鬼が辻 44
十一月十八日未明の、油小路における御陵衛士強襲から一日。
新選組は巡察の当番になっていない隊士を総動員し、逃げた衛士たちの捜索を行った。
彼らが寝起きしていた高台寺の塔頭・月真院はもとより、以前住まっていた五条の善立寺や三条の城安寺も、寺の住職が止めるのも聞かず徹底的に調べた。
しかし、彼らはどこにもいなかった。
それもそのはず、御陵衛士の面々は薩摩に保護を求め、藩邸に匿われていたのである。
藩邸の中は、いわば治外法権で、新選組といえどそう簡単に押し入ることは出来なかった。
それでも新選組は彼らの行きそうな場所ーー伊東の妾の家や、西本願寺、壬生寺、八木邸や前川邸なども丹念に捜索した。
捜索を行っている隊士の中に、もっとも現場に出ていなければならないはずの男の影はない。
必要最低限の護衛を残して隊士が出払った屯所、その奥には小さな四畳半の部屋がある。
そこにその男がーー沖田総司が横たわっていた。
沖田は油小路の戦闘で血を吐いて倒れた後、すぐ屯所へと運び込まれた。
なかなか意識が戻らない沖田に、神谷がずっと付き添っていた。
だが、「護衛以外の、動ける者はすべて捜索にあたれ」との土方の命令により、神谷も一番隊の面々とともに、御陵衛士の残党狩りに出かけた。
「絶対、絶対、ぜーったいに! 沖田先生から目を離さないでくださいね! もし私たちが捜索に出ていることを知ったら追いかけてくるに決まってるんですから! そうならないように、さん、必ず沖田先生を見張っててくださいよ!」
神谷は、自分の代わりに沖田の看護を引き受けたに、まるで詰め寄るように注意を与えて捜索へ出ていった。
障子を開けて出ていく神谷の後ろ姿は、一睡もしていないせいか、一目で分かるほどにしおれていた。
(神谷さんこそ、無理しなきゃいいんだけど)
は室内に置かれた火鉢の炭を確かめながらひとりごちた。
沖田はまだこんこんと眠っている。
行灯ひとつのほの暗い室内では、血を大量に吐いたせいで、沖田の顔は青白く見えた。
時折小さく呻き、そのたびに沖田の唇は「神谷さん」と、愛しい娘の名を呼んだ。
沖田の呼吸が落ち着くのを確認し、はため息をつく。
沖田と神谷は、普通ならただの男と女として出会い、結婚して、幸せな家庭を築くこともあったかもしれない。
(いったい何の因果で…)
この二人は、新選組という男の世界で同じ時を過ごすことになってしまったのか。
そして、なぜ沖田は労咳などにかかってしまったのか。
労咳が、自分が元々いた時代で結核という病名であることは、もおぼろげながらに知っている。江戸時代には特効薬も予防薬もなく、死に至る病だったということも、どこでだかは忘れてしまったが聞いたことがあった。
(一番隊組長で、新選組の中ではもっとも強いとも言われている沖田さんが、なぜ労咳などにかかってしまったのだろう)
沖田は池田屋強襲の時には暑さで倒れこそしたが、それ以外は風邪一つひかず、どんなに厳しい任務でも率先してこなしてきた。
神谷のことも、女子だという事実をずっと彼一人の胸の奥にしまってきた。いつも神谷を気遣い、影となり日向となり守ってきた。
そんな強さと優しさを兼ね備えた沖田が、どうして不治の病にかかってしまったのだろう。どんな運命のいたずらなのか。
の脳裏に、神谷のしおれた背中が浮かび上がる。
(沖田さん、目を開けて)
沖田の額には、微熱を冷ますために濡れた手ぬぐいが置かれている。
真冬の冷たい水桶に何度も手ぬぐいをひたす。
真っ赤になったその手をあざ笑うかのように、沖田の微熱はなかなか下がらなかった。
早い夜の訪れが室内の温度を容赦なく下げてゆく。
が沖田の布団に綿入れを重ね、自分も綿入れを着込んだ時、沖田はようやく目を覚ました。
「あ…さん?」
「沖田さん!」
は思わず沖田の顔を覗き込んだ。
「私、どうしていたんでしょうか…ひどく…体が重い…」
沖田が息を短く継ぎながら呟いた。
「あの…油小路で」
「…ああ、そうでしたね。みっともないったらありゃしない」
がいいあぐねつつ答えると、沖田はなぜ横になっているのかを思い出したようで、苦く笑った。
しかし、その顔が急に険しくなった。
「神谷さん、神谷さんはどこです?」
急に叫んで起き上がると、沖田はごほごほと咳込む。
「急に動かないほうがいいですよ。丸一日ずっと寝てたんですから」
はゆっくりと沖田を布団の中に戻し、綿入れをかけ直した。
「丸一日? そんなに…」
沖田は愕然とした色を声に含ませる。
「神谷さんは一番隊の隊士の方々と捜索に出かけました」
は沖田が寝ている間の新選組の動きを、順を追って沖田に説明した。
「そうですか、神谷さんはずっと私についててくれたのに、そのまま捜索に出かけてしまったんですか…相変わらず無茶ばかりして」
と沖田は、口では文句を言ったが、まんざらでもなさそうだった。
自分が育てたと言ってもいい“神谷清三郎”を頼もしく感じたのかもしれない。
「私もこうしちゃいれらないな。今すぐにでも皆と合流しないと」
「駄目ですよ。神谷さんから沖田さんを見張っておくように頼まれてるんですから」
再び身を起こそうとする沖田を、は布団の上から押し込めた。
「え? だって一番隊の組長がこの有様なんて、許されるわけないでしょう?」
沖田は不服そうに、目だけを布団の端から覗かせる。
「駄目です」
はごそごそと懐を探った。
「ちょっとさん、病人に短筒を向ける気ですか?」
沖田が驚く。
「いいえ。もし沖田さんがおとなしくしてたらこれを渡すようにって神谷さんから言付かってるんですが…」
そう言うの手には、柔らかな和紙で包まれたこんぺいとうがあった。
沖田はかなわないとばかりに笑い、また布団に潜った。
火鉢にかけた鉄瓶が蒸気を吹き出す。
部屋の中の湿度は快適に保たれていた。
「ねえさん。ひとつだけお願いがあるんです」
沖田が唐突に切り出す。
「はい」
は沖田に向き直った。
「もし私に万一のことがあったら、神谷さんのことをお願いします」
「…沖田さん」
「やだなあ、そんな顔しないでくださいよ。万一って言ったじゃないですか」
「万一って言ったって…」
いいかけては口を噤む。
沖田にはまだ誰も、彼が労咳にかかっていると告げていないのだ。
「私たちは武士です。いついかなる理由で命を落とすかはわからない。あの子が女子であることを知っているのはあなたと…ほんのわずかな人たちだけです。貴方かあの子が新選組にいる間は、どうかお願いします」
沖田は深く微笑んだ。
ずきりとの胸が痛む。
本当は自分だって女子なのだ。
沖田に打ち明けてしまえればどんなに楽だろう。
そうすれば神谷のことも、もっと近くで親身になってあげられるかもしれない。
「あの…私」
の口が開きかける。
「さん、武士ならば誰にでも腹にひとつやふたつ、抱えているものがあります」
その口に封をするかのように、沖田が言葉を遮った。
は己の行動を振り返る。
土方や斎藤に守られ、通常の隊務にはほとんど顔を出さない。そんな自分を怪しく思わない者がいるだろうか。
特に沖田は、昼行灯と揶揄されていても、並外れた直感の持ち主である。
(私に隠し事がないなんて、思うわけがない)
だとしたら、ずっと沖田は黙っていてくれたのだ。
隠していることの内容までは知らなくても、問いつめるような真似はせず、ただ見守ってくれていたのだ。
「ありがとうございます」
聞かないでいてくれて。
は畳に手をついて、深々と頭を下げた。
「やめてください、頭を下げるなんて。それよりも本当にお願いしますよ、あの無茶する人のこと」
「…無茶するのは師匠譲りなんじゃないですか?」
沖田の語尾が軽くなったのを受け、もつられて軽口が出る。
ふたりは静かな室内で、くすくすと笑い合った。
神谷が捜索から戻ってきた。
あちこち駆けずり回ったようで、頬は紅潮し、額からは汗も流れていた。
「沖田先生、どうですか?」
障子をおそるおそる、小さく開いて、神谷が中の様子をうかがう。
「お疲れ様です」
は障子の側に寄る。
「意識が戻って、さっきまで起きていらっしゃったんですがまた眠られました。神谷さんが戻ってくるのを待っていらしたんですよ」
障子をもう少し開き、は神谷に沖田の姿を見せた。
沖田は幾分か楽になった呼吸を繰り返している。
神谷はほっと白い息を吐いた。
「少しだけいいですか?」
とは神谷を廊下の端に連れ出した。
戻ってきた隊士たちの喧噪が遠く聞こえる中、と神谷は明かりのない廊下のどんづまりに立った。
「何ですか、さん? 沖田先生に聞かれたら困る話ですか?」
こんなところに連れ出したを、神谷が訝る。
「たぶんそうだと思います。神谷さん、沖田さんが労咳だって、いつ頃気づきましたか?」
が波のない水面のように、平坦な声色で聞いた。
「つい最近、です。父の患者とか、知り合いのひととかの、症状と、そっくりだったんで」
神谷の声が震え出す。
「誰にも言わずに?」
がさらにたたみかける。
神谷は唇を噛み、首を縦に振って是を表した。
は神谷に向かって一歩踏み出す。
そして神谷の細い体をぎゅっと抱きしめた。
「さん?」
神谷が驚く。
だが、が腕を緩めずにいると、神谷もしがみついてきて、段々と声を上げて泣き出した。
たったひとりで抱え込んで、辛かっただろうに。
神谷の痛みが腕から伝わってくる。
(今の私には、これぐらいしか神谷さんにしてあげられない)
何も出来ない自分に苛立ちを感じながら、は神谷の泣き声を聞いていた。
神谷が落ち着くと、は副長室に戻った。
神谷が少しでも休んでから戻ろうと思っていたが、神谷が自分一人で大丈夫だと言い張り、を狭い部屋から追い出してしまったのである。
副長室には幹部たちが入れ替わり立ち替わり現れて、今日の捜索の結果や明日以降の捜索場所を相談していた。
も土方の手伝いに追われ、室内に静寂が戻ったのは夜中を回ってからであった。
夜が明けたらまたすぐに組は動き出す。
早く眠って体力を回復しておかねばと、は目をつぶるが眠れない。
「…痛むか?」
不意に土方の声が隣の布団から聞こえてきた。
痛むとは、殴られた頬のことだろうか。もう痛みがないので、すっかり忘れていた。
「いいえ」
は短く返事をする。
短すぎるやり取りに空気が重たく感じられた。
「あのよ」
土方がこほんと咳払いをした。
「お前がいた時代には、労咳の薬はあんのか?」
突然の問いに、は目を見開く。
土方が今まで未来のことを、具体的に尋ねたことがあっただろうか。
ない。
それほどまでに、土方も沖田のことが心配でならないのだ。
労咳の、つまり結核の薬は、あることはある。
だが医者でなければ持ち出すことは出来ない。自分が元の時代に戻れても、持ってくることは出来ないのだ。
ないと嘘もつけない。
は答えが喉の奥に張り付いたまま黙ってしまった。
「つまらんことを聞いた。もう寝ろ」
土方がごそりと動き、に背を向けた。
は天井を向いたまま、まんじりとして夜を過ごした。
新選組に、土方の元に戻ってこられたのは素直に嬉しいと思う。
だが、そのために払った代償や、引き受けた痛みが多すぎた。
眠れるわけがなかった。
慶応三年もまもなく暮れようとしていた。
だが、最後のひと月半、そして明けて慶応四年は激動の年となる。
さまざまな出会いと別れがに訪れ、彼女の運命を大きく翻弄する年が、目の前に迫っていた。
20120720