鬼が辻 42
夜も更け、吐く息がさらに白くなった。
「では、また、うかがいます。久しぶりの酒で、楽しませて、いただきましたよ」
伊東はが横から支えなければならないほど出来上がってしまっていた。
「楽しんでいただけたならよかったです。金が用意できたらまた飲みましょう」
近藤も赤い顔で頷いた。
「そう言やあ、土佐の坂本竜馬と中岡慎太郎って野郎どもが殺されたそうだな」
不意に土方が口を開く。
「ええ。僕は中岡君と知己だったのでね。太宰府に行ったときに、まず話を聞いてくれたのは彼だった。惜しい人物を亡くしたものです」
伊東の表情がふと影を帯びた。
「殺しの嫌疑が新選組に向いているという噂もあるようですが?」
「そのようですね。しかし我々はやっていない。その日の隊士全員の行動を報告させましたが、現場の近江屋付近にいた隊士は誰もいませんでした」
近藤が自信を持って答える。
「こんなご時世だ、いつ誰に寝首をかかれるかわからない。新選組の皆も気をつけることだね。暴れ者が多い隊士たちによく言って聞かせておいたほうがいいかもしれないよ、土方君」
伊東は軽く手を挙げ、にもたれるようにして歩き去っていった。
「気をつけるのはてめえのほうだぜ」
土方の言葉が、切れるように冷たい風に混ざって飛んだ。
よろよろとよろけ、時には壁にぶつかりそうになりながら、伊東とは月真院への道をたどる。は提灯を持ちながら、背丈のある伊東を懸命に支えた。
「いい夜だね、」
酒で暖まった息を吐きながら伊東が言う。
「これで御陵衛士の皆を当面は食べさせていけるし、君を薩摩にやることもない。ああ、君のことは近藤が金を寄越したら、江戸へ連れて行ってあげるからね」
「え?」
は江戸という言葉にぴたりと足を止める。
「あの…私を新選組に戻してくれるのでは…」
「まさか! さっきも言っただろう? 僕は女子を男の世界のまっただ中に放り込むような真似はしない。江戸に僕の母がいるから、そこでほとぼりが冷めるまでいるといい。しばらくしたら母に頼んで、しかるべきところに嫁ぎ先を用意してもらうというのはどうだい?」
伊東は酒に染まった頬での目をのぞき込んだ。
「嫌です。私は京を…土方さんの側を離れるつもりはありません」
は伊東から視線をはずす。
「はっきり言うね。だが、間もなく京は戦火に巻き込まれるだろう。薩摩と長州が、徳川をつぶしたくてうずうずしているからね。そうなる前に江戸へ逃げて、普通の女子としての幸せを」
「私は…土方さんの側にいたいんです。それが私の幸せです」
伊東の体を離し、は提灯を持つ手に力を込める。
伊東がにじりじりと近づく。
も後じさり、壁に背をつけた。
「、君には辛い思いをさせた。せめて安らかな嫁ぎ先を用意するぐらい、させてはもらえないだろうか」
無理矢理拐かしてきたことを、伊東なりに詫びたいと思ってのことらしい。
は一瞬ほだされそうになったが、すぐに頭を切り替え、懐の銃を引き抜いた。
「物騒なものはしまってくれないか? 僕は君を傷つけたくない」
「…だったら、今すぐ土方さんの元へ帰してください。お金は後から何とかします」
強気な言葉とは裏腹に、の手が震える。
伊東は悪い男ではない。
女子とわかってもそれを言いふらすことはしないで、月真院の中では守ってくれた。
薩摩にも引き渡さないでくれるし、ありがたいと思う。
だが、拐かされようと何だろうと、
(私の居場所は、やはり土方さんのところ以外あり得ない)
そう思い、は唇を噛みしめた。
「せっかくお守りにと思って、この扇子を持ってきたんだけど」
伊東は懐の扇子を取り出して開いた。
「僕らの同志であった山南さんを連想させるものを持ってきたら、きっと仲のよかった君を、僕の言うとおりになるようにし向けてくれると期待していたのに」
は提灯を掲げて目を凝らす。
扇子に描かれた風景は山であった。
「山南さんのこと…やっぱり参謀が」
の頭の中で時が急速に巻き戻る。
山南が腹を切った日、伊東と弟の三木三郎が怪しげな会話をしていた。
あれはやはり、山南が腹を切る事態に陥れてしまったことを意味していたのだ。
は呆然として伊東を見つめた。
「…」
伊東がすがるようにへと手を伸ばす。
その刹那だった。
凍る空気を切り裂くように、素早く。
の前に人影が現れた。
「君は…」
闇の中に浮かび上がるその影に、伊東は目を見開いた。
ゆらりと揺れる髪は少しくせがあり、誰なのか一目でわかった。
「沖田さん!」
は銃口を下に向ける。
その腕を別の手がつかみ、後ろへと引きずる。
「さん、早くこっちへ」
「神谷さん? 帰ったんじゃないんですか」
神谷が自分の腕を掴んでいた。
「いいから」
と神谷はを引き寄せ、沖田たちのほうへと視線を向ける。
も提灯を二人のほうへと向けた。
「大樹公のご用を司る山口を拐かした罪、そして近藤先生に害をなそうとした罪で、伊東先生、あなたを処断します」
深夜の凍るような空気の中でもわかる、沖田の体から発せられる気。
鞘なりの音も立てず、沖田は刀を抜いた。
「ほう…近藤局長のことも気づいていたのかい」
く、と伊東が喉の奥で笑う。
(もしかして…伊東参謀の策に乗ったのは…)
自分を拐かし、近藤の首を取ろうとしている伊東を、この場で始末するためだったのか。
(これは土方さんの策…!)
の脳裏に鬼の副長の背中が浮かび上がる。
「新選組随一の使い手である一番隊組長、沖田君が相手とは光栄の至りだね」
伊東も愛刀の鞘を払った。
伊東と沖田は対峙し、相手の隙をうかがう。
真夜中。
何一つ無駄な物音がないのが耳に痛い。
と神谷は、知らずのうちに互いの手を固く握りしめていた。
沖田の口から軽い咳が漏れた。
その瞬間、伊東の足が地を蹴る。
伊東と沖田の影が交錯した。
沖田は斬りつけた姿勢のまま、微動だにしない。
伊東の体がふらふらとよろけて沖田に向かっていく。
伊東は喉の下辺りを斬られていた。
ひゅうひゅうと呼吸音を漏らしながら、伊東は柳眉を曲げ、必死の形相で沖田に斬りかかっていく。
沖田は振り返ってすぐに伊東へと切っ先を向けた。
しかし、急に沖田は膝を折り、激しく咳込む。
「沖田先生っ!」
神谷がの手を離して伊東に体当たりした。
伊東は予想していなかった神谷の動きに足下を乱す。
その背を、物陰から躍り出た斎藤の剣が縦に割いた。
「斎藤さん!」
「兄上っ!」
と神谷は同時に叫んだ。
伊東は力なくよろけながら、道ばたの石柱に崩れ落ちた。
斎藤が油断無く伊東に刃を向ける。
「君たちには…本当に、いつも…おどろか、される…」
ごふ、と伊東は赤い血を吐いた。
「せいぜい…気をつけることだ…奸賊などと…言われない、よう、に、…」
そしてかくりと首を折ると、もう物言わぬ体になった。
「沖田先生、沖田先生!」
神谷は沖田の背をさする。
「大丈夫ですよ…まったくやっかいな風邪だなあ、こんな肝心なときに。おかげで斎藤さんにいいところとられちゃったじゃないですか」
沖田が口元を拭きながら立ち上がる。
斎藤は沖田にちらりと視線を寄越した。
多少呼吸は乱れているものの、しっかりと自分の足で立っているのを確認する。
「斎藤さん、ありがとうございます。沖田さん、あの、大丈夫ですか?」
「ええ、これぐらい何でもありませんよ」
沖田が笑顔を見せる。
斎藤も小さく頷いた。
「では、次だ」
斎藤は道の曲がり角に控えていた隊士たちに出てくるよう案内し、すでに用意してあった戸板に伊東の体を載せた。
(次って…何のこと?)
辺りに広がる血の匂い。
その濃い匂いが腹の底にまで浸食してくる。
まだ何が起きたのか頭の中で整理がつかず、はただこみ上げてくる吐き気を押さえるのに必死だった。
20120628