剣葬 3
水面下で密かに動いていた公卿・岩倉具視、そして薩摩藩が、とうとう大きく動いた。
十二月八日。
諸藩の代表と公家・宮家などが御学問所に集められ、会議が開かれた。
政変で都落ちした三条実美ら五卿らの赦免と、長州藩主毛利家親子を元の官位に戻し、入京を許可する。
さらに、岩倉具視も勅許にて蟄居を解き、岩倉を政治の場に復活させた。
翌十二月九日。
天皇を政治の頂に据え、薩摩や長州などがその補佐を行う体制が発表される。
薩摩、土佐、安芸、尾張、越前各藩が御所の警護を行い、会津と桑名が唐門、蛤御門、公家門の警護から外された。
徳川家には辞官納地を求め、京都守護職、京都所司代、京都町奉行も廃止された。
明らかに、徳川幕府の勢力を削ぐのが目的である。
親幕派の土佐や尾張、越前などは、この場に徳川慶喜が列席していないことに抗議をした。
しかし、もう何もかもが遅かった。
これに対し慶喜は直ちに征夷大将軍を辞職。
そして二条城に入った会津や桑名へ、決して軽挙な振る舞いはしないよう通達が出された。
王政復古の大号令がこうして発せられた。
幕府に代わる新しい職が定められ、新政府が樹立する。
以降、日本は幕府消滅という歴史の流れに身をゆだねることとなるのであった。
十二月十日、新選組にも急ぎの通達が届く。
「まさか…!」
近藤は書状が破れるのではないかと思うほどに握りしめ、わなわなと肩を震わせた。
局長室に集められた幹部たちの間にも動揺が広がる。
さらにそこには衝撃的なことが書かれていた。
「新選組の名を返上し、今後は“新遊撃隊”と名乗れとのお達しだ」
京にある幕府の諸隊をまとめ、新遊撃隊というひとつの部隊を結成する。そこに新選組も加われとの命令だった。
「本当なのかよ」
原田がやっと口を開いたが、回されてきた書状を読み進めると共に、顔を青ざめさせていった。
「一体どうなっているんだ? 君、何か聞いていないかい?」
近藤がに問うが、は横に首を振るしかない。慶喜からは何も聞いておらず、最近は書状ひとつも寄越されていなかった。
全員が書状を回覧したところで近藤が皆を見渡す。
「全員、装備を調えて出立する。二条城を守りに行くぞ!」
「おう!」
組長たちは勢いよく立ち上がり、組下の者たちが住まう部屋へと走っていく。
「支度が終わり次第、前庭に集合だ! ぐずぐずするな!」
土方は屯所を隅々まで駆け回って檄を飛ばし、全員の支度を急がせた。
も副長室で土方の軍備を引っ張り出し、戻ってきた土方の着替えを手伝う。
「お前は俺の後ろにつけ」
装備を身につけながら土方が短く言う。
「え?」
てっきり屯所で留守番をさせられると思っていたは、驚いて土方を見上げる。
「返事はどうした」
土方はきりりと目元をつり上げてに返事を迫った。
まるでついていくのが当たり前のような土方の口調。
(こんな時に不謹慎だけど…)
置いて行かれないことが、ついてこいと言われたことが、嬉しい。
「はい」
まっすぐに土方の目を見て頷いた。
そして自分も慶喜から拝領した鎖帷子の目を着込み、短筒の弾丸や刀の目釘をしっかりと確かめた。
四半刻もすると、新選組の隊士は残らず前庭に集まった。
近藤が全員の前に立ち、大政奉還から王政復古までの流れを説明する。
ざわざわと、隊士たちが不安げに揺れた。
「だが諸君! 三百年続いてきた徳川幕府が、そう簡単に国の頂きから落ちることはない! 必ずや大樹公は政治の場に戻ってこられる! 今は大樹公の御身をお守りするのが我々の役目だ!」
近藤の大音声にざわめきがぴたりと止まった。
「さあ、行くぞ!」
「おおお!」
鬨の声を上げ、新選組はまだ新しい門を、足音も荒々しく出て行った。
「かっこいいなあ、近藤先生は」
沖田がとびきりの笑みを浮かべる。
「そうですね」
も頷く。
「かっこいいじゃねえだろ。屯所で留守番してろっつうのに、この病人が」
土方が声を尖らせた。
「ずっと寝てたんですから大丈夫です」
沖田は背筋を伸ばす。
「それにね、嫌ですよ。こんな時に近藤先生を守るため、私は腕を磨いてきたんですから。好きな人を側で守りたい気持ちは、土方さんだってわかるでしょう?」
意味深な視線を沖田に向けられ、土方は舌打ちをした。
「お気持ちはわかりますけどね、沖田先生! 絶対に無理しないでくださいよ!」
沖田の傍らで神谷が吠える。
「わかってますよ」
沖田はへらりと笑う。
「絶対わかってないんだから」
神谷は額に手を当てて下を向いた。
沖田の顔は、昼の薄い日差しの下でも青白い。息も少し荒いように見える。
しかし、一番隊組長として立つ姿はやはり新選組の士気を高めているのだ。
病気の組長が頑張っているのだからと、皆はそれぞれの胸に気合いをため込むのであった。
二条城に着いた新選組は、人の多さに呆然とした。
二本差しの姿はもちろんのこと、どこからか幕府の終焉と新政府の樹立を聞きつけてきたのか、町人や農民まで集まってきている。
「新選組、いや、新遊撃隊である! 道を開けよ!」
どうにか人をかき分けて城の門の前までたどり着いたが、門は固く閉ざされていて、中の様子は窺えない。
「これなら中に誰も入れまいが…外がこれではな」
近藤は集まっている人々を見渡して、大きく息をつく。
もし何かの拍子で次々と折り重なって倒れたりしたら危険極まりない。
幹部たちは話し合い、集まってきた群衆を家に戻すことにした。
「今ここにいても無駄だ! 家に帰れ!」
「戻れ戻れ!」
群衆の中に割って入り、帰宅を促す。
民たちは何か目的があって集まってきたわけではないので、ぞろぞろと二条城の回りから立ち退いていった。
近藤が床几に座り、遠くから解散を見守る。
土方がその傍らに立ち、も土方のすぐ後ろで人影が動くのを見つめていた。
(王政復古…確かこれで徳川幕府が倒れ、明治政府が…)
ふとが思い浮かべると、またずきりと頭が痛み出した。
近藤と土方は真剣な顔で話し合っている。
は立っていられなくなり、後方に聳え立つ松の木に寄りかかった。
(考えない、考えない…)
歴史に関することを思い出してしまうと起こる頭痛。
は痛みを和らげようと、呪文のように短い言葉を繰り返した。
その時。
松の木の後ろから手が伸び、の体がそちらへ引きずられた。
悲鳴を上げる前に口を塞がれ、助けを求めることが出来ない。
「久しぶりだな、山口」
耳障りな声がし、は首筋をぞわりと粟立たせる。
の口を塞いでいるのは、『英国歩兵練法』の翻訳でともに作業をした、薩摩の田代五郎右衛門であった。
(田代さん…!)
は必死でもがいて、田代の手から逃れようとする。
が、田代はのみぞおちに重たい一撃を食らわせ、もっと向こうへ引きずっていった。
それでも意識を失わないが抵抗し、業を煮やした田代はを長屋の間の路地へ投げ込んだ。
は地面に叩きつけられ、田代が覆い被さってくる。
「捕まえたぞ山口…」
狂気を声に含ませ、田代はやせこけた頬をに擦りつけた。
ざらりとした髭の感触に、は嫌悪感を全身で感じる。
「お前を早く薩摩に連れてこいとどれだけ急かされてきたことか、お前にはわかるまい。わかるまいなあ。だが、とうとう捕まえた。これで俺もまた薩摩に認められ、西郷様にお仕えできるというものだ」
田代の指がの顎先をなぞる。
(そうだ、田代さんは、翻訳で薩摩の軍事がどれほど進んでいるのかを知っている私を、薩摩に引き込もうとしていたんだ)
触れられているところ全てが気持ち悪く吐き気すらこみ上げる中で、は田代が自分に執着する理由を思い出した。
手足を動かそうにも、田代に体や服を押さえられて身動きが取れない。田代のほうが遙かにやせ衰えているように見えるのにと、は精一杯の力ではねのけようともがく。
「このまま引き渡すのは簡単だが…少しぐらい苦労が報われてもよかろう」
くぐもった声で言うと、田代はに唇を押しつけてきた。
(嫌だ!)
は沸き上がってくる嫌悪感を力に代えて、思い切り腕を動かす。
だが男の力には敵わず、両手を頭の上でまとめて押さえられてしまった。
もう片方の田代の手がの袴に伸び、馬乗り袴がまくり上げられる。
じたばたと足を動かしても、田代が足の間に入ってしまい、どうにもならない。
(まさかこんなところで、土方さん以外の人と…!)
の目に涙が浮かんできた。
突然、田代の動きが止まった。
そして赤い飛沫が飛び、田代が力なくの上に崩れ落ちる。
田代の体が蹴飛ばされて、霜の降りた地面にざくりと横たわった。
は目を見張る。
生臭い血の匂いの向こうに、鈍い光りを反射する刀を持った土方が立っていた。
「おーい、がいたぞー!」
土方の後ろにいた井上が叫ぶ。
土方は刀を収めるとに駆け寄って抱き起こした。
は土方の胸に顔を埋め、奥歯を強く噛みしめる。
助かった。助けてくれた。
ただただほっとして、は土方にしがみついた。
土方は何も言わず、の頭を何度も何度も撫でた。
は身なりを直すと、土方に連れられて近藤へ報告をした。
頭が痛くなり、木に寄りかかっていたら田代に捕まったこと。
路地に連れ込まれ、乱暴されそうになったこと。
そして土方が話を継いだ。
急にの姿が見えなくなったのがわかったところへ井上の隊が戻ってきたので、手分けをして探したこと。
近くの長屋一軒ずつに踏み込み、路地も一本ずつ捜索したこと。
そして二本目の路地でが襲われているのを土方が発見し、田代を斬り捨てたことまで、全てを話した。
近藤は話を聞き終えると、土方とを、井上の隊の護衛をつけて屯所に戻すと言い出した。
「だが局長、今俺がここを離れちゃあまずいんじゃねえか」
「私は大丈夫ですので」
土方とが口々に残ると言う。
しかし、
「局長命令だ。何か起きたらすぐに知らせる。それまで二人とも屯所で待機していろ」
と近藤は厳しい表情のまま、言を崩さなかった。
土方とは屯所に戻されることになった。
「トシ」
と近藤が土方を呼ぶ。
(この前俺が言ったこと、覚えてるか?)
近藤が耳打ちする。
(あ?)
何のことだと土方が眉を寄せた。
(平穏なうちに彼女に想いを伝えて一緒になれって言っただろう?)
(ああ、あれか)
(これからますますどうなるかわからない。本当に、本当の本当に今のうちだけだ。彼女を抱いてやれ)
(おい、かっちゃん。今この状況で何言い出すんだ)
(この状況だから言ってるに決まってるだろう。もし戦になって、彼女を守りきれなかったらどうする? 敵に捕まって女だとばれてみろ。新選組副長の小姓が女だったなんて、どんな悲惨な目に合わせられるか)
「わかったな」
近藤は土方の背をばんと叩き、踵を返して床几に戻っていった。
土方は背中の痛みを感じながら、とともに井上の隊に守られて屯所へ戻った。
屯所の中には警備に必要な人数だけしか残されておらず、人の少ない静けさに包まれていた。
「じゃあわしらは戻るからな。落ち着いたらまた戻ってくるんじゃぞ」
井上がの頭をそっと撫でる。
「申し訳ありません…」
は井上と井上の隊士たちに深く頭を下げると、土方に支えられながら副長室へ入った。
冬場の早い日が暮れかけ、の布団を照らす。
「腹減ってねえか」
屯所を警護中の隊士たちが夕餉をとっているらしい匂いが漂ってきた。
「いいえ…土方さん、よかったら食べてきてください…」
襲われた衝撃で空腹どころではない。はか細い声で土方に食事を勧める。
「俺も減ってねえ」
と土方は言い、軍装を解き始めた。
固く結ばれた紐を解きながら土方は考える。
何故こいつから目を離した?
手の届くところにいれば安心だと油断した。
町中などどこにでも危険は潜んでいるというのに、護衛も見張りもつけずにいたのは自分の落ち度だ。
ごとりと重たい胴を降ろして、布団に横たわるを見下ろす。
こちらには背を向けている。
布団が小刻みにかすれた音を立てていた。
どんなに怖い思いをしただろう。
いや、怖いと思ったのは自分のほうだ。
が田代に覆い被さられているのを見た瞬間、頭の中が真っ白になった。
意識せず抜刀し、の上になったままの田代を斬り殺した。
手応えを感じてすぐ、このままではに血がしたたり落ちると思って田代の体を蹴飛ばした。
他の男に、惚れた女が犯されようとしていた。
大切にしていたからこそ手をつけていなかった女なのに。
失うことなど出来ない。
土方はの布団に入り込み、その体を強く抱き締めた。
は体の奥からこみ上げてくる震えが止まらず、どうしたらいいのかと思っていた。
土方に抱き締められても止まらない。
心底愛しいと思っている土方以外の男に汚されそうになった衝撃だ。
土方の腕の中にいるのに。
力強く抱き締めてもらっているのに。
どうしても、恐怖が追い払えない。
土方はの顔を上へ向かせ、唇を指でなぞる。
こすりすぎて皮が剥け、かさついていた。
この唇を、別の男が。
この唇に、別の男が。
他の誰かに奪われるくらいなら、いっそ。
互いにそう思った刹那、二人の唇はどちらからともなく重なり合った。
「ん…っ、あっ…」
「は…」
忙しなく舌が動き回り、指が差し込まれ、帯が解かれる。
「土方さん…駄目…っ」
「わかってる」
「土方さん、お願い、ほんと…駄目」
「黙ってろ」
守ってやれなかった後悔と襲われた恐怖が複雑に絡み合い、はだけられた素肌を覆う。
どんな建前の言葉も、重ねられた体温に溶けてゆく。
「、俺は…」
ひとつになる前に伝えたい。
熱く艶やかな声で、土方はに囁く。
は土方に翻弄され、体のどこにも力が入らない。
与えられる熱にぼうっとしながら、土方の言葉に耳を傾けた。
そこへ。
「副長、副長! 急使です!」
どたばたと居残りの隊士が副長室に駆け寄ってきた。
二人は慌てて布団から出て、長着を直す。
「どうした」
手間取るを気遣い、土方が障子の隙間から応答する。
「大樹公からのお使いで、山口さんに、大至急二条城へ参内するようにと…!」
部屋の中でどんな行為がなされていたのかも知らず、隊士は早口でまくし立てる。
「何…?」
土方も、やっと帯を締め終えたも、白い息を飲み込んだ。
土方とは再び二条城にやって来た。
は大樹公のーー実際にはもう大樹公ではない徳川慶喜の使いに従って、二条城の重厚な門をくぐっていった。
通り抜け用の小さな門が、夜のしじまに音を響かせた。
「トシ」
近藤が土方の肩に手を置く。
土方は門を見続けていた目を空に移した。
(邪魔されたのか、これでよかったのか…)
怒りとも自嘲ともつかぬ笑いが土方にこみ上げる。
白い息が満天の星空に吸い込まれると、土方は頭を仕事へ切り換えた。
徳川慶喜のお召し。
それにより二人はまたしばし引き離される。
大事なものはしっかりその手で抱えておけという近藤の言葉を、土方は真に理解することになるのだ。
20121116