鬼が辻 37
不動堂村の新選組屯所から、江戸での隊士募集のため鬼副長がいなくなった。
最初のうちは緊張感を残していた屯所内だったが、だんだんとそれは緩み、数日も経つと、隊士たちは完全にだらけきっていた。
普段の生活にしても格好はだらしないし、巡察を始める際の点呼も覇気がない。が施している洋式調練だけは、彼女が目を光らせているので真面目にはしているが、それでも何となく気が抜けているように感じられる。
(鬼のいぬ間の洗濯って、まさにこのことだなあ)
土方に屯所の見回りを命じられたは、木の香りを残す部屋を見回りながら苦笑した。
が副長室に戻ると、永倉と原田が来ていた。
「よーう、どこ行ってたんだよ。おまさが作った団子、持ってきてやったぜ」
まず原田がもぐもぐと口を動かしながら、得意そうに包みを差し出す。あんこを乗せた、かわいらしい丸い団子が顔をのぞかせた。
「屯所内の見回りに行ってました。お団子おいしそうですね、ありがとうございます。奥様によろしくお伝えください」
「おう、もちろん伝えておくぜ。茂のほっぺたみたいでうめえぞ〜」
が笑顔になったのを見て、原田は大きく頷いた。
「ほら、お前の茶だ」
永倉が湯飲みをとんとの前に置く。
「ありがとうございます。あ、永倉さん、口元にあんこついてますよ」
「え、どこだ?」
は永倉の顔に手を伸ばし、あんこを指で摘んで取る。
「ありがとよ。土方さんにこんなとこ見られたら怒られちまうなー、いなくてよかったぜ」
「違えねえ!」
はは、と大きな口で笑う原田と永倉につられ、もくすくすと笑った。
薩摩の手に落ちないようにするため、は外出を禁じられている。
それを土方からも、そして局長の近藤からも重ねて言い渡された原田たちは、が退屈しないようにこうして顔を出しに来る。
土方がいない間はなおさらだった。土方に、“自分が戻ってくるまで、の様子をよく見ておいてくれ”と密かに頼まれていることもあるが、頼まれなくても彼らはそうするつもりだった。常に土方に守られているが、土方不在の間にどんな目に遭うか知れないからである。
加えて。
「土方さんがいないんじゃあ、お前も寂しいだろ」
「えっ…」
永倉が団子をほおばりながら問うと、は一瞬固まった。
「そんなこと、ありませんけど」
そして団子を摘むと、彼女らしくない雑な動作で口に放り込む。しかしいかんせん雑な手つきだったため、口の端に団子が当たり、ぽろりと団子が落ちた。
「かーっ、団子ひとつでノロケやがった!」
永倉はどたっと後ろに転がり、腹を抱えて笑い出す。
「ち、違います、やだ、永倉さん」
は慌てて団子を拾った。
「土方さん相手にそこまでとは…よっぽどホの字なんだな」
原田が半分呆れたように呟く。
「原田さんも、からかわないでください」
は赤くなったり青くなったりだ。
原田と永倉には、いや、試衛館の面々にはわかっている。
本人は面に出さないようにしているつもりだが、見えている。
が土方に心を預けきっていることを。
そして土方もそれを受け入れ、さりげなく、時には過保護に守っていることを。
大樹公徳川慶喜に呼び出されるほどの翻訳通訳の腕前を持ちながら、新選組に、さらには鬼副長土方歳三の元にかくまわれているのが何故なのか、誰も問わない。
問わないが、土方が理由を明らかにせずとも守っているのには、きっと重大な何かが隠されているはずなのだ。
黙ってそれを見守るのも、試衛館道場の仲間であるゆえだと、皆が考えていた。
一方のも、こうして試衛館の皆が自分を気にかけて、副長室を訪れてくれているのには気づいていた。ありがたいと思っている。
(試衛館の馴染みでもないのに)
さらには自分の正体をひた隠しにしているのに。
皆を騙しているのが心底苦しい。だが、話すわけにはいかない。
(だからこそ、今自分が出来る精一杯のことをしなくちゃいけない)
は原田と永倉に引き続きからかわれながら、笑顔の下で決意を改めるのであった。
巡察のため原田と永倉が部屋を去ると、は立ち上がって沖田の部屋を訪れた。新しい屯所には幹部専用の部屋が設けられており、幹部も平隊士も、互いにゆっくりとした時間を過ごすことが出来る。
「沖田さんいらっしゃいますか、山口です」
「さん? どうぞ」
「失礼します」
明るい声にほっとしながら、は沖田の部屋に入った。
沖田は部屋の中ほどに座っており、のんびりとこんぺいとうを食べていた。
「あれ、何をお持ちなんですか? おいしそうな匂いがしますけど」
が持っている包みを、沖田がめざとく見つける。
「これ、原田さんの奥方様が」
「おまささんが? うわあ、嬉しいなあ。ちょうどお団子、食べたいと思ってたんですよう」
の手には、原田から分けてもらった団子が包まれて載っていた。
一番隊組長の顔がだらしなく崩れる。だが今更驚くことはない。沖田の甘味好きは、ある意味病気だ。
「あ、さん、いらしてたんですか?」
そこへ神谷が入ってきた。手には盆があり、湯飲みをふたつ立てている。
「これ飲んでてください、もうひとつお茶入れてくるんで」
と神谷は、の前に茶を置いた。
「神谷さん、どうぞおかまいなく。私、今、おなかいっぱいで」
は沖田の前に差しだした団子を指さした。
「神谷さんも、早く食べないと沖田さんに全部食べられちゃいますよ?」
「ひどいなあさん、神谷さんの分くらい、ちゃんと取っておきますよ」
沖田はもごもごと、口の中を団子でいっぱいにし、さらには両手で団子を掴みながら言う。
「とっとくったって、一番小さいのをひとつだけとかでしょう?」
神谷はすとんと座り、団子に手を伸ばす。
沖田と神谷は、どっちがひどいんだとぶつぶつ言っていたが、団子のおいしさに表情を緩ませていく。
は笑みを浮かべながら、じつにうまそうに団子を食べるふたりを見つめていた。
「ちょっと厠へ」
と沖田が席を立つ。
足音が遠ざかるのを確認し、は神谷に小声で話しかけた。
「沖田さん、今日はよさそうですね」
「ええ、咳一つしてないですよ」
神谷も小声で返した。
が土方から言付かっている用件はいくつかあるが、そのうちのひとつが沖田の体調に気をつけておくことである。
沖田は五月に入ってからだろうか、軽い咳と微熱が続いていた。
今日のように咳が止まっている日もある。止まらない日もある。症状は安定していない。
回診に来る南部も、最初は風邪だろうと診断していた。が、最近は多忙なためか回診に来てくれないので、神谷とが診ている。
「風邪にしたって長くないですか? もう十月ですよ?」
「そうですねえ…」
が聞くのに神谷が頷く。
「南部先生に、次に回診に来ていただけそうなのはいつか、お手紙を出して聞いてみましょうか」
「え、ええ…」
神谷が口ごもった。
(…?)
どうかしたのか、とが不審に思い聞こうとした時。
「あーすっきりした」
沖田が晴れ晴れとした顔つきで戻ってきた。
「先生、そういうことは口に出さないでください。一番隊の組長ともあろうお方が、そんな」
神谷がぱっと顔を上げ、沖田をたしなめる。
「組長だろうとなんだろうと、自然なことは自然なことです。いいじゃありませんか」
沖田はまったく気にせず座ると、残っている団子に再び手を伸ばした。
目の前で沖田と神谷のじゃれあいが展開される。
はほほえましくそれを見守り、神谷に感じた違和感をそっと心の端にしまい込んだ。
だが、神谷はこのときすでに気づいていたのだ。
医者の息子、いや、娘ならではの知識のせいで。
沖田の身を蝕みつつある、悪魔の病の名を。
そして、日本を支えてきた大樹もまたその身を蝕まれていた。
二百六十余年に渡る長い長い権力掌握の果てに、徳川幕府はついにその役目を終えることになる。
慶応三年十月十四日。
第十五代将軍徳川慶喜が、京の二条城に諸藩の代表を集めて、政権を天皇に返上する旨を宣言した。
世に言う大政奉還である。
徳川慶喜が政権返上を宣言した理由は、様々な憶測を呼んだ。
長期政権による幕府の基盤が弱まったこと。
力をつけた諸大名の発言権が強くなったこと。
開国へ向かう流れの中、徳川家のみでの政権という体制では、もはや世界に通用しなくなったこと、などなどなど。
いずれかひとつというわけでもないし、このほかにも理由はあっただろうとも言われている。
この宣言は、またたくまに京中に広まった。
新選組の屯所にも大政奉還はすぐに伝わった。
「馬鹿な! こんな話があってたまるか!」
近藤は、どんと畳を拳で叩く。い草の香りが小さく立ち上った。
「大樹公が政権を放棄だと? まさかそんなことが」
永倉も唇を噛み、苦渋の表情をにじませる。
「本当なのかよ」
原田は目を見開いたまま動かない。
ほかの幹部たちも、不安や不審を次々に口にしていた。
「山崎さん、島田さん」
局長室を出ると、は外に控えていた監察方のふたりに声をかける。
「大政奉還のことですが、情報が足りません。集めてきていただけませんか」
土方ならきっとこうするだろうとは思う。
「はい、もちろんそうしますが…」
島田が山崎と目を合わせる。
「うちらははんの護衛も、副長から頼まれてます。ふたり揃って屯所を出るのはどうかと思いますが」
山崎が言葉を続けた。
山崎の言葉に、は確かにそうだと頷いた。
「そうですけど、私はおふたりが戻るまで屯所にいますから。外に行く用事もないですし、私のことは気になさらないでください」
何かあったら山崎と島田を頼りにするよう、も土方から言い聞かされている。だが、土方が江戸へ行ってから今日まで、屯所の外はおろか、建物からも碌に出ていない。それでも生活に影響はなかったからだ。
だから今、ふたりの目がなくとも身の安全は確保できる。それよりも大政奉還の情報が不足していることの方がはるかに重要だ。
「わかりました。では少々留守にします」
山崎と島田は、夜の闇に消えていった。
局長室には、局長の近藤や幹部の面々が夜遅くまで詰めていた。
も山崎と島田の情報を待ちながら局長室にいたが、睡魔が極限まで迫ってきたので、副長室に下がらせてもらった。
「遅くまでご苦労さんだったね君、ゆっくり休むといい」
と近藤が優しく声をかけてくれた。
他の幹部たちもそれぞれに目で挨拶を寄越してくれ、は一人だけ先に休むことを気にしながらも、副長室で横になった。
(土方さんの代わりになれるだなんて思っていないけど…)
は布団を首元まで引き上げて、深くため息をつく。
土方の仕事を一番近くで見てきた者として、小姓として、少しでも新選組に貢献できたら。
そう思ってみたものの、徹夜にすらつき合えない。
屯所にこもってばかりでいけない、もっと体力をつけねばと、は局長室から漏れ聞こえてくる声を聞きながら思った。
夜が更けて、いつの間にかは眠っていた。
局長室からは、夜中であるにも関わらず話し声が聞こえてくる。
ごそ、と副長室の障子が薄く開いた。
条件反射では目を覚ます。
「監察です」
障子の側で横になっていたの耳に、低い声が告げた。
(山崎さんか島田さんが寄越したのかな…)
は寝ぼけ眼で身を起こす。
その刹那、障子の隙間からするりと影が忍びこんだ。
監察の誰だろう、とが目をこする。
音もなく風を切り、相手の腕がの鳩尾に入った。
「ぐっ…」
何が起きたのか理解する暇もなく、は意識を失った。
黒い影はを素早く抱え上げ、屯所から姿を消した。
20120517