鬼が辻 43
伊東を載せた戸板は道を北に進み、七条通りに出たところで止まった。
戸板が傾けられると伊東の体は力なくどさりと土の上に転がり落ちる。
伊東の体から流れ出た血が衣服を染め、真夜中の寒気に凍り付いていった。
は斎藤に抱えられ、通りの角にある建物に運び込まれた。
斎藤が引き戸に近づくと、がたりと音を立てて戸が開いた。
「斎藤、首尾はどうだったよ?」
原田が蝋燭の明かりで出迎える。
斎藤は小さく頷いた。
「おう、そうか。、大丈夫か? 怪我してねえか?」
「はい…っ」
はかろうじて首を縦に振る。
鉄分を含んだ生々しい匂いと、つい先頃まで隣で話していた人物が亡くなってしまった事実に、の呼吸は乱されていた。
原田が建物の奥へ行くよう、斎藤とに合図した。
二人は別の隊士に足元を照らしてもらいながら、暗がりの中へと歩を進めた。
室内には濃い出汁の香りが充満している。この建物は蕎麦屋のようだ。
客を迎えるための机などは脇に片づけられ、武装した隊士たちがひしめきあって座っていた。
奥には階段があり、その二段目に土方が腰掛けている。
小さな行灯が階段の足元に据えられ、土方の姿を淡く浮かび上がらせていた。
「土方さん…」
はよろけながらも一人で土方の前に立った。
斎藤がの横に膝をつく。
土方はゆっくりと立ち上がり、一つ下の階段に足を下ろした。
「この馬鹿野郎!」
稲妻のごとき怒鳴り声と共に、土方の手がの頬を打った。
は勢いよく土の床に叩きつけられる。
どよ、と隊士たちがどよめいた。
土方がを見下ろして怒鳴りつける。
「新選組副長の小姓でありながら屯所内で敵に拐かされるなど言語道断! てめえなんかが戦場にいちゃあ士気が下がらあ! 斎藤、こいつを屯所へ連れて行け」
「承知」
緊張感が支配する中、土方は行灯を持つと身を翻して階段を上がった。
斎藤はを助け起こし、蕎麦屋を後にした。
月光が寒々しく光を落とす道には、物言わなくなった伊東の躯が横たわっている。
は斎藤に肩を借り、斎藤の早足に合わせて小走りに歩いた。
凍り付くような空気が肺の奥底まで入り込み、はげほげほと咳込む。
と同時に、土方に張られた頬がひりひりと痛んだ。
「大丈夫か。屯所まで我慢しろ」
斎藤がに囁く。
「はい」
は白い息を細かく吐きながら答える。
とにかく屯所までと、それだけを考え、はひたすらに足を動かした。
二人が屯所に戻ると、門の前を隊士が守っていた。
いつもより数が多い。ただ威嚇のためだけに立っているとは思えない様子である。
「斎藤だ。山口を連れてきた」
「これは斎藤先生、お戻りなさいませ」
篝火の明かりで確認をとると、門番の隊士の一人が潜り戸を叩いた。潜り戸が向こう側から開き、斎藤とは門を通された。
屯所の前庭には篝火がいくつも焚かれ、くまなく庭を照らしている。
(これは…?)
まるで明るくして侵入者を防ぐかのように見え、は物々しさを肌で感じた。
「局長、斎藤です」
局長室の前に来ると、斎藤は室内へと声をかける。
「斎藤君か、入りなさい」
近藤の返事があり、斎藤は障子を開いた。
中では近藤が腕を組んで座っており、その傍らには井上がいた。
「ご苦労だったね斎藤君。君もよく無事で戻った」
近藤が笑顔を見せる。
「、よう戻ったが…どうした、その顔は? 御陵衛士に酷い真似でもされたのか?」
井上が腰を浮かせた。
「いいえ、これは副長に。少し擦り傷もあるでしょうから手当てを」
と斎藤が答える。
井上が、よしと言って薬箱を取りに局長室を出た。
「局長、申し訳ありませんでした!」
は井上の気配が遠のいたのを見計らって、ばっと畳にひれ伏した。
「土方さんからお聞きおよびかと思いますが、私はずっと」
女であることを、黙っていた。
自分を匿ってくれた新選組に対する申し訳なさがあふれてくる。
「そのことはいいんだよ、今はそれについて語るべき時じゃない」
近藤はそう言うと、きりと口元を引き締めた。
「“今は”…ですか?」
伊東を殺した後始末が先だということなのだろうかと、は斎藤に視線を送る。
「今夜、これから御陵衛士を殲滅する」
斎藤がぽつりと言った。
「御陵衛士を…殲滅?」
は人形のように斎藤の言葉を繰り返す。
「大樹公のご用を務めるお前の拉致監禁と、お目見えである局長暗殺計画の罪で御陵衛士を成敗するよう、上からお達しが出ているのだ」
「え?」
斎藤の言葉が飲み込めず、は目を瞬かせた。
(まさか…あの蕎麦屋で皆が武装していたのは)
御陵衛士を襲うためだったのかと、は瞬時に理解した。
斎藤は続ける。
「伊東の死体を餌に残りの御陵衛士をおびき出し、油小路でしとめるのだ」
「ま、待ってください、それってもしかして、藤堂さんもということですか?」
藤堂は、たとえ分離して袂を分かったとしても、根底では新選組と御陵衛士は仲間だと信じていた。その藤堂をもなのかと思うと、の呼吸は再び乱れてくる。
「藤堂さんは、永倉さんと原田さんが逃がす算段をしている。心配するな」
斎藤が近藤に目配せをすると、近藤は斎藤の言うとおりだと言わんばかりに頷いた。
「沖田さんは?」
ははっとする。
さっき沖田は咳込んで倒れていた。沖田はどこにいるのだろう。
「沖田さんも油小路だ」
斎藤が短く答える。
「でも、あんなに具合悪そうなのに…」
むしろ自分のほうがまだましと思えるほど、沖田は体を折り曲げて咳をしていた。は心配そうに眉を寄せ、近藤と斎藤を交互に見る。
「落ち着け。副長がお前を殴ってまであの場から遠ざけようとしたのがわからないのか」
斎藤がじろりとを目を寄越した。
は口をつぐんで俯く。
確かに、目の前で伊東が死ぬのを見、さらに同士討ちとも呼べる場面を見て平静を保っていられる自信はない。それを分かっていて土方はああして自分を殴りつけ、油小路から遠のくようにし向けたのだ。
「他の隊士たちの気を引き締める目的もあっただろうな。トシのことだからなあ」
近藤はその場が見えていたかのように、うんうんと大きく頷いた。
「とにかく待とう。きっと総司たちがよい知らせを…いや、よくはないな」
ふうと近藤は大きくため息をつき、格子状に組まれた天井を見上げる。
「気持ちのいいものではない…こんな夜は」
重苦しい声色とは逆に、白い息が上へと上っていく。
も斎藤もこくりと首肯した。
井上の手当をうけたは、そのまま局長室で待機していた。
休んでいていいと近藤が言ってくれたが、眠れるわけもなかった。
沖田のこと。
沖田に付き添っているであろう神谷のこと。
戦いの現場に出ている永倉、原田のこと。
敵味方に分かれて戦うであろう藤堂のこと。
そして、指揮をとっている土方のこと。
彼らのことを考えると、自分だけ眠るなんて到底出来なかった。
近藤も井上も斎藤も同じ心持ちなのだろう。
誰一人として足を崩すことすらしないまま、夜が明けた。
遅い朝焼けの中、まだ新しい木の香りが残る局長室にもたらされた報告は凄惨を極めた。
月真院にいた御陵衛士の面々は、新選組と通じていた奉行所の役人から伊東倒れるの報を受け、油小路に駆けつけた。
伊東の遺体を確認した御陵衛士たちは駕籠を呼ぶ。
実弟の三木三郎は呆然とし、藤堂は涙にくれ、他の衛士六名も地面に膝をついた。
駕籠がやってきて伊東の体を納めた、その時だった。
蕎麦屋や他の建物に身を潜めていた新選組の隊士たちが、原田と永倉の号令で、一斉に御陵衛士に斬りかかったのである。
交差する道は、新選組が用意した多くの龕灯で照らされ、藤堂がどこにいるのかすぐにわかった。
原田と永倉が敵味方をかき分けながら藤堂の元へと近づき、藤堂に道を開いた。
しかし藤堂が原田たちの行為を理解する直前に、藤堂は斬られてしまったのだ。
藤堂は助けるという事情を知らない隊士が、藤堂に逃げられると思ってやってしまったことであった。
「じゃあ…藤堂さんは…」
が確認する。
「すまねえ。俺たちがもっと早く平助を逃がそうとしていれば…」
原田と永倉が唇を噛んだ。
の頭の中を、嘘だと悲鳴のような声が駆けめぐる。
だが、それと同等、否、それ以上の衝撃が待っていた。
土方が屯所の奥にある病室へと皆を連れて行った。
そこには信じられない姿があった。
男が一人、胸元を赤黒い血で染めて横たわっているではないか。
「お…きた、さん?」
の手がふるふると震える。
黒く豊かな癖毛を広げているのは、間違いなく沖田であった。
「生きちゃいる。気を失ってるだけだ」
土方が吐き捨てるように言った。
「沖田先生は斬り合いの途中で急に血を吐いて倒れたんです」
沖田の枕元に、ぺたりと座り込む神谷がいた。その顔はすっかり憔悴しきっていた。
「血を、吐いて…?」
ろくに火鉢もなく寒い部屋なのに、の手のひら嫌な汗がにじんでくる。
「先生は…労咳なんですーーーー!」
神谷の悲痛な声が響き、屯所の屋根瓦に止まっていた雀たちが一斉に飛び立つ。
明け六つを告げる鐘の音は、誰の耳にも届かなかった。
20120713