剣葬 11
松本の部屋には高い足のついた寝台があり、そこには横たわっていた。
顎に向かって緩やかな曲線を描いていた面影は消え、影が落ちるほどに細くなっている。
顔色は透けるように青白く、安静を言い渡されている沖田よりも生気がない。
(大坂か京にいるはずじゃねえのか。なぜこんなにくたびれてやがる)
逃げ帰ってきた江戸で、しかもやせ細った姿での再会に、土方はただ立ち尽くした。
「どこで、こいつを」
さしもの土方も、京で別れたと江戸で、ましてやこんな状態になって再会するなど思ってもおらず、声が途切れる。
「江戸城だ。肥後守様より託された」
松本は弱ったとばかりにため息をつき、を引き取ったいきさつを語り始めた。
医学所で治療に当たっている松本に、江戸城からの呼出があった。江戸に戻ってきた徳川慶喜の健康診断をして欲しいとの要請である。
松本は早速診察道具を抱え、江戸城へ登城した。
慶喜の健康診断を行った松本は、忙しいからと早々に慶喜の居室を追い出され、帰ろうと廊下を歩いている途中で容保に呼び止められたのだと言う。
容保は松本を、慶喜の居室の奥へと連れて行った。
容保にしろ松本にしろ、江戸城のこんな奥まで入ることなど、普段は叶わない。表が戦か恭順かで大騒ぎだからこそ、こっそりと入り込むことが出来たのだ。
重たい板戸を開けると、そこにが横たわっていた。
今と同じような、まるっきり生気のない様子で。
「肥後守様の話だと、何日もこの状態で目を覚まさないらしい。経過観察をさせてほしいと引き取ってきたんだが、俺も他の病人をわんさか抱えてる。どうしたものかと思ってな」
顎をさすりながら松本がまたため息を追加する。
「わかりました。目を覚ますまでは俺が側にいます」
他の者に任せて、が実は女であることがばれたら事だ。
自分が側にいるのが一番だと、土方はを見守ることにした。
「なあ、土方よ」
松本が目元に暗い影を落とす。
「何があったのかは知らねえが、人がこんなになるなんて滅多なことじゃねえ」
「はい」
信頼できる医師の見立てだと、土方は頷いた。
「ましては今、世情は戦になっちまってる。お前さんは幕臣の組織にいる限り、これから戦い続ける。万一幕府が倒れちまったら、幹部のお前さんは責任を負わされるだろう」
「ええ、わかってます」
「京で別れたのに江戸で再会できたのも何かの縁だ。この先のことも含めて、いい加減との間柄に決着つけたほうがいいんじゃねえのか」
松本は土方を見据える。
土方も松本の視線を受け止める。
はめ込まれたガラス窓が、風でカタカタと音を立てた。
「余計な話だったかもしれねえが」
と松本は視線を逸らす。
「いいえ、ありがとうございます」
土方は口元に笑みを浮かべて、頭を下げた。
土方は一度医学所を出て滞在先の釜屋へ行った。そして斎藤に事情を話し、後のことを託してまた医学所へ戻ってきた。
松本の私室に戻ると、室内には火鉢がいくつも集められており、眠るの体の上には布団がこれでもかとかけられていた。
「ここには誰も近づけないようにしておくから、後は頼んだぜ。朝になったらまた来るからな」
松本はそう言い残し、あわただしく診察部屋へと駆けていった。
土方はの寝台の側に椅子を引き寄せて座った。
寝台の横には鉄瓶が載せられた長火鉢がある。
しゅんしゅんと小さな音を立て、鉄瓶から湯気が上がっていた。
土方はを見つめた。
顔色はまだ悪く、瞼は固く閉じられている。
静かすぎる様子を眺めていると、疑問が次々に浮かび上がってきた。
(まずこいつはいつどうやってどうやって江戸へ来たんだ?)
十中八九、慶喜にさらわれて、いや、連れてこられたに違いない。
通詞としても小姓としても使えるのだから、手元に置こうとしたのだろう。
(そうだとすれば…今度はなぜ豚一公がこいつを手放したのか…しかも肥後守様が絡んでいるとは…)
は英吉利語を習得する際、会津藩の士分を得ている。肥後守松平容保とも面識はある。
しかし、彼女を呼び出したのは徳川慶喜だ。
(豚一公の傍らで通詞の仕事をしているはずのこいつが、何だって肥後守様と…?)
ますます疑問は深まるばかりである。
(起きたらこいつに聞けばわかるか)
そう思い、は再びに目を落とす。
規則正しく呼吸はしているようだが、注意して耳を澄まさなければ聞こえないほど、その音は小さかった。
“いい加減との間柄に決着つけたほうがいいんじゃねえのか”
松本の言葉が土方の頭をよぎる。
(言われなくても、わかっちゃいるが)
溜息をつきながら背もたれに背を預けると、思ったより大きくきしんだ音がした。
まずいと思ってを見るが、は土方のたてた音にまったく気付かず、寝たままであった。
松本が自分に言いたいことはわかっている。
新選組は幕府に取り立てられた。自分は近藤に次ぐ幹部である。
幕府がこの国の頂点に立っている時はいいだろう。幕府の威光で新選組も大きな顔をしていられる。
新選組の鬼副長の名の下、をいくらでも守ってやることが出来る。
だが、今、幕府は薩長をはじめとする西国に押され始めている。いや、京坂で負けて江戸まで逃げてきたのだ。
(京じゃあ見廻りと称して街を闊歩し、捕縛と称して暴れてきたからな。さぞかし恨みも買っていることだろう)
ふ、と土方の口元に苦笑いが浮かぶ。
が万一、西国の兵に掴まり、新選組副長の小姓であることがばれたら、何をされるか。
ましてやそれが女だとわかってしまったら、の行く末は想像に難くない。
英吉利語の通詞が出来ると言っても、それだけで身の安全など保障されるかと、土方は唇を噛む。
そして、池のこともある。
が別の時代からやってきた入り口である池は、五年ごとに光る。
あれからちょうど五年。明日にでもあの池はーーー前川邸の庭の池は光を放つだろう。
今すぐを京へ戻しても、間に合うかわからない。
仮に京へ戻らせるとしても、無事に京までたどり着けるか。
薩長の軍隊が江戸へ向かって進撃してきていたら、なおさら状況は厳しくなる。
(もし山崎が生きてりゃ頼めないこともなかったが…)
これほどについて山崎を頼みにしていたのかと、土方は重い溜息を重ねた。
土方の脳裡に、兄である為次郎の顔が浮かぶ。
(そういや前に江戸へ戻ってきた時に、こいつを日野へ置いていこうとしたっけな)
新たな隊士を募集しに江戸へ戻ったあの時、を女として日野の実家に預けようとしたことを思い出す。
(ここからなら日野はそう遠かねえ)
土方は顔を上げ、窓の外を見た。
窓ガラスはうっすらと白く煙り、柔らかく歪むガラス越しの景色をさらにぼやかしている。
曖昧な風景に、土方はしばし目を留めた。
翌日もは目を覚まさず、身じろぎひとつしなかった。
土方は椅子の背を前にし、背もたれに顎を載せてをひたすら見つめ続ける。
そして今までのこと、これからのことをひたすらに考えていた。
その次の日、早朝。
寝台に突っ伏していた土方は、微かな気配に目を覚ました。
にかぶせられた布団がこそりと動いた。
土方は注意深くを見つめ続ける。
顔にうっすらと赤みが戻ってきており、唇が小さく動く。
長いまつげに縁取られた瞼が、ゆっくりと開かれた。
「ひ…じ、かた、さん…?」
かすれて聞き取りづらい声で、が確認を取る。
「気づいたか」
やっと目を覚ました。名を呼んでくれた。
土方は心から安堵したが、それを面には出さなかった。
「ここは松本法眼のいる医学所だ。法眼を呼んでくる」
とにかくを診てもらおうと、土方は体を起こして立ち上がる。
その袖を、の手が緩く引いた。
引き留められ、土方はを見下ろす。
「よかった…土方さん、ご無事で…生きてて…本当に、よかっ…」
は血の気のない顔に精一杯の笑みを浮かべた。
土方はきびすを返し、がばりとに覆い被さって抱き締めた。
重くのしかかるのではなく、負担にならないように腕を回し、をそっと包み込む。
腕の中に彼女がいる。
京で別れ、大坂から江戸へ向かう際にはもう会えないと覚悟していたのに。
どんなに弱っていても、こうして再会できてよかったと、土方は思いをかみしめた。
も心の赴くまま、土方の背に腕を伸ばした。
煙草の香りの向こうに土方のぬくもりが感じられる。
生きている、力強い温かさ。
炎と煙に支配された戦をくぐり抜け、土方が今ここに生きている。
熱いものがこみ上げてきて、固く閉じた瞼からこぼれだした。
「…そのままでいい。聞け」
しばらく互いの存在を確かめ合った後、土方が低い声で言った。
土方が与えてくれる温もりにぼんやりとしつつも、は小さく頷く。
「京から大坂へ戦が広がったのは知っているな。大坂の戦で、源さんと山崎が死んだ」
「……え?」
「源さんは大坂の千両松で、敵の弾に当たった。甥っ子の泰輔が首と刀を江戸へ運ぼうとしたが、無理だった。山崎も弾に射抜かれて、江戸への船の中でーーー」
やや早い口調で話す土方の言葉が飲み込みきれない。理解できない。
の心臓は鈍い音を立て、頭にまで重い拍動が伝わってくる。
「二人から伝言を預かっている。源さんが、お前は立派な小姓になったと。山崎は、よく一緒に大坂へ行って仕事をして、楽しかっただとよ」
「それ…それ、本当に…」
「俺が直接本人たちから聞いた」
「井上さんと、山崎さんが…?」
あの二人が。
いつも自分を気にかけ、見守ってくれていた二人が、もういない。
そんなことは信じたくない。
だが、土方の言葉に嘘があるとは思えないし、土方が自分に嘘などつく必要もない。
の腕が、土方の背中で震える。唇からは押し殺した嗚咽が漏れる。
土方と背と耳に、の悲しみがまっすぐ伝わってきた。
ふと土方は自分の心にぽっかりと大きな穴があるのに気付く。
忙しさで押し隠していた喪失感が、今になって現れてきた。
の髪を撫でながら、土方もその痛みを鎮めていく。
「まだお前に話がある。池のことだ」
がまだ落ち着かない中、土方は切り出した。
は嗚咽を堪え、土方の声に耳を澄ませた。
「お前もわかってるだろうが、もう池は光るはずだ。だが、お前は今こうして江戸にいる」
「はい」
「今からお前を京に戻すことは出来ん。戦の中だし、お前を託せる奴もいねえ」
「はい」
彼女を京に戻すことは出来ない。
故郷の日野に置いていくことも考えたが、それも出来ない。
自分の兄弟に迷惑をかけられないなどの理由ではない。
今まで何度も、互いの仕事だからと離れては戻ってきた。
だが、この世情の中、今離れたらもう二度とまみえることがない気がした。
たとえこの先新選組が戦に巻き込まれ、幕臣としての地位を失おうとも。
この腕で必ず彼女を守ってみせる。
(俺自身が、こいつを失いたくねえんだ)
土方は一旦言葉を切り、静かに深く息を吸う。
そしての体に回した腕に力を込め、耳元に唇を寄せて、囁いた。
「俺と来い」
涙が止まり、は天井を見上げる。
(池がそろそろ光るのは、私もわかっていた)
ちょうど五年前の今頃、まだ冷たい空気が満ちていた頃、はこの京に来た。
毎年寒さが募る時期になると、五年ごととわかっていても、池が光るか気になっていた。
今年はまさしく池が光る年。
やっと元の時代に帰れる機会が巡ってきた、はずだった。
(でも…私は、土方さんの側を離れたくない)
わがままだとわかっている。
元の時代に戻るべきなのも承知の上だ。
それでも、この気持ちを抑えることなど出来ない。
「はい」
ははっきりとした口調で、短い返事をした。
土方の背に回した腕に、迷いはなかった。
20130201