鬼が辻 35
「赤松先生が…殺された?」
監察方の山崎が持ってきた情報に、の顔は青ざめた。
いつ、どうして、誰に。
頭の中が真っ白になり、心臓の低い鼓動が頭を鈍く叩く。
「報告を」
土方がを目の端に捕らえながら促すと、山崎は先を続けた。
「信州上田藩士、赤松小三郎。昨日の昼日中、魚棚通を上がった東桐院通にて斬られて死亡したとのこと。下手人は逃亡し、その正体は不明です」
赤松の生死以外、その時に何があったのか、状況を示す情報は入ってきていないらしい。
土方は顎を親指でさする。
「…山崎」
「“細かいことがわかったら”知らせろ」
「承知しました」
山崎は頭を下げると音もなく副長室から姿を消した。
言葉の端に念を押しておいたから、これで山崎が出来る限りの情報は手に入れてきてくれる。
土方はに視線を移した。
ぴたりと姿勢を正して、普段通りにしようと努めてはいる。
しかし、額からは汗がひっきりなしに流れ、かろうじて取り出した手拭いは、手の中で固く握りしめられたままだ。
土方は小さく溜息をつき、行灯に明かりをいれようと炎袋に手を伸ばす。
「あ、私がやります。たしかもう油が切れそうだったはず…」
は自分の仕事だと慌てて立ち上がろうとしたが、膝にちからが入らずかくりと崩れ落ちた。
そこへ土方の手がさっと伸び、の体を受け止める。
「すみません…」
「しっかりしろ。屯所の中といえど気を抜くな」
「は、はい」
土方の低く鋭い声が飛び、は我に返る。自分の頬をぎゅっとつねると、再びきちんと座り直した。
土方は油をつぎ足し、行灯をともした。
灯心から放たれる柔らかな光がかすかに揺れる。
土方は自分の仕事を進めながら、時折に目を配った。
は何もせず、ただじっと明かりを見つめている。
翻訳の、そして最新の兵学の師でもあった赤松の訃報を受け止めようとしているのだろう。
室内の空気がもったりと、まるで澱んだ水で満たされたかのように感じられる。
夜はじりじりと更けていった。
山崎が副長室に再度報告に来たのは夜半だった。
「遅くなりまして」
「ご苦労」
障子の隙間からするりと山崎が室内に入り込んだ。
は横になっていたが、山崎が入って来るやいなや、すぐに起き上がった。
、土方、山崎が車座になる。山崎は小声で報告を始めた。
「赤松はんは、上田に戻る途中だったようでんな」
「上田に、ですか?」
「はい。上田藩から再三の帰藩要請が出ていたようで。上田藩は赤松はんを、藩内の軍政改革に着手させたいと考えていたようです。ですが、京で日本の将来のために活動したいと、帰藩を断り続けていた…」
山崎は袖で汗を拭う。
「なかなか戻らない赤松はんに、とうとう上田藩は業を煮やしたんでしょうな。帰藩を要請から命令に変えて、すぐに戻るようきつく言ってきたそうです」
「それでやっと帰藩を決めたってわけか」
「そのようで」
土方がをちらりと見る。
は山崎の報告を、一言一句聞き漏らすまいと真剣な表情をしていた。
「下手人はかなりの手練れのようでんな。前は左肩から右の腹にかけてバッサリ、後ろは横真一文字、一閃でしたわ」
「見たのか」
土方が確認する。
「はい。実は赤松さん、黒谷さんに運ばれてまして」
「黒谷さんに? どうしてそんなところに…」
赤松に会津との繋がりなどあったのだろうか。は驚いて身を乗り出した。
「京での活動を望んでいた赤松はんの元に、会津の上層部から声がかかってたらしいですわ。赤松はんが幕府に提出した上申書を読んで、会津で赤松はんの面倒を見るから京でそのまま活動をしないか、と」
山崎が答える。
「会津が…」
は思い返す。赤松は時折、大政奉還や政治に関する書面をしたためて、田代に怒られていたことがあった。その書面を書き上げ、幕府などに提出していたのだろう。
その書面が、経路は不明ながら会津の目にとまり、考えが採用された。そう考えるのが自然だろう。
「奉行所の検分が終わったところへ、たまたま会津の公用方の外島機兵衛様が通りかかられ、赤松はんだと知って黒谷さんに運んだ、ということでした。赤松はんのことは全部黒谷さんで聞いたんですわ」
山崎は行灯を引き寄せると、土方に折りたたまれた紙を差し出した。
「これは?」
「三条大橋の擬宝珠に貼り付けられていた斬奸状です。写しですが、会津の方からいただいてきました」
「そうか」
土方は四つにたたまれた紙をかさりと開き、行灯の明かりの下に持っていく。
も横から、薄い橙色の光で透ける紙を覗き込んだ。
「元信州上田藩 赤松小三郎」
と始められた斬奸状には、こう記されていた。
赤松はかねてより西洋に傾倒し、皇国の趣意を失い、いたずらに天下を動揺させ、不届き千万である。
罪多きこの男に、東桐院五条下る付近で天誅を加えた。
本来ならば首を取ってさらすべきところであるが、昼中であったため出来なかった。
「昼中であったから出来なかった、と? グズグズしてテメエらの身元がバレんのが怖かったからだろうが」
土方が吐き捨てるように言った。
(犯行声明…)
は土方から斬奸状の写しを受け取り、何度も読み返した。
筆跡に見覚えはない。なかなか流麗な筆運びで、教養がありそうな感じだ。
内容からすると、強烈な攘夷の志を持っているように見える。
赤松が西洋にかぶれていたから、天皇のおわしますこの国を騒がせた。
だから殺したと、この斬奸状にある。
(確かに、赤松先生は目立っていらした。西洋の軍服をいつも着込んでいらっしゃったもの)
の脳裡には、髷を切り落として軍服を着こなす赤松の姿が浮かぶ。
まだ髷を切って西洋の服に身を包む習慣のないこの江戸時代では、特別目立っていた。
本人もその格好で堂々としていた。
そんな赤松を西洋かぶれと思い、付け狙うのは容易だっただろう。
「会津のほうでは、このまま赤松はんを黒谷はんで埋葬することでした。葬儀の日取りなど、決まったら教えてもらえるように頼んでおきました」
「わかった」
「ほな、報告はこれで」
山崎は素早く報告を済ませて副長室を下がった。
「あ、あのっ、山崎さん…ありがとうございました」
はふらふらと立ち上がると廊下に出て、山崎に礼を言う。
「仕事でっさかい。また新しいことがわかったらすぐお知らせしまっせ」
山崎は暗闇の中でにそう呼びかけ、去っていった。
数日後、金戒光明寺にて、赤松小三郎の葬儀が行われた。
読経が響く中、裃を身につけた影が垂れている。
その中にもいた。
山崎から赤松の葬儀の日取りが伝えられると、土方は自らの仕事を井上や永倉らに振り分け、火急の用事や土方だけが返答しなければならない書状の処理をした。
そして沖田を呼び、の腕を引っ張って、三人で金戒光明寺に足を運んだのである。
は土方と沖田に挟まれるようにして、焼香の順番を待っていた。
赤松の葬儀には出たいと思っていたが、本当に出席できるとは思っていなかった。自身、薩摩に狙われている身であり、余程のことがなければ、屯所の門をほんの少し出るだけでも土方に怒られてしまうのである。
土方が仕事を早く切り上げてくれたこと、沖田を呼んで身辺の警護を万全にしてくれたことを、は深く感謝した。
(赤松先生は、本当に日本のことを思っている方だった)
上田藩にも幕府にも上申書を出し、幕府とは仲の良くない薩摩からの頼みでも断らずに、『英国歩兵練法』の翻訳にちからを貸した。大藩である薩摩が理不尽な要求をしたり、異なった考えを持っていても、日本国のためにときちんと反論できる存在だった。
たちが焼香をする番になった。
は赤松の遺体が収められている白木の棺に目を落とす。
どうか安らかにと、抹香を指でつまんで祈った。
「帰るぞ」
と、土方は自分と沖田の焼香を終えると、またの腕を引いた。
本来は葬儀の後、棺を墓地まで運んで埋葬する。は、土方が最低限の譲歩をしてここまで付き合ってくれたので、埋葬までいるのは諦めようと思い、頷いた。
「すみません、ちょっと厠に行ってきます」
は土方たちに言って、ひとりで厠に行こうとした。
「俺も行く。総司、ここで待ってろ」
土方が提灯を持ち、の後ろに続く。
「はい、いってらっしゃい」
沖田は笑顔でふたりを送り出した。
「あの…黒谷さんならどこに何があるのかわかってますから…」
金戒光明寺は、が英国人のハーバーから英吉利語を教えてもらうために通い詰めた場所である。勝手は知ってるし、何より厠にまでついてこられるのはさすがのも恥ずかしい。
「中までは入らねえよ」
と土方はの頭を小突いた。
はその場から一番近い厠に入り、土方には外で待っていてもらった。
中に入ると先客がいる。
「失礼、奥の扉を使いたいのですが」
とが声を掛けると、
「お前…! 山口か?」
「えっ…た、田代さん?」
薩摩藩邸でともに翻訳に従事した、田代五郎左衛門の声がした。
静寂の中での切羽詰まった声を聞き、すぐさま土方が中に飛び込んできた。
「どうした!」
「土方さんっ」
は掲げられた提灯で土方の姿を確認して安堵する。
と同時に、同じ提灯の明かりで田代の姿があるのも確認した。
空には切った爪のような細い三日月が上っている。月明かりというには頼りない。
「そうか、お前も赤松先生の葬儀に来たのか」
田代はに話しかける。
「、こっちへ来い」
まるで田代の存在を無視して、土方が顎をしゃくる。
「お前誰だ? 山口と今話しているのは俺だぞ」
田代が目をむいて言う。
「新選組副長、土方歳三。テメエこそ誰だ。をこっちへ寄越せ」
土方は落ち着き払った、脅すような低い声で田代を威圧した。
田代は一瞬土方の声にのまれた。
その隙を見逃さず、は田代の脇をくぐり抜け、土方の後ろに隠れた。
土方はを背に庇いながら、すぐに厠の建物から出た。
「山口、聞け!」
田代が追ってくる。
「聞く必要はねえ。戻るぞ」
土方はの腕をむんずと掴むと、走り出した。
「山口、次に狙われるのはお前だ!」
「えっ?」
田代の叫びに、は思わず足を止める。
土方に掴まれた腕のせいで、がくんと体が揺れた。
「それって…どういうことですか…?」
次は、自分?
何故自分が。何故それを田代が。
の頭の中で疑問が渦を巻く。
土方にも田代の言葉が聞こえたようで、足を止めた。
「赤松先生が上田に帰られる予定だったことは知っているか? その挨拶回りで知り合いの家を訪ねる途中、先生は殺された」
ざあっと、寺域の木々を風が撫でる。
「赤松先生は、薩摩の軍事力を知りすぎていた。薩摩には協力しないと、断固拒否された。上田に戻ってその機密をしゃべられても、また京に舞い戻ってきて会津に協力されても困る」
「それって…まさか、田代さん」
田代こそ、赤松について知りすぎている。まさか、と口にしたが、の中ではまさかの続きが確信めいている。
「…先生はこれを撃とうとしていた」
田代が胸元から短筒をちらつかせる。
(やっぱり…!)
は土方の背中にしがみついた。
土方の裃を握った手ががたがたと震える。
「テメエがやったのか」
土方が冷たい声色で田代に聞く。
だが田代からいらえはなかった。
も土方も確信した。
返事がないのが、何よりの証拠だと。
「お前も赤松先生同様、知りすぎている。おとなしく薩摩に来い。今すぐに」
田代が短筒を胸元に押し込め、腰の刀を抜く。
それを見た土方は、裃を素早く脱ぎ捨てて同じく刀を抜き放った。
「土方さん、私を待たせて何楽しいことしてるんですか?」
土方と田代がじりと間合いを詰めていると、のんきな声がした。
「総司、こいつを頼む」
土方が後ろ手にを沖田へと押しつける。
「新選組の沖田か?」
田代は沖田の姿を認めると、急に刀を鞘へと収めた。
土方は油断無く切っ先を田代に向ける。
「隊内最強と謳われる沖田を相手にするつもりはない。山口、悪いようにはせぬ、必ず薩摩に加われ!」
田代は最後まで言うか言わないかのうちに、走って闇に紛れた。
「総司、赤松殺しの下手人だ! 追え!」
土方が叫ぶ。
「はい!」
同時に沖田は田代を追って駆けだした。
はただ呆然と立ち尽くしていた。
赤松の死すらまだ受け入れきれていないのに、その犯人が田代だなんて。
あんなに苦労を共にしたのに、どうして命を奪うなど。
(それに、自分が次に狙われているなんて)
この時代の人間ではない自分に、そんな価値など無い。
土方たちに守ってもらわなければ、屯所から一歩出ることすらも出来ないというのに。
少しして、沖田が戻ってきた。
「すみません、ハア、見失っちゃいました、ハア」
沖田は息を切らして謝罪する。
「お前も相手も提灯持ってねえんだ、この時分なら仕方ねえだろ」
土方がこともなげに言う。
「あいつが誰なのかはこいつに聞きゃあいい。、落ち着いたか? 厠に行ってこい。今なら誰もいねえ」
「はい…」
土方に促され、は厠に入った。
今度こそ、本当に誰もいなかった。
念のため確認してから個室に入り、扉を閉める。
だが、用を足す気にはなれなかった。
「う…」
田村が赤松を殺した。
次は自分が狙われている。
その事実がに吐き気をもたらし、は息が詰まった。
「すみません…たいへんお待たせしました…」
吐いて体力を使ってしまったは、よろけながら厠から出てきた。
「、さん。大丈夫ですか? 長かったから、心配、してたんですけど」
「ええ。沖田さんこそ…」
まだ沖田は息が上がっている。だいぶ時間が経ったはずなのに、とは首を傾げた。
「普段の修練が足りねえんだよ、二人とも。ほら、行くぞ」
土方がきびすを返し、さっさと歩き出す。
も沖田もやや駆け足で土方の後を追った。
やがて田代の忠告は現実のものとなり、は追い回されることとなる。
そして、赤松やだけでなく、他の人物も狙われ始めたのであった。
20120503