剣葬 8
間もなく戦になる。
容保の言葉を、はすぐに理解することになった。
その日の夕方、日も暮れようとしている時分から、開戦の火蓋が切って落とされたのである。
御台書院に戻っていたは、息を殺し、静かにしていた。
室外の様子が変わるのを感じ取るために。
そして日が傾きかかった頃、本丸御殿の中をどたどたと走る複数の音が聞こえてきた。
は書院の戸をそっと開ける。
見張り役の側近はまだいない。
足音を忍ばせ、廊下に出た。
人の声が多く、大きいのは、やはり大広間である。
は障子に寄り添い、中の会話に耳を澄ませた。
「伏見方面にて煙が上がっております!」
「それは誠か」
「は」
「とうとう始まったか」
「いかがなさいます、上様」
「上様!」
「上様、ご決断を!」
上様上様と慶喜に詰め寄る声が重なり、室内の緊張が一気に高まる。
の喉がごくりと鳴った。
「たれぞ、今一度、確かめて参れ」
慶喜の声が、静まりかえった大広間に響き渡る。
「本当に伏見から煙が上がっているのか、今一度見て参れと申しておるのだ」
「は、ははっ!」
「では私が」
慶喜の命令は絶対である。誰かが見に行くようだ。
(こっちから出てくるか?)
障子の開く音に、は廊下の角へと身を引いた。
ところが、こちら側の障子は一枚も開かない。
(別の方から?)
は近藤たちと面会した時の大広間の間取りを思い出す。
(部屋の向こう側にも、出入りできるような襖があった)
身を翻すと、は来た廊下を戻っていった。
(伏見は北東の方角だ。そちらの方面を見に行くに違いない)
はそう見当をつけて廊下を走る。
すると、考えたとおり、目の前を急ぎ足で進む側近の姿があった。
は側近とつかず離れずの距離でついていく。
側近はに気付いていない。ひたすらに目的の場所へ向かう。
本丸御殿のもっとも北にある、小納戸蔵。
蔵の前にある廊下から、広い空が見える。
側近がそこから北東の方角を確かめるため、身を乗り出す。
(あの人がいなくなったら私も覗いてみよう)
は側近のいる廊下とは反対の角へ素早く移動し、側近が出てくるのを待った。
ところが、側近はなかなか出てこない。じっくりと観察しているのだろう。
が集中力を切らしそうになった時、短く悲鳴が聞こえた。
びっくりしたの目に飛び込んできたのは、顔面を血まみれにして足を引きずる、側近の姿であった。
「ど…どうしたんですか?」
は側近に駆け寄り、懐から懐紙を取り出す。
「足を滑らせまして、廊下から地面へ落ちてしまいました。しかし山口殿…貴殿、なぜここに…?」
側近は、部屋に軟禁されているはずのを見て驚いた。
「外の様子を知りたくて…そこから伏見の様子は見えますか?」
側近がいた場所へとは視線を投げる。
見えると言わんばかりに側近は頷いた。
まだ血が止まらない側近へ懐紙を束のまま渡し、は立ち上がる。
(あの向こうに、戦をしているかどうかの答えが見える)
そう思った途端、の心臓は急に動悸が激しくなった。
どきん、どきんと。嫌な音が耳まで届く。
(どうか…戦になどなっていませんように…)
は汗ばむ手の平で壁を伝い、とまどう足を動かして、廊下の向こうに広がる空へと目を向けた。
北東の方角、伏見の辺りから、薄墨色の煙がもうもうと立ち上っている。
煙の隙間をちろちろと赤い炎が縫って走る。
西からはいつもと変わらぬ残照が降り注いでいるのに。
まるでそこだけ切り取って別の景色をはめ込んだかのように、戦場がそこにあった。
「…まさ、か」
はがくりと膝を折った。
先日の近藤の話では、新選組は伏見に陣を敷いている。
あの煙の中に、新選組の皆がいる。
目から涙がこぼれてきそうになるが、は歯を食いしばって堪える。
(何故…何故私はこんなところで…強く暇乞いもせずにいたの?)
きつく拳を握りしめ、黒光りする廊下を力一杯叩く。
確かに、慶喜に呼ばれて仕事をしにこの大坂へ来た。
まだ通訳の仕事があるかもしれないから残れと言われていた。
だから御台書院でおとなしく待っていた。
だが、今はっきりと自分の気持ちが分かった。
通訳の仕事も大事だが、新選組に戻りたい。
一緒に戦えるだけの腕前が無くても、傷口に包帯を巻くぐらいしか出来なくても、
(新選組に…土方さんの元に、帰りたい)
はゆらりと立ち上がる。
打ち付けた手の痛みなどものともせず、ずんずんと側近の男に近寄っていく。
「歩けますか? 上様の元へ行きましょう」
ぐいと側近の腕を掴んで立たせると、そのまま大広間へと小走りに戻っていった。
「失礼いたします」
顔の血を拭き取った側近が大広間へ入る。その後ろからも続いた。
の姿を認めた慶喜と容保の眉がぴくりと上がる。
「ご報告申し上げます。小納戸蔵脇の廊下から確かめましたところ、伏見方面から煙が上がり、戦になっているのが見えました」
側近が告げると、大広間に集められた大名は一様にざわついた。
「上様、やはり戦になっておりまするぞ!」
「江戸においても薩摩に煽られた者どもが、薩摩藩邸を焼き討ちにしたとのこと! どこまで幕府を馬鹿にすれば気が済むのでしょう! ここはひとつ、上様御自ら指揮を執り、一気に薩摩を討ち果たすべしにございます!」
「上様! ご決断を!」
「上様!」
慶喜の言葉を、全員が待っている。
少し考えるような仕草を見せてから、慶喜はおもむろに口を開いた。
「そなたたちの考え、相分かった」
「おお、上様…!」
「が、薩摩と長州の軍勢は五千。対してこちらは一万五千の軍勢じゃ。精鋭の大部隊が崩れるわけもない。今しばらく状況を見定めてからでも遅くはなかろう」
慶喜は両方の袖をゆったりと翻し、優雅な口調で言った。
「しかし上様、戦はすぐそこに迫っておりますぞ、憚りながら悠長なことは…」
「余は戦わないとは言うておらぬ。それぞれ大坂の藩邸に戻り、戦の支度をせよ。余も支度をさせておく」
話はこれまでと言わんばかりに慶喜は立ち上がり、側近とについてくるよう目で申し渡す。
側近はすぐ慶喜にいざり寄ったが、はその場から動かなかった。
「、どうした。ついて参れ」
慶喜が不思議そうな顔でを見る。
「恐れながら申し上げます。私を、新選組にお戻しください」
はしっかりとした声で、己の考えを口にした。
「何じゃと?」
慶喜の目がつり上がる。
大広間の大名からはどよめきが上がる。
「通詞のお仕事は、どなたか別の方にお願いいたします。私がともに英吉利語を学んでいた会津藩の仲間ならば、誰でも立派に務められるとーーー」
がそこまで言うと、びゅっと風を切る音がして、の肩に何かが打ち据えられた。
慶喜の、刀の鞘であった。
相当な力で打たれ、の肩に痛みと痺れが同時にやってくる。
「ならぬ、ならぬぞ! そなたが余の元を離れることは、断じて許さぬ!」
「上様、どうか私にお暇をください!」
だがは引かず、ただひたすらに頭を下げ続けた。
「ええい、たれぞこやつをひったてよ! 縛り上げて、余の部屋に閉じ込めておけ!」
慶喜が声を荒げる。
すると畳を素早く擦る音がに近づき、の腕をひねり上げた。
「うっ」
は痛みに呻き、腕をひねり上げている人物を見上げた。
「肥後守様…っ?」
を取り押さえているのは容保であった。
「肥後守、よくやった。そのまま部屋まで連れて参れ」
慶喜は満足そうに言うと、先に自室である黒書院に戻っていった。
後ろ手に縛られたは、容保の先導で黒書院まで連れて行かれた。
「馬鹿なことをいたすな」
振り向くと、容保は小声でに言う。
「申し訳ございません…」
は気ばかり焦ってしまった自分を責めた。何もあの場で言わなくてもよかったはずだし、人目を忍んでこっそりと抜け出してもよかったのだ。今更悔いても仕方がないが、悔いるしかない。
「そなたの気持ちは余にもわかる。が、今は耐えよ」
黒書院に入る前に、容保はに耳打ちした。
「はい」
は大人しく頷き、黒書院に入っていった。
黒書院の中では、慶喜が羽織袴を脱いで横になっていた。
入ってきたを一瞥したが、すぐに視線を逸らした。
は一番奥の部屋に押し込められ、食事と厠以外の時は、手足を縛られたままであった。
常に慶喜自身か側近が付き添い、は監視されていた。
(解放してくれるよう頼んでも無駄だ。いつか隙を見て逃げる)
は希望を捨てず、虎視眈々と機会を探り続けた。
しかし、の小さな希望は打ち砕かれた。
戦場は鳥羽、伏見、淀堤千両松と南下し、ついには橋本にまで及んだ。
これにはとうとう慶喜も重い腰を上げ、
「よし、これより余が自ら陣頭指揮を執る! 明日の朝、日が昇ると同時に出陣じゃ!」
と檄を飛ばし、本丸御殿の大広間は大いに盛り上がった。
ところが。
土佐藩兵が、前藩主の山内容堂が出した発砲禁止令を無視して参戦したこと。
淀で、幕府軍が淀城へ入城しようとしたが、城側が門を開けなかったこと。
橋本にて、津の藤堂家が守る高浜砲台が新政府に寝返って幕府軍を攻撃したこと。
たった五千の兵に一万五千の兵がばたばたと倒されていったこと。
それに何より、相手方に錦の御旗がーーー官軍の証拠である錦旗が掲げられたことを知るや、慶喜は誰もが思ってもいなかった策に出たのである。
「余と来るのだ」
夜、蝋燭がなければ一寸先も解らぬ闇の中、は縛られた手を慶喜に掴まれ、黒書院の外へと出された。
「どちらに…?」
とが問うても慶喜は口を固く結んで答えない。
は駕籠に押し込められた。
手を後ろで縛られたままのため、駕籠の窓を開けて外の様子を見ることが出来ない。
耳だけで情報を掴もうと、駕籠の壁に耳をつける。
駕籠が一度止まり、
「何用だ」
「お小姓衆の交替でござる」
という会話が聞こえてきた。
(お小姓衆の交替? 城の外に出た?)
駕籠が揺られた距離と、続いて聞こえてきた木戸の開く音からは推測する。
その後はまた長く駕籠が進み、どこに行くのかまったくわからなかった。
「下りよ」
駕籠が止まり、戸が開く。
駕籠の中も寒かったが、外はさらに寒い。は急速に流れ込んできた冷気にむせた。
間髪入れず慶喜に手を引かれ、突き落とされるように何かに乗せられた。
乗ったものがぐらりと左右に揺れ、それが舟であることがわかった。
大坂に連れてこられた時のような屋根付きの舟ではなく、ただの小舟である。
慶喜と側近数名、の他、総勢十名程度が乗ると、静かに舟は岸を離れた。
舟は沖へ沖へと出て行く。
その先にはちかちかと灯りが見え、巨大な船が停泊しているのが海の闇にも見て取れた。
小舟を近づけると、その船はアメリカの船であることが分かった。
船の甲板から縄ばしごが降ろされてきた。上ではカンテラを振り、上がってくるようにと英語でこちらに叫んでいる。
「そなた、われらを船に乗せるよう通詞をせよ」
手の縄を解きながら慶喜が命じる。
「え?」
どういうことかとは訝る。
「この近くに幕府の軍艦である開陽が停泊しているはずじゃ。それに乗り、大坂を離れて江戸へ向かう」
「ええっ?!」
さすがのも大きな声を出した。
(このまま江戸へ? 嘘でしょう?)
はふるふると首を振る。
「とりあえず手近な船に乗り、開陽まで送ってもらうことにする。さ、、通詞をせよ」
慶喜の声が海の風に乗っての耳に届く。
「で、でも、上様、江戸…江戸って…」
新選組に、土方の元に帰りたいと告げたはずなのに、江戸なんて。
江戸に行ってしまったら、二度と帰れなくなるかもしれないではないか。
は動揺し、言葉が出てこない。
「早ういたさぬか!」
慶喜はの襟を掴むと、突き落とさんばかりに船の縁へとの体を押しつける。
「ぐっ…」
船の横腹に打ち寄せられる波がの顔にかかった。
「上様、そこまでで」
と、と慶喜の間に入った者がいた。
「ひ…肥後守様?!」
その声は間違いなく容保である。だが、まさか容保まで同じ舟に乗せられていたなど、には信じられなかった。
「そう脅さずとも、山口は上様に逆らいますまい。お手をお離しくだされ」
「肥後守、余計な手出しを」
「山口も頼む。今は上様の望まれる通りに。もし今ここで上様をお助け出来なんだら、今より悪い事態になるは必至ぞ」
容保はの襟から慶喜の手を離させると、の肩に両手を添えた。
強い力ではあったが、慶喜に対抗しようとするを責めるものではない。を諭すような力であった。
は陸地に目を向ける。
戦で起きた火事が、遠くをあかあかと照らしている。
海に逃げることは出来ない。
中途半端に時を越えたら困るというのもあるが、かなり沖まで漕いできてしまった。
真冬の海に飛び込んで、無事に岸までたどり着けるとは思えない。
(例え今、死を選んだとしても、何にもならない)
は項垂れながらも、縄ばしごに手を掛けた。
(何にもならないけど…もっとどうにか出来なかったのだろうか)
海風に吹かれて思うように上れぬ縄ばしごを慎重に踏みしめながら、は無力感にさいなまれた。
の通詞は功を奏し、アメリカの軍艦は慶喜を受け入れた。
翌一月七日、軍艦上で慶喜は各国公使を引見し、江戸へ退く旨を伝えた。
そして少し離れたところに碇を降ろしていた幕府の軍艦「開陽」まで送り届けられると、艦長が上陸中で不在の開陽を副艦長に動かすよう命じ、抜錨させた。
こうしては慶喜と共に、江戸へ退去の途をたどった。
(お願い、土方さん、新選組の皆、生きていて…!)
は船上で常に懐の携帯に手をやり、土方たちの無事を祈った。
20130102