久遠の空 ドリーム小説 鬼が辻 32

鬼が辻

update:2011.04.14

鬼が辻 32 

 新選組が幕臣取立の内示を受けた二日後。
 京都の東、豊臣秀吉の妻・ねねが晩年を過ごした高台寺の塔頭である月真院で、伊東甲子太郎が顔をしかめていた。

 伊東の前には四人の男が土下座をしている。
 佐野七五三之助、富川十郎、茨木司、中村五郎。
 新選組からこの月真院まで走ってきて、息を切らしていた。

 「君たちは何て事をしてくれたんだ…」
 伊東は深く溜息をつく。
 「新選組と我々の間で、隊士の異動は禁止している。近藤局長とそう取り決めをしたんだよ」
 「そんなことは承知しております!」
 佐野が汗を飛び散らせながら叫んだ。
 「しかしながら、幕臣となることだけはどうしても我慢が出来ませぬ! 伊東先生、どうか我々を御陵衛士に加えてください!」
 その声とともに、再び蛙のようにべたりと畳に頭を擦り付けた。
 「お願いします!」
 隣に座っていた富川も必死の嘆願をする。
 茨木と中村は戸惑った様子だが、やはり同じく頭を下げた。

 伊東は秀麗な眉を寄せ、迷惑そうな顔を隠そうともしない。
 (この大事な時に…せめて駆け込んでくるのがであったなら…)
 扇子を広げ、伊東はその影で小さく舌打ちをした。






 時は数日前に遡る。
 伊東ら御陵衛士はまだ五条の善立寺に居を置いていた。
 その善立寺に、薩摩の田代五郎右衛門がやってきた。

 「お前たちに、高台寺塔頭月真院への移転を提案しに来た。薩摩藩から金も出してやろう」
 田代は客間にしている部屋に通されるなり、切り出した。
 「誠ですか?」
 伊東は目を丸くした。


 新選組から独立はしたものの、伊東たちには金がなかった。
 御陵衛士という任務に就くことで幾ばくかの給料は出ていたが、全員がやっと食べていける程度の金額しか出ていなかった。

 今や肩で風を切って歩く新選組。幕府の信頼も篤く、黙って務めていれば食うに困ることはない。しかも巨大な屯所までまもなく竣工するのである。
 そこを飛び出ていきなり尊皇倒幕を掲げても、はいそうですかと彼らを助力してくれる者は誰もいなかった。
 それでもの口利きでこの善立寺を薩摩に用意してもらい、何とか糊口をしのいでいた。

 伊東も、どうにかせねばならないとは思っていた。
 このままでは仲間を増やすことも出来ないし、活動を広げることも出来ない。
 「俺が行って、調達してきますよ」
 と藤堂が、豪商からの貸付を申し出てきたこともあった。
 「新選組だってさ、まだ壬生浪士組だった頃からそうやって活動資金を借りてたんだ。まず最初は借りて、後々に返していけば」
 「いや、駄目だ」
 伊東は首を横に振った。
 「君の申し出はありがたいが、例え不自由を強いられようと、そんな押し借りのような真似はしたくない。僕たちは道理の通らない野蛮人とは違うんだ」
 「伊東先生…」
 本当は活動のためにも、金は喉から手が出るほど欲しかった。だが、伊東の矜持がそれを許さなかった。

 今よりも御所に近い四条の月真院に転居し、活動資金も入る。
 伊東にとって、喉から手が出るほど欲しい条件だった。
 薩摩にとうとう自分たちが認められ、ともに活動する日が来たのだと、伊東は田代の話に乗ったのだった。


 ところが、うまい話には何かが必ずある。
 すぐに移転が行われ、伊東たちが月真院に荷を解くなり、それは持ち出された。

 「を、新選組から連れ出してこい、ですと?」
 思わず伊東は腰を浮かせた。
 他の衛士たちからもざわめきが起こる。

 「そのような条件、おうかがいしておりませんが…」
 「今初めて言ったからな」
 困惑する伊東をよそに、田代は堂々と言い放つ。

 「山口を薩摩藩邸に連れてくるのだ。あやつの英吉利語をあやつる能力は、薩摩藩にこそふさわしい。古くさい幕府に与している新選組になど、置いておいて何の価値がある?」
 「し、しかしながら…新選組からを引き抜くのは無理かと…」
 さしもの伊東もしどろもどろになる。
 は常に土方の側におり、土方の側を離れるつもりはない。
 それに、新選組から籍を抜くことは死を意味している。御陵衛士が分離するのだって、権力を行使してやっと穏便に済ませたところなのだ。
 よしんばを新選組から奪い取ったところで、追っ手が差し向けられて殺されてしまっては意味がない。

 「伊東、貴様、誰のおかげでこの月真院に移転し、金まで与えられたと思っているのだ!」
 どん、と田代は背にした床柱を叩く。
 みしり、とどこかが小さく軋んだ。

 「よいか、山口を早急に薩摩藩邸に連れてこい! さもなくばこの月真院を出て、どこへなりへと行くがよい! もっともそうなって御陵衛士を降りれば、新選組とて黙ってはおらんだろうがなあ」
 田代は口の端をつり上げた。

 「お待ちください、田代殿」
 伊東の後ろに控えていた斎藤が膝を前に進めた。
 「何だ、貴様は」
 田代は初めて見る顔に怪訝な様子を示す。
 「伊東先生の元、御陵衛士を務めております斎藤一と申します」
 斎藤は深々と頭を下げた。

 「山口のことでご提案があります。実は、自分は山口の従兄弟でございまして」
 「ふむ」
 のことと聞き、田代は激情を引っ込めて斎藤に耳を傾けた。

 「山口は新選組副長の土方歳三の小姓で、たいへん気に入られております。土方が山口を手放すのは難しいでしょう。そこで従兄弟の自分が山口に働きかけて山口自身が抜けたいと思うようにしむけ、同時に土方にも円満に山口を引き渡してくれるよう交渉したいと思いますが、いかがでしょうか」
 「そうか! 斎藤君ならばも説得できるだろうし、土方君も話を聞いてくれるかもしれない。それはいい考えだ!」
 斎藤の提案に、伊東は目を輝かせた。

 「それでは時間がかかりすぎるのではないか? それに山口が貴様の説得に応じるかも疑問だ」
 田代がじろりと斎藤を見る。
 「よいものを手に入れるには時間がかかることもございます。無理をしてあやつを連れ出し、新選組から脱走者として始末されては元も子もありますまい。やはり本人が心を入れ替えるよう諭すのが一番かと」
 斎藤はいつもと変わらぬ、平坦な視線を田代に返した。

 「貴様の言うことも一理ある。ではしばらく待つことにしてやろう」
 田代は立ち上がり、月真院を出て行った。



 濁った水の中で息をしているような場から解放され、伊東は深く息を吸い込み、吐き出した。
 「まさかあんなことを提案されるとは思わなんだ。ありがとう斎藤君、君のおかげで助かったよ」
 汗を拭いながら伊東が斎藤に笑顔を向ける。
 「ああでも言わなければ引き下がらなそうでしたからな」
 と斎藤は涼しげな顔で答えた。

 「しかし、いいのかい? のことを君に任せて」
 伊東が聞く。
 斎藤はと従兄弟の間柄ではあるが、果たして説得など、土方を含めて出来るのだろうか。
 「お任せください。あやつ一人ならば何とかなりましょう。それに自分が御陵衛士に本心から加わった証を立てる機会でもありますゆえ」
 そう言って斎藤は部屋を後にした。

 「兄上…いえ、伊東先生」
 伊東の弟である三木三郎が声を掛ける。
 実の兄弟ではあるが、この時勢に肉親の情など不要と、伊東のことをあえて先生と呼んでいる。
 「本当に、斎藤などに任せて大丈夫なのでしょうか。山口との肉親の情に負けてしまったり、土方にも重宝されていましたから、寝返ったりなどしませんでしょうか」
 「黙れ三木! 斎藤君ならきっとやってのける。彼は土方君にも重宝されたほどの有能な男だ。それに隊の法度についてもよく知っていて、自分の手下を始末したりもしていた。一度こちらに与した身で新選組へ戻るなど出来ないと、一番わかっているのは斎藤君自身だよ」
 ぴしゃりと伊東が言うと、三木は申し訳なさそうに巨体を小さくした。

 (果たして斎藤君が目論んだように、ひとりならばどうにかなるとは限らないが…今は斎藤君に託すのがもっともいいだろう)
 伊東は自分が直接新選組に出向いて頼むのは無理なことだとわかっている。近藤との間に結んだ、隊士たちの移動禁止に抵触するからだ。が自ら志願してくるのが四方八方穏便に済む方法である。

 それに、三木のように、新選組で特に土方に用いられていた斎藤がころっとこちらに転がり込んできたのを怪しむ者もいる。
 (厳しいが、ここはひとつ、斎藤君に頑張ってもらうしかない)
 伊東はのことを斎藤に託すことにした。





 ここで時を元に戻す。
 を新選組から穏当な手段で引き抜くためには、新選組との関係を悪化させないことが肝要である。
 (それなのに、こやつらは…)
 伊東は己の眼前で土下座を続ける四人の髷を見下ろし、また溜息をついた。
 脱走してきたこの四人を受け入れることは出来ない。絶対に、だ。
 (どうにかしてこやつらが、御陵衛士に加わるのを諦めてもらわねば)
 広げた扇子の裏をじっと見つめ、伊東は考えを巡らせる。

 「伊東先生…どうか…!」
 佐野と富川は頭を深く垂れたままである。
 てこでも動かぬとはこのことかもしれない。

 「伊東先生、私に考えがあります」
 茨木が申し出た。
 「会津藩に直接、離脱を頼んでみます。会津藩からの許可があれば、局長とて否やとは言わないでしょう」
 「直接…?」
 伊東はぱちんと扇子を閉じ、また開く。

 「どうか私にやらせてください。伊東先生直々に新選組の中で先生の真意を浸透させるお役目をいただいておきながら、この二人を押さえきれませんでした。責任は私にあります」
 「茨木! お前のせいではない! すべては幕臣取立を受けた近藤のせいだ!」
 「そうだとも! お前とて幕臣になどなりたくはないだろう? まだ内示のうちに御陵衛士に入らねば、正式に通達が来てからではもうどうすることも出来ぬぞ!」
 茨木、佐野、富川が口々に自分の意見を述べる。ただひとり、中村だけが何も言えずにおろおろしていた。



 結局、四人は会津藩に新選組からの脱退をうかがうことになった。
 もう気持ちを決めている以上、西本願寺の屯所には戻れないと佐野と富川が言い張ったため、伊東は西本願寺の隣にある興正寺に泊まれるよう、西本願寺の住職に書状をしたためてやった。それぐらいしか、今の伊東にはしてやれることがなかった。
 四人はその書状を携えて西本願寺にこっそりと戻り、息を潜めるように興正寺に泊まった。


 その夜、同じ敷地内の新選組屯所。
 副長室に佐野をはじめとする四人の不在の報がもたらされた。
 「わかった。山崎と沖田を呼べ」
 土方の声が鋭く響く。
 すぐに山崎と沖田が副長室へ現れた。

 「佐野七五三之助、富川十郎、茨木司、中村五郎。以上四名が屯所から姿を消し、門限を過ぎても戻っていない。山崎はすぐに四名の行方を追え」
 「承知いたしました」
 「沖田、お前は待機だ。俺が呼んだらすぐに出られるようにしておけ」
 「承知」
 二人はすぐに頷き、それぞれ散っていった。

 (まさか、集団で脱走…? ひとりずつの脱走なら今までにもあったけど、今度は複数で…)
 は急に張りつめてきた空気を感じ取り、背中が冷たくなる。

 幹部でない以上、届けもなく門限を過ぎて戻ってきていないということは、“局を脱するを許さず”に抵触する。
 つまり、切腹だ。

 「局長室へ行ってくる」
 土方は立ち上がり、部屋を出ていった。表情は険しかったが、やれやれなどと小さくつぶやいていた。
 (脱走は切腹と決まっているし、もう脱走して処断されている隊士もいるのに)
 なぜ、脱走なんて。
 は繰り返されるであろう処断を想像し、胸に重たく暗いものが満ちるのを感じた。


 翌日、佐野たち四名は会津藩が詰める京都守護職屋敷に姿を現す。
 そして必死の頼み込みで公用方の小野権之丞と面会し、茨木が新選組からの離脱を懇願した。

 しかし、会津藩では当然許可しない。居所をつきとめた山崎が佐野ら四名に面会を求めた。
 山崎は四名と相対して座り、話を聞いた。
 だが彼らの意志は固く、どうしても抜けるの一点張りで、宥めてもすかしても駄目だった。

 彼らにしてみれば、もう後にはひけない。
 会津藩にとりなしてもらって御陵衛士に入るしかない。
 新選組に戻ったところで、脱走の罪で詰め腹を切らされるだけなのである。

 そして、事態は最悪の展開を迎える。
 六月十四日、佐野七五三之助、富川十郎、茨木司、中村五郎の四名は、一晩泊めてもらった守護職屋敷の部屋で命を散らした。
 朝は守護職屋敷の小者が朝を告げに部屋に入ったところ、こときれた四人が血の海に沈んでいた。

 「ひっ…」
 屋敷の小者は腰を抜かして廊下にしりもちをつく。
 その中心に、全身を赤く染めた男が一人立っていた。
 「驚かせてすみません。新選組一番隊組長、沖田総司と申します」
 沖田は懐から紙を引き抜き、刀の血を拭って鞘に収めた。



 屯所に戻った沖田は、身を清めて着替えると局長室へ報告に出向いた。
 局長室には近藤、土方、他の幹部の面々、そしても会議の内容を書き留めるために座していた。

 「局中法度“隊を脱するを許さず”に照らし、四名を処断いたしました。佐野、富川は手向かいしてきたので斬り捨てましたが、茨木、中村は武士として潔く腹を切ったので、私が両名の介錯を行いました」
 沖田は凛とした声で、淡々と事実だけを述べた。

 「総司、ご苦労だった」
 近藤は厳しい顔で報告を聞いたが、声には落胆が混じっていた。
 「組長は組下の者によく言い聞かせておけ。脱走の罪には死あるのみだ」
 土方が低い声で告げると、組長たちは緊張を漲らせて頷いた。



 いくつかの連絡事項もついでに言い渡され、会議は解散となった。
 皆が出て行くのでが部屋の障子を開くと、そこに神谷が立っていた。

 「神谷さん…」
 「お、沖田先生、中村が、本当に…?」
 神谷は大きな目に涙をいっぱいに湛えている。
 沖田はふっと笑うと、神谷の肩に手を置いた。
 「…ええ、立派な最期でしたよ。脱走するつもりはなかったけれども、抜けたい佐野さんたちと行動をともにし、止めることも出来なかった。こうなった以上、伊東先生にも近藤先生にも迷惑がかかるのは必至だから、あなたを頼むと言って」
 「そう、です、か」
 神谷は歯を食いしばる。
 その背を沖田がそっと押し、二人は廊下の闇に消えていった。



 「…もう本当に、これきりにしてもらいたいものだな」
 近藤が深く溜息をつき、こめかみを押さえる。
 「馬鹿は死ななきゃ治らねえんだよ」
 土方は腕を組み、に向き直った。
 「、清めの酒と、光縁寺へ葬儀の手配を頼む」
 「かしこまりました」
 は返事をすると、まず酒の用意をしに賄い方へ向かった。



 賄い方に沖田と神谷がいた。
 「あ、さん、お酒ですよね。用意してありますよ」
 真っ赤に泣きはらした目で神谷が笑う。

 局長室の前から姿を消した後、神谷は沖田とすぐにここへ来たのだろう。
 少し前ならきっと土方に、助けられた命であろうとくってかかったに違いない。だが神谷は大勢の前で取り乱さず、沖田と二人、密かに同志であった者たちの死を悼んだのだ。

 (これが、この時代なんだ)
 杯と徳利を受け取りながら、は時代の厳しさをまたひとつ胸に刻み込んだ。



 20120413