は少しだけ身を震わせた。
 そして室内へは振り向かずに廊下を歩いていった。



 門を守る隊士に外出を告げ、土方は傘を差した。
 三十本の骨数の、鬼骨傘と言う物だ。
 以前遊里から屯所へ帰る際に見世で借りたものだ。
 誰かの忘れ物らしいが、“鬼の副長はんにはぴったりのお名前どす”と見世の番頭が渡してくれた。

 「何が鬼だ」
 ふと土方は自嘲する。
 たかが背中が触れ合って、肌がいつも以上に見えただけでこのザマだ。
 情けないったらありゃしねえ。

 「…ったく」
 土方は傘を閉じ、その身に雪を受けた。
 顔に降り注ぐ雪が冷たく解ける。

 白い雪に、地面も塀の上の瓦も、天に伸びる木の枝も覆い隠されてゆく。
 土方は遠く見える花街の明かりを眺めながら、この気持ちも白く覆い隠してしまいたい気分になった。



 土方が風邪を引いて帰ってきたのは翌日の早朝だった。
 布団に押し込められて退屈な時間を過ごしている中、どうしてこんなことになったのかを反芻してみた。

 …あいつのせいだ。
 土方は布団の中で大きく溜息をついた。
 それを、看病していたが心配そうな目で見ていたのは知らない。



 その後、元気になった土方が、虎視眈々と一番隊組長を熱湯風呂で釜茹での刑にするのを狙っていたとかいないとか。






 20080526
 参考文献:『近世風俗志』(五)守貞謾稿 喜田川守貞著 宇佐美英機校訂 岩波文庫 2002年