鬼が辻 38
新選組副長・土方歳三は、十一月三日に京へと戻ってきた。
江戸で多くの隊士を獲得し、自分や近藤の親族の元へも顔を出してきた。
日野においては、姉の嫁ぎ先である佐藤彦五郎宅と実家を訪ね、それぞれに近況を報告した。
どちらでもが今回同道していないことは寂しがられ、とくに土方の兄の為次郎は、土方が来ずともが来ればよかったのにとからかう始末であった。
近藤の養父・近藤周斎は病床にあり、臥せたままであったが、笑顔で土方を迎えた。
一緒に行った“遊び場”や、近藤と土方の若い頃の話などを懐かしみのある口調で語り、妻のお栄にたしなめられては皺を刻んだ口元を綻ばせた。
土方の口から、京にある近藤について聞かされると、うむ、と重々しく呟いて頷いていた。
だが儚いことに周斎は、土方たちが江戸を発った七日後、十月二十八日に息を引き取った。
「江戸から急いで戻ってみりゃあ、こいつはいったいどういうことなんだ」
京を出発する前と同じ、いやそれ以上の凄みを発し、土方は目の前に座る新選組幹部の面々を睨めつける。
「あはは、土方さん、江戸から戻ってきても何も変わらないんですねえ」
沖田が約ふた月ぶりの再会を懐かしむかのように言う。
「あははじゃねえだろ! 大政奉還のこたあ江戸で聞いた。それについて詳しい情報が何もねえって、今まで何をしていやがった」
土方が眦を吊り上げて怒鳴った。
十月十四日に大政奉還が成ってから約半月。
表面上、京は特に変わった様子が見られなかった。
徳川慶喜が政権を朝廷に返上したとて、人々の営みへすぐに影響は出ない。朝廷が今まで通り、徳川家に内交や外交を執り行うよう、沙汰を下したからである。
新選組にしても通常通りの巡察を命じられていたし、松平容保も実兄の徳川慶勝が京都守護職を引退するよう勧告しても、勧告を拒否していた。
「今は静観するしかないだろう。時の流れには逆らえん。例え幕府が無くなったとしても、大樹公が政権の頂点にあり続ける限り、俺たちは全力でお守りするのみだ」
近藤が厳かに言う。
「ったく、かっちゃんは…そんな受け身でどうすんだよ」
はあ、と土方はため息をついた。
「山崎! 島田!」
「はい、ここに」
土方の雷鳴のような呼び声に、監察の二人は音もなく廊下へ現れた。
「すぐに朝廷と幕府、それに薩長の動きを調べ上げろ。近いうちに何か仕掛けてくるかもしれん。京のみならず、大坂の様子も見逃すな」
「はっ」
山崎と島田は同時に頭を垂れる。
が、なかなか動こうとしない。
訝った土方が口を開こうとした刹那。
「副長、その…はんのこと、申し訳ありまへん!」
山崎がはいつくばるように土下座をした。島田も同じく頭を廊下に擦りつけた。
。
その名に全員が凍り付く。
「馬鹿野郎、無駄口叩いてる場合か! とっとと指示に従え!」
雷神そのもののように土方が雷を落とす。
山崎と島田は、もう一度深く頭を下げて、外へと飛び出して行った。
皆の目がおそるおそる、土方に集まる。
土方は凝りをほぐすかのごとく肩に手をやった。
「かっちゃん、江戸の様子は後で話す。新八、サノ、新入隊士どもの世話はお前らに任せた。俺は夕餉までひと眠りする」
「あ、ああ。ゆっくり休めよ」
近藤だけがやっと返事をした。
土方が局長室を出、ぱしんと障子が閉まると、室内は急激に空気を緩めた。
だが、誰も言葉を発しなかった。副長室はすぐ隣で、勢いに任せた大声でしゃべれば、局長室の会話は筒抜けだからである。
そう、山崎だけが口にしただけで、他の誰もが禁忌にでも触れるかのように、言い出せなかった。
が、副長室から拐かされたという事実を。
土方は自室に戻ると旅装を解いた。
脱いだものを部屋の隅に放り投げる。
そんな行為をたしなめる声がしない。
ほこりっぽい空気に顔をしかめながら、土方は久々に自分の文机の前に座った。
机上には開封されていない自分宛の書状が山積みになっている。
傍らには、開封されてまた元通りに包まれている書状が積まれていた。
土方は、その一通一通に目を通してゆく。
途中までは、取り立てて火急の用件のものは見あたらなかった。主な文のやりとりをする相手には、自分が江戸へ行くことを前もって知らせてあったからだ。
しかし、日付が今日に近づくにつれ、書状の内容はだんだんと深刻さを増していく。大政奉還にともなう政局の変化や、これからを心配する内容になっていくのだ。
一番新しい書状を読み終わると、土方は文箱を開けて墨を擦りだす。
黒くかぐわしい香りが部屋に満ちていった。
しゅっしゅっと、紙の上で筆が踊る。
(何故だ)
何故無いのだ。
の安否を知らせるものが。
拐かしたのは誰だ。
何が目的だ。
大政奉還が伝えられた夜に連れ出されているから、もう半月ほど経っている。
新選組の副長室へわざわざ押し入ってまで連れ出しているのだから、奴が俺の小姓だということを知ってての狼藉に決まっている。
金が目的なら、とっくに相手から連絡が来ていてもいい。
しかし、連絡はまったくない。
(さっきのかっちゃんの様子を見りゃあ、組へ脅迫めいたものは届いてなさそうだしな)
届いていたら物証を出すだろうし、脅迫の内容によっては、近藤が解決しておいてくれているはずなのだ。
監察の面々にしてもそうだ。
のことで何かわかっていたら、真っ先に報告するだろう。
だが報告はなく、二人とも頭を下げて謝るばかりだった。
が消えてから、山崎も島田も、きっと彼女を捜してくれたに違いないのだ。
(どこにいる)
土方は黙々と書状の返事をしたため続けた。
返事が終わると、今回の江戸下向で世話になった家すべてに礼状を書き始めた。
忌々しいぐらいに筆がよく滑る。
土方は夕餉までどころか、朝まで一睡も出来なかった。
その頃、はどこにいたのか。
誰に誘拐されたのか。
東山高台寺の塔頭、月真院。
は、伊東の手下の者に誘拐されたのであった。
「お茶です」
とは伊東の前に、出涸らしの茶を出す。
「ああ、ありがとう…」
伊東は立ち上る湯気を横目でちらりと見たが、すぐに目を逸らした。
月真院に監禁されて約半月。
はすっかり建物の間取りも覚え、不自由なく過ごしている。
外へ出ていったり、文を書こうとしたりしなければ、特に咎め立てされることもない。は極めて普通の生活を送っていた。
それとは正反対に、苦悩しているのは伊東のほうであった。
伊東は、が女であることを知ってしまい、薩摩藩への引き渡しをどうするべきか迷っているのである。
あの夜、伊東は御陵衛士の篠原泰之進と加納鷲雄に命じ、を捕らえさせた。
「大政奉還の知らせで騒然となっているのに乗じ、幕府からの秘密の使者だと言って門を通させる。幹部は局長室に集まっているだろうが、徹夜をするほどの体力がないは副長室にひとりで戻るだろう。
が寝入ったところを、監察だと言って障子を開けさせるんだ。きっとは疑いもしないで開けるだろう。後は気を失わせて連れてくればいい」
篠原はを肩に担ぎ、連れが激務で急に倒れたと言ってそのまま屯所を出る。連れの加納はと背格好が似ていた。に頭巾をかぶせてしまえば、暗闇の中ではとっさに判断は出来ない。
加納は屯所が広いのを隠れ蓑に、塀の外まで枝を伸ばす木に登って屯所から脱出する。身代わりの術だ。
二人は少し離れた場所で落ち合い、そこに用意してあった筵にを包んで月真院まで走る。
伊東にはその状況が手に取るように想像でき、あまりの完璧さに笑みを浮かべるほどだった。
新選組の新屯所の間取りは斎藤から細かく聞いていて手に取るようにわかっていた。斎藤にしてみれば、新選組の密偵と悟られないために、間取りを詳しく教えたに過ぎなかった。
薩摩藩からの、を引き渡す約束の請求が、だんだんと厳しくなってきた末の犯行だった。
斎藤はのらりくらりと返事を引き延ばした。最初の数回は薩摩藩も大目に見てくれたが、さすがに数ヶ月も経過すると、痺れを切らしてきたのだ。
「すぐにでも山口を連れて参れ」
と、薩摩藩の田代から連日のように書状が届くようになった。
書状を届ける役目のいかつい大男が、返事を書くまで門前に仁王立ちを続ける。
「まだか!」
といかつい男は声を上げ、早く色よい返事を書くようにと伊東の精神を圧迫していた。
やがて薩摩藩からの生活費も滞りはじめ、これではまた元の生活に戻ってしまう。
もう斎藤には任せておけないと判断した伊東は、篠原と加納に策を授け、を拉致したのである。
を連れてくるところまでは、すべて伊東の計算通りだった。
が、計算外どころか、予想すらしなかった事実を伊東は知ることになる。
月真院に連れてこられても、は目を覚まさなかった。そこで伊東は自室にを寝かせることにしたのである。
篠原の肩からを預かり、伊東はを横抱きにした。
(男にしては柔らかな体つきをしているな)
そう思いながらを布団におろし、胸元を緩めてやろうと着物の合わせ目に手を伸ばした時だった。
不意に、の胸に手が当たった。
は寝るときには鎖帷子を着用していない。
丸い、男とは異なる感触が伊東の手に伝わってきた。
「え?」
伊東は思わず声を上げる。
あり得ない柔らかさに、伊東の思考回路は急速な動きをし始めた。
もし、女だったら?
鬼副長と噂されるあの土方の、過保護なまでのかばい様も、江戸下向の時に一度も一緒に風呂へ入ろうとしなかったことも、そして土方へ向ける温かなまなざしも、すべてが理解できる。
伊東は震える指での胸元を開き、行灯を引き寄せて確認した。
間違いなく、女子のからだがそこにあった。
「突然のことですまない。けれども、僕は君を今すぐ薩摩へ引き渡すことは考えていない。新選組に戻すことも、だ。とにかく、今は何も言わずここにいて欲しい」
目が覚めたに、伊東は言った。
は警戒した目つきで伊東を見上げたが、しばらく考え込んだ後に、黙って頷いた。そして今に至る。
(土方君、君はどんなつもりでを匿っていたんだ)
伊東は胃の底から青い息を吐く。
“”には悪いが、捕らえて薩摩藩に引き渡せば、万事丸く収まるはずだった。
自分たちには金が入り、政治活動も薩摩を通じて行える。はこれから勇躍する薩摩藩の元、通詞として世界に活躍する。
そう夢見ていたのに、女子だったとは。
男であったなら、多少気が弱くとも薩摩藩の中、己の力で道を切り開いて行くことも期待できるだろう。
だが、女子ではそうはいかないかもしれない。
ただ道を切り開いていけないだけならそれでいい。
万が一、男だらけの中で慰み者にされてしまったらと思うと、伊東はどうしてもを薩摩藩に引き渡すことを躊躇してしまうのであった。
しばらくは腹心の内海以外、外出も文も禁じた。斎藤も例外ではなく、そのため斎藤は土方にの居所を伝えることが出来なかった。
考えて考えて考え抜いた挙げ句、伊東はとある行動に出た。
新選組の近藤と土方に宛てて書状を書き、月真院正面にある高台寺の門前の小僧にひっそりと持たせて届けさせたのである。
「伊東のところに…!」
伊東からの書状を読んだ土方は、ふるふると紙を震わせた。
「とりあえず君は無事なようだが…」
心配していた近藤は、ほっと胸をなで下ろす。
「あの野郎…」
ぐしゃりと紙の端が握りつぶされる。
土方の目はぎらぎらと燃えていた。
20120531