久遠の空 ドリーム小説 鬼が辻 39

鬼が辻

update:2011.06.09

鬼が辻 39 

 深夜。
 全てが静まりかえり、沈黙が暗闇を支配する夜。
 凍てつく十一月の夜は、吐く息も一瞬で白く煙る。

 寒さのせいか、静けさのせいか、耳が痛む。
 そんな中、副長室の障子が音もなく開いた。

 ぬ、とその隙間から廊下に姿を現したのは土方歳三だった。
 黒い袷に黒い袴、黒い羽織。
 首に巻いた布も、手にした頭巾も黒という、闇に溶け込むような出で立ちである。

 だが。
 目だけがぎろりと異様な光を放っている。
 (今行くからな)
 土方は、鴨川の向こうの寺に監禁されているであろう己の小姓の姿を思い出し、唇を引き結んだ。

 今頃どうしているだろう。
 伊東に妙な真似をされていないだろうか。
 女だとばれて酷い扱いを受けていないだろうか。
 ぶる、と土方は身を震わせる。
 吐いた息も白く揺れた。

 後ろ手に障子を閉める。左右の障子は寸分の狂いもなく、対称に閉じられた。
 土方は腰に差した大小の刀を確かめると、縁側に腰を下ろす。
 沓脱石の上に草鞋の片方を置き、もう片方をを手に取ると足を通し、緒をきつく結び始めた。


 「待て、トシ」
 その背に、深い響きを持つ声が掛けられる。
 「…気付いてたのか」
 土方は声の主を振り返らず、手を止めることもしない。
 白い息をふふっと吐きながら、声の主である近藤が土方の隣に腰を下ろした。



 「一人で君を助けに行くつもりなんだな」
 近藤が聞く。
 「あんたにゃ迷惑かけねえよ」
 明確な肯定は口にせず、土方は答えた。
 ぎり、と緒の最後の一締めが終わり、立ち上がる。

 「待てと言っているだろう」
 近藤が土方の羽織を掴む。
 「新選組の副長ともあろう者が、私闘なんかするんじゃない」
 「法度に背くってか。あいつを返してくれさえすれば穏便に済ませてやるさ」
 土方が近藤の手を振り払う。
 そう言いながらも黒ずくめにしっかり固定された草鞋履きという出で立ちの土方に、近藤は思わず苦笑いをした。

 「ちょっと待て、落ち着くんだ」
 「これが落ち着いていられるか! 薩摩と通じている奴に連れ去られたんだぞ、すぐに奪い返さなきゃ薩摩に引き渡されちまうだろうが!」
 居所が知れた以上、一刻も早くこの手に取り戻さねば。土方はその一心で目を血走らせる。
 (あるいは、もう、薩摩に…)
 いや、そんな事態になってたまるものかと、土方は指の色が変わるほど強く拳を握りしめた。
 「だから落ち着け。実はもう、これはお前たちだけの問題じゃないんだ」
 「…どういうことだ?」
 もう自分たちだけの問題ではないとはどういうことなのか。
 土方は思い当たる節がなく、近藤を見た。

 「トシ」
 近藤は微かな星明かりの下、土方を見上げる。
 「実は、お前が江戸に行ってて不在の間、大樹公から君の呼出があったんだ」
 「何だと?」
 初めて聞かされる話に、土方の目が見開かれた。
 「いったん俺の部屋に来い」
 近藤が立ち上がり、手招きをして土方を促す。
 土方は頷き、固く結びすぎた草鞋の緒を小刀で切って局長室へ入った。



 近藤は土方を前にし、行灯の薄暗い明かりの中、ぼそぼそと話し始めた。
 「お前が隊士募集で江戸へ行っている間、正確には募集を終えて江戸を発ち、京への道を戻ってくる途中のことだ。肥後守様を通して、大樹公から君への呼出があった。だが君は、大政奉還が伝わってきた日に拐かされてしまって屯所にはいなかったから、呼出には応じられないと使者殿に返事をしたんだ」

 じじっと灯心が燃えて、二人の横顔を照らす。

 「その後、君はどうなったかという問い合わせが肥後守様よりあった。俺も山崎君や島田君に命じて君の行方を追ってもらったんだが、うまく隠されてしまったんだろう、見つからなかった。そこへ伊東さんからの書状が届いたんで、すぐ肥後守様に報告した。お前がさっき風呂に入っている間に使者殿が来て、返事を持ってこられた」
 近藤の声が一段低まった。

 大樹公のお召しがある山口の身を隠匿するなど、大罪である。
 山口の身柄を確保し、伊東一派を断罪せよ。

 「断罪せよ…?」
 「使者殿はそう告げられたよ」

 ごくり、と土方の喉が鳴る。
 大樹公からの使者が、伊東一派の断罪を下した。
 つまりの奪還は義を得たことになり、
 「私闘どころじゃなくなった、ってか」
 「ああ、そうなんだ」
 近藤の諾とした返事に、土方の目の色が鮮やかに変わる。
 「じゃあ話は早え。早速野郎どもをーーー」
 と土方が言いかけた。

 「焦るな、トシ。伊東さんからの書状をもう一度読んでみよう」
 近藤が文箱から伊東の書状を取りだす。
 「…新選組副長の小姓、山口は当方にて預かりいたし候。彼のものを薩摩に引き渡すは易きなれど、今一度彼のものの身柄について、局長副長を交えて話し合いたく…」
 洗練された、流麗な筆遣いが伊東の書の魅力である。
 その清流のごとき麗しい流れの手跡のはずが、ところどころ揺れていた。


 「俺は伊東さんの呼びかけに応じようと思う」
 「敵の懐に飛び込もうってのか」
 「飛び込まざるを得ないだろう、こんな場合」
 「どっかりと座して見ているあんたらしくねえな」
 「そうか?」

 土方が胡座をかいて近藤を見つめる。
 近藤はげんこつが入ると言われる口を横に広げ、土方を見つめ返した。


 「お前とは小さい頃に、ともに武士になると約束した仲だ。その夢をお前が叶えてくれた。そんなお前が苦しんでいるのを、座して見てなどいられないよ」


 「…急に、何言ってんだ」
 土方は行灯から顔を背ける。
 近藤からは土方の表情が見えない。
 だが近藤には、今の土方がどんな顔をしているのかが手に取るようにわかる。
 近藤は黙って心の友を見つめ続けた。



 「答えてくれてもくれなくてもいい。ひとつだけ、俺が不思議に思っていることがある」
 近藤が手の指を組み合わせ、咳払いをひとつする。
 「何だ」
 薄々その内容に気づきながらも、土方は聞き返す。

 「お前が匿っているというのもそうだし、この伊東さんからの手紙にもあるが、君のことだ。君の身柄についてとは、彼には何か、秘密のようなものがあるのだな?」
 (やっぱりな…)
 土方は観念のため息を吐き出した。
 やはりのことは、親友である近藤に最後まで隠し通すわけにはいかなかった。

 「今まで黙っててすまねえ、かっちゃん」
 居住まいを正すと、土方は話し始めた。
 がいかにしてこの世に現れ、どのようにして自分が彼女を匿ってきたのかを。





 その頃、高台寺塔頭・月真院に捕らわれているは。
 伊東の庇護の元、月真院内の掃除、洗濯、炊事などを任されてながら、ごく普通に日々を過ごしていた。
 そして空いている時間には伊東とたわいもない話をしたり、時には伊東に請われて簡単な英語を教えたりもしていた。

 新選組の新しい屯所に比べたら窮屈だし、金も無いので用意できる食事も質素、はっきり言えば粗末なものである。だが、は何の文句も言わず、ただ伊東に従っていた。


 「おい、山口」
 狭い台所で昼餉の支度に取りかかっているに、声が掛けられた。
 が振り向くと、伊東の弟である三木三郎、それにを連れてきた加納鷲雄が台所の上がり口に立っていた。

 御陵衛士として新選組から脱退して数ヶ月、三木は伊東に散々罵られていた体の贅肉を一気に落としていた。
 食事が質素すぎる上に、遊ぶ金もないので勝手な飲み食いも出来ない。そうなれば痩せていく一方なのは自然の摂理である。
 伊東と並んで立てば、尊王の志に燃える美しき兄弟と褒めそやされてもおかしくないほどに、三木は変貌していた。
 (元は美男子だったって参謀もおっしゃってたなあ)
 すっきりとした美青年に変身した三木を見て、は何となくそんな感想を持った。

 「何でしょうか」
 は気を取り直して、頭に被っていた手拭いを取りながら、とことこと三木たちに近寄っていく。
 「何故お前はいつまでもここにいるのだ」
 声を低め、三木が険しい顔をする。
 「いつになったら薩摩へ引き渡されるのだ。そのために僕は、伊東先生に頼まれて篠原さんと、お前を連れてきたのに」
 加納もに詰め寄った。

 (そうだった)
 元々自分がここに連れてこられた経緯を、は思い出した。
 薩摩藩が翻訳者として自分を取り込もうとして、御陵衛士に誘拐を頼んでいた。
 隙を突かれ、誘拐された。
 しかし、伊東は何故か自分を薩摩藩に引き渡さないでいる。
 (御陵衛士の皆にしてみれば、私を薩摩藩に引き渡せば、金銭的にも今後の活動にも援助してもらえるはずなのにといったところか)
 は頭の中で自分の状況を整理する。

 「兄上は、いや、伊東先生はお前を薩摩に連れて行かないことで、かなり苦悩されている様子なんだぞ! どうしてこんなことになっているんだ?」
 三木がの胸ぐらを掴んだ。
 御陵衛士にいる者は兄弟ではなく、ただ同志であるという伊東の言葉により、三木は実兄である伊東を兄とは呼ばず、先生と呼んでいる。
 だが、やはり兄弟は兄弟らしく、三木なりに伊東のことを案じているようだ。
 「申し訳ありませんが、それは私にもわかりかねます」
 伊東が自分を薩摩藩に引き渡さない理由、それについては本当に、は伊東から知らされていなかった。


 「三木さん、俺の従兄弟が何か失礼でも?」
 「、どうしたの?」
 「あ、斎藤さん、藤堂さん」
 ちょうどそこへ、斎藤と藤堂がやって来た。
 「寒いからお茶入れようと思って来たんだ。三木さんたちも?」
 藤堂がにこにこと笑顔でと三木の間に入ってくる。
 「い、いや、その、僕たちは…」
 「三木さん、行きましょう。失礼します」
 を脅していたとは言えず口ごもる三木を、加納が促してそそくさと台所から立ち去った。


 「大丈夫? 痛い目に合わされなかった?」
 藤堂がの顔を覗き込む。
 「ありがとうございます、何もされてません」
 は藤堂に頭を下げた。
 「皆、御陵衛士になってからこっち、新選組にいた時のような自由が無くていらついてるんだ。勘弁してやってよ」
 行動にしても、食事にしてもね、と藤堂は片目をつぶる。
 「いえ、私こそ皆さんのお邪魔になってて…」
 「やだな、そんなことないよ。理由はどうであれ、も突然連れてこられてびっくりしただろ? こうなったのには伊東先生に何か考えがあるはずだ。のことを責めたって仕方ないのに」
 明るく言うと藤堂は茶筒を取り出し、茶を淹れる支度を始めた。

 (すまんな。外出も文も禁じられている身では何も出来ぬ)
 斎藤が囁く。
 はわかっているとばかりに、こくりと頷いた。
 (おとなしくしてくれていれば、今はそれでいい。しばらくはこのまま頼む)
 (はい)
 斎藤も、が突然月真院に連れてこられたと知った時にはさすがに驚いていた。
 しかしその後は、従兄弟だからと甘やかさず、それでいてさり気なくを見守ってくれている。


 ついでとばかりに伊東の分の茶も淹れ、、藤堂、斎藤の三人は、伊東の部屋へと向かった。
 「も御陵衛士になっちゃえばいいのに。俺は大歓迎だよ」
 「えっと…それだと私、新選組と御陵衛士の間の約束に背いてしまうんですけど」
 「わかってるよ。わかってるけどさ…」
 足を止め、藤堂は白い息を吐く。
 「薩摩は、何か得体が知れないっていうか…俺、何となくだけど薩摩にはを渡したくない。もし新選組にも戻れないなら、御陵衛士にいて欲しいんだ。俺たち仲間だろ?」
 「藤堂さん…」
 新選組を抜け、御陵衛士に加わろうとした十名のうち、佐野七五三之助・冨川十郎・中村五郎・茨木司の四名がどんな運命を辿ったのか、藤堂も聞かされていた。
 は副長の小姓として、新選組のことを知りすぎている。もし新選組に戻されたとしても、放逐処分にはならないだろう。
 「…ありがとうございます」
 戸惑いながらも、は藤堂に笑顔を向けた。



 「伊東先生、藤堂です。あと斎藤とも一緒です。お茶、いかがですか?」
 「ありがとう、三人とも入りたまえ」
 部屋の前で声を掛け、いらえを聞いて三人は中に入る。
 伊東は目の下にうっすらと隈を作っていた。

 「はい、どうぞ」
 藤堂が伊東の前に茶を置く。
 「ありがとう。ちょうどよかった、君たちに話しがあったんだ」
 白く湯気の上がる茶を一口すすると、伊東はまず藤堂に視線を向けた。
 「僕は明日、薩摩藩邸に出向く。藤堂君、のことを頼むよ」
 「承知しました」
 藤堂が頷くのを確認すると、伊東は次に斎藤へと向き直った。

 「斎藤君、君には新選組へ書状を届けてもらいたい」
 「承知」
 斎藤の前に書状が差し出される。
 (新選組へ…?)
 どんな内容なのだろうと、は書状が斎藤の懐に仕舞い込まれるまでじっと見つめていた。


 伊東がへと視線を向ける。
 どこか憐れむような影を含んだそれに、は気付かなかった。



 20120609