久遠の空 ドリーム小説 剣葬 4

剣葬

update:2012.11.23

剣葬 4 

 徳川慶喜の使いに導かれ、は二条城の式台を上がった。
 真冬の早い夕暮れを取り込むように、大きな蝋燭が廊下を照らす。

 は早足の使いについていきながら城内に目を配る。
 引き戸や襖は開け放たれ、部屋ごとの荷物がまとめられている。
 幾つもの人影が右に左に大急ぎで行き来するのが、磨き抜かれた廊下に映っていた。
 (何…このせわしなさは…)
 ふと上を向けば、欄間に彫られた像が不気味な影を放っている。
 喉元を重苦しい何かが通っていくように感じられた。


 黒書院に通されると、幾つもの行灯に照らされた徳川慶喜が立っていた。周囲ではお付きの者が忙しく荷造りをしているのに、本人は腕を組み、閉じたままの白扇を顎に当てている。考え事の最中のようだった。
 「お召しにより、参上仕りました」
 は徳川葵が織り込まれた畳の縁に気をつけて座り、深々と頭を下げる。
 「ようやく来たな。では出立する。ついて参れ」
 慶喜は優雅に羽織の裾を翻した。



 お付きの家来が前後を固め、慶喜とがその中に守られながら進む。
 西の門を出ると、黒塗りの駕籠が待っていた。
 「そなたは後ろの駕籠に乗れ」
 と慶喜に命じられ、は複数あるうちの駕籠のひとつに押し込められた。

 しずしずと進む駕籠の中は、布団かと思われるような分厚い綿入れが用意されており、それにくるまると寒くはなかった。
 (どこへ行くんだろう)
 は襟元をしっかりと閉じて小窓を開ける。
 しかし、街の小さな明かりは闇に押され、どこに向かっているのかはおろか、どこを通っているのかさえ判別できなかった。



 駕籠が止まり、降りるように声がかけられる。
 綿入れを脱いで外に出ると、とぷんとぷんと波の音が聞こえてきた。
 提灯が左右に並んで道を作る。その間を歩いた先には船が停泊していた。

 は慶喜に続いて船に乗る。
 船には屋形船のような部屋がついており、慶喜とはその中へ入った。
 さらに人が何人も乗ってきて、船はゆらゆらと揺れる。
 しばらく待たされた後、船は音もなく岸を離れた。


 岸に建てられた明かりに導かれるように、船は粛々と進む。
 お付きの者から慶喜に綿入れや布団や温石などが差し出され、周りに火鉢がぐるりと置かれる。にも先ほど駕籠で使っていた綿入れが渡された。
 「そちたちは下がってよい」
 あらかた寒さ対策を終えた慶喜は、側近たちを下がらせた。

 「よ、寒いであろう。もそっとこっちへ来い」
 慶喜がを手招きする。
 「い、いいえ、ここで、結構です」
 きっと土方をはじめ新選組の皆は、二条城を守るために今も外で頑張っているはずだ。
 自分だけが屋内にいて、綿入れにくるまっていることすら申し訳ないのに、のうのうと火鉢になどあたれるわけもない。はかたかたと震える腕をぐっと押さえた。
 「俺が寒いんだがねえ。あっためちゃあくれないのかい?」
 口調を“浮之助”に変え、慶喜が笑う。
 は黙った。
 慶喜はまたひとつ笑い、火箸で灰をかき立てた。 


 「上様、あの、どこに向かっているのですか?」
 は波の音しかしない静寂の中、思い切って慶喜に聞く。
 どこに向かい、何をしに行くのかを知りたかった。
 「大坂城だ」
 慶喜は低く答えた。
 「大坂…」
 は白い息を吐く。
 「大坂でそなたに仕事を申しつける。外国の公使と謁見する、通訳をせよ」
 「かしこまりました」
 「到着までしばし間がある。今のうちに休んで仕事に備えておくがよい」
 「はい」
 短い会話が行われ、慶喜が掛け布団の半分をに寄越す。
 「風邪でも引かれたら余が困るからの」
 と慶喜は言い、に背を向けて横になった。


 は慶喜と反対側の壁にもたれ掛かり、綿入れと布団を重ねる。
 慶喜が自分を召し出す時はいつも急だ。内容は決まっている。通訳が必要な時だ。
 しかし、
 (征夷大将軍を辞職したのが本当なら、なぜ私を召し出したのだろう。もう日本の頂に君臨しているということではないはずなのに)
 慶喜の召し出しには答えが見えない。
 さらにの頭には、考えたくなくても今後のことが浮かんでくる。
 (徳川慶喜が幕府を終わらせ、この後は新しい時代がやってくる。もう上様に、権力の座に返り咲く術はない…)
 ずき、との頭が痛む。
 まただと思い、は歴史について考えるのを止める。少しずつ頭痛は収まっていった。


 緩んでいた襟巻きを巻き直し、顔を埋める。
 襟巻きは土方が出がけにかけてくれた土方の物で、彼の匂いがする。
 (ついさっきまで一緒だったのに)
 は目を閉じ、屯所を出た時のことを思い出した−−−




 慶喜の使者が屯所を訪れ、を迎えに来たことが副長室に知らされると、はすぐに葵の紋付きに着替えた。
 冬の夕方からの外出など寒いだろうからと、中にいろいろと着込んでしまったせいで、着替えに時間がかかってしまった。
 「長の逗留になるやもしれぬので、必要な荷は出来る限り持参せよ」
 と使者からの伝言があったので、
 「俺が用意しよう」
 と先に身なりを整えた土方が襖を開け、の行李を引っ張り出した。

 の持ち物は行李ふたつだった。
 男の振りはしていても、そこはやはり女で、衣服も質素ながら男よりは多い。贅沢はしていなかったが、それなりに持ち物は増えていた。
 土方は中身を選び、ひとつの行李にまとめた。

 「ちょっと待て」
 着替えが終わったの首に、土方は自分の襟巻きをするすると巻き付ける。
 「あの、これ、土方さんの」
 「いいから持ってけ」
 自分の襟巻きがあるのにとは戸惑ったが、襟巻きの端を首元で結ばれてしまったので、ありがたく受け取ることにした。

 ぐっと襟巻きごと、は上を向かされる。
 そこへ土方の唇が押しつけられた。
 は土方の着物をしがみつくように握り、荒々しく踏み込んでくる土方の舌を受け入れる。


 「下手くそが」
 唇を離した土方は、開口一番そう言った。
 は反論できずに下を向き、代わりに土方の胸元を軽く叩いた。

 土方はを襟巻きの上から抱き締める。
 「しっかりしやがれ。お前は俺の…新選組の鬼副長の小姓だ。どこにいてもそれを忘れるな」
 心の奥に深く突き刺さる土方の声、土方の言葉。
 いつの間にか、田代に襲われた震えは止まっていた。
 「はい、土方さん」
 この響きを絶対に忘れまいと、は土方の背に手を回し、腕に力を込めた。




 ざぶんと響く波の音に薄く目を開け、は白い息を吐く。
 (私、やっぱりどうしようもなく土方さんが好きなんだ…)
 受け入れようとしていた。
 土方が自分の布団に潜り込み、唇を重ねて肌をも重ねようとしてきた時。口では抵抗の言葉を紡ぎながらも、結局あと一歩のところまで赦してしまっていた。
 (あのまま、もし使者の方が現れなかったら、私はきっと土方さんを拒まなかった)
 最後までの過ちを犯してしまい、後悔したに違いない。
 結ばれてはならない相手に、身も心も捧げてしまったことを。 


 なぜ土方はあんなことをしたのか。
 (私が弱いせいで…いつまでも震えていたから、土方さんは同情してくれたのに違いない)
 田代に犯されそうになり、土方のおかげで助かりはした。が、襲われた恐怖はそう簡単に消えるものではない。そんな自分を落ち着かせ、慰めるために土方はきっと−−−

 そして、結ばれる直前までいってしまったことは。
 (私が拒むと土方さんは思っていたのだろう。でも、私は本気では拒まなかった…土方さんは止めるきっかけを失ってしまったに違いない)
 どんなに好きでも、それは自分の一方的な気持ちでしかない。
 土方が自分に向けた気持ちは同情。
 (土方さんの優しさに甘えて、抱かれてもいいと思ったなんて最低だ)
 は深く後悔のため息をつく。

 (強くならなくちゃいけない)
 この先、何があっても目を逸らさず、何事にも向き合って、これ以上土方に迷惑をかけることのないように、強くありたい。いや、あらねばならない。

 は再び目を閉じた。
 自分の恋心と、土方の愛情を結びつけられないまま。




 翌日、慶喜の一行は大坂城に入った。
 その中にはだけではなく、桑名藩主の松平定敬、会津藩主の松平容保も加わっていた。
 それと同時に、慶喜の征夷大将軍辞職と、新政府へは恭順を示すこと、そのために京を出て大坂へ立ち退いたことが正式に発表された。
 幕臣は騒然とし、京都所司代を担っていた桑名、同じく京都守護職の会津は特に、下々の者まで激昂したという。

 新政府は新しく京都市中取締役、市中見廻役を配し、長州に蛤御門の警護を命じた。
 京が新政府の色に塗り替えられていく。

 しかし、慶喜は大坂に退いてもなお、政権への返り咲きを諦めなかった。
 イギリス、フランス、アメリカなど六ヶ国の公使を大坂城に招いて謁見を行い、大政奉還と王政復古が行われたことを伝えた。
 特にフランスとイギリスは二度引見し、下坂の理由まで細かく説明している。

 その場には同席し、通訳を務めた。
 「征夷大将軍は退いたが、日本国の舵取りが新政府に即行うことなど出来ぬ。政とはそのように甘くない。余が再び日本国の政を執り行うは明白である」
 その証拠に、新政府には金がない。岩倉具視が宇都宮藩重臣の戸田忠至を大坂に使わして、慶喜に借金の交渉をさせている。
 慶喜は新政府に借りを作るつもりで金を貸した。

 各国の公使が日本の行く末を見守る中、慶喜は実に堂々たる態度であった。
 (まだこの方は、日本国の主権者であることを放棄していないのだ)
 “その先”を知るは、複雑な思いを胸に仕事をこなした。





 少しばかり時を戻し、舞台を新選組に移す。
 土方がを送り出し、二条城の警護に合流してしばらく経った頃、西門のほうが俄に騒がしくなった。
 山崎と島田を向かわせたところ、慶喜が供を連れて二条城からぞろぞろと出て行ったとわかった。
 「上様が二条城を出て行った…?」
 さすがの近藤も顔色を変える。

 どうするべきかと、近藤と土方が思案を始めた矢先。
 「沖田先生! 沖田先生!」
 と、神谷の悲鳴が闇を引き裂いた。

 近藤と土方が一番隊の持ち場に急行すると、黒い隊服の輪が出来ており、その中心に沖田が倒れていた。
 龕灯で照らすと、沖田の口元は赤く汚れ、地面には大量の血がまき散らされている。
 「どうした総司!」
 近藤が沖田を抱き起こすと、沖田はその手をやんわりと外して地面に手をついた。
 「だ、いじょうぶ、ですよ、これぐらい」
 灯りに浮かぶ顔色は白い。いや、青白いと言えるかもしれなかった。
 「大丈夫なわけないだろう!」
 近藤の一喝が空気をビリビリと震わせる。

 「近藤さん、一度引き揚げねえか」
 土方が沖田を見下ろして言う。
 「トシ?」
 沖田を抱えたまま近藤が訝る。
 「上様が城を出たとわかった以上、ここにいても仕方がねえだろう。夜中で寒さもきつくなってきた。別に俺たちも命令を受けてここにいるわけじゃねえ。今後、上から指示が出た時に全員で鼻水垂らしてたらシャレになんねえだろ」
 「あ、ああ、そうだな」
 土方の言葉に近藤も頷く。
 篝火も満足にない十二月の寒空にこれ以上身をさらしていては、具合が悪くなる隊士も続出するだろう。
 近藤は撤退を決めた。


 動揺が広がる隊士たちをまとめ、近藤は不動堂村の屯所へ帰る。
 「島田、後を頼む」
 土方は監察の島田と数名を情報収集のために残し、隊を後ろから追いかけた。

 神谷に掴まりながら、ゆっくりと沖田が歩いている。
 戸板を用意したが、沖田は“一番隊の組長がそれでは格好がつかない”と断固拒否し、自分の足で歩くことを選択した。
 神谷は勿論反対したが、沖田は頑として首を縦に振らない。
 仕方なく神谷が肩を貸して歩くことにしたのだ。

 沖田だけ、あるいは沖田の一番隊だけを屯所に戻そうと言ったら、沖田は絶対に戻らない。
 また、命令でもないのに真冬の寒空の下ここにいることは、ただ二条城を眺めているだけのようなものだ。
 (引き際も大事だ)
 すっかり細くなった沖田の背を見据え、土方は唇を噛んだ。



 翌朝、沖田の具合はかんばしくなかった。
 食事は喉を通らず、僅かに白湯を口にするだけである。
 「今後は私の許可無く、お部屋から出るのは禁止ですからねっ!」
 神谷が眉をつり上げた。
 「えー、厠はどうするんです?」
 沖田が不服そうな声を上げる。
 「ついていきますのでご安心を」
 絶対に目を離さないんですからねと言わんばかりに、刺すような視線を神谷は向けた。


 「局長、沖田先生をしばらく戦場には出さないようにお願いします!」
 沖田が浅い眠りに入ったのを見計らい、神谷は局長室で近藤に頭を下げた。
 「しばらく、かな?」
 近藤が神谷に問う。
 まっすぐに見つめられ、神谷は本心を明かさざるを得ない。

 「沖田先生は、もう」
 畳の上にぼたぼたと神谷の涙が落ちる。
 言葉の先を続けることが出来ない。

 「…総司のことは君に任せる。何があっても私の命令だからと言いなさい」
 そうすれば沖田は言うことを聞くはずだ、と近藤は神谷の肩に手を添える。
 神谷は、ありがとうございますと何度も言い、局長室を出て行った。

 神谷がいなくなった局長室は、朝だというのに真夜中を引きずったような沈黙に閉ざされる。
 近藤も、同席した土方も、口を開くきっかけが掴めない。
 沖田がこのような病状になるなど考えたこともなかった。
 目を閉じれば、江戸の道場で厳しい汗を流していたあの頃が思い浮かぶ。
 ぎり、と拳を握りしめる音が短く聞こえた。


 今後のことを相談しようと、やっと二人が顔を上げた時、二条城から使者がやってきた。
 若年寄格の永井尚志からである。
 使者は永井が書いた命令書を近藤に手渡し、さらに木の箱を一箱置いて忙しく帰って行った。

 永井の命令書には、伏見奉行所へ移るようにとの文言が書いてあり、木の箱には金子が入っていた。
 大坂に慶喜が退いたので、その守りのために移動せよ、ということらしい。
 金子は移動のための支度金だった。

 近藤は金子を隊士たちに分け与えた。
 原田は金を受け取るとすぐに家へ戻り、まさに全額を与えて伏見への移動を知らせた。



 全員が装備を揃え、新選組は伏見に向かう。
 しかし、沖田は体調を考慮し、“局長命令”で醒ヶ井にある近藤の妾宅へ残った。
 お孝も一人で心細いだろうから、護衛も兼ねて妾宅へ行ってくれという建前で。



 京に、戦の足音が迫り来る。
 その最中、沖田がまた倒れ、ついには近藤が銃で撃たれてしまうのを、まだ誰も知らなかった。



 20121123