鬼が辻 30
西本願寺の集会所前。
隊士たちが筒袖に裁着袴ーーつまり、袖の袂を切って短くした上着に、脛の部分を脚絆にした袴ーーを身につけて、直立不動の姿勢で汗をたらしていた。
「右向け、右!」
鋭い声が飛び、隊士たちがざっと音を立てて右を向く。
「肩へ、筒! 全員前へ、五歩進んで止まり、覆へ、筒!」
土埃を上げ、男たちが一糸乱れぬ歩調で動いた。
「いや、見事見事」
会津藩から洋式調練の様子を見に来た公用方の外島機兵衛は、新選組隊士たちの動きを見て満足そうに大きく頷く。
「これほどまでになるとは、壬生狼と呼ばれていたのが嘘のようだな」
「恐れ入ります。すべてはこの山口君が取り仕切ってくれておりまして」
局長の近藤がに視線を移す。
「皆さんの飲み込みが早いので…」
は軽くおじぎをした。
「ほほう、我が藩の講師が来た時にはてこずったのにな」
外島が笑う。
も釣られて笑いながら、この訓練をはじめた時のことを思い浮かべた。
は忠告に従い屯所から一歩も出ないようにしていた。
午前は隊士たちの回診を手伝っていたことは前回のとおりで、午後は土方に申し出て、『英国歩兵練法』の内容を隊士たちに教えていた。
副長の後ろにひっそりと控え、ろくに剣術の稽古にも顔を出さない、文官のたぐい。手持ちの短筒の扱いがせいぜい。
誰もがそう思っていたが兵法を教えることに、皆が驚いた。
かつて会津藩邸から洋式調練の講師が来て新選組に訓練を授けたことがあった。
しかしその講師は新選組を会津の下部組織と完全に見下げていて、
「某の言うた通りに動けばよいのだ!」
と高圧的な態度だった。
新選組の隊士たちも、はじめは会津藩邸からの講師だからと我慢していたが、調練の内容も気に入らず、講師が来てもまともに身についていなかった。
どうせも会津藩士であるし、たいした訓練も出来ないのだろう。
訓練の初日、集会所の前庭に集まった平隊士たちは、めんどくさそうに影を揺らしながら立っていた。
は集会所の階段を下り、隊士たちの前に姿を現した。
「これから英吉利式の調練を行います。皆さんがこれから会得しようとしている調練は、外国も含めた最新の調練です。夷狄がやってきても対等に渡り合えることでしょう。よろしくお願いします」
細い体を折り曲げ、はぺこりと頭を下げた。
副長の小姓が言うことだし、そこそこはやっておかないとまずい。
隊士たちはやる気がなくとも、の説明を聞いて訓練を受け始めた。
ところが動きはのろのろとしている。
「止まってください。あの…」
が手を叩いて皆の動きを止め、列の前に立った。
皆はの顔を見ると、一様に表情を凍り付かせた。
「…死にたいんですか?」
が、今までに見たこともないほど険しい顔をしている。
まるで副長が取り憑いたかのような、冷たい空気を身にまとっているようにすら見える。
「いいですか、本物の戦場だと思ってやってください。今みたいな動きでは駄目です。もう一度」
静かながらも息苦しいほどの圧力を感じ、隊士たちは震え上がった。
は、ひとつひとつの動作の必要性を、自らが行って説明した。
そして、黒船や大砲、長州や薩摩とイギリスの戦争についても、その状況を語った。
対抗するには同じか、それ以上の軍事力を身につける必要があるとは説いた。
わかりやすい方法で、押しつけがましくなく、最新の調練を教えてくれる。
皆がの調練を真面目に受けるようになった。
隊士のほとんどは戦うための肉体が出来ているほうであるし、戦で勝つことを考えたら、だんだん面白くなってきたらしい。
瞬く間に新選組の平隊士たちは、の調練を身につけていったのである。
は真剣だった。
今まで屯所で見てきた新選組の稽古では、あの洋式の軍隊には勝てない。
洋式の兵器を持ち、戦術を身につけている薩摩と戦うことになったら、新選組が全滅してしまう。
たかが百数十人の軍隊かもしれない。
歴史の波に飲み込まれるだけかもしれない。
(それでも…私は守りたい)
得体の知れない自分を匿ってくれた新選組を、土方が大事にしているこの組織を。
は拳をぐっと握った。
「よいものを見せてもろうたわ」
局長室に戻った外島は、冷たい茶を啜った。
「して外島様、守護職邸の皆様はいかがでしょうか。やはり江戸の藩邸に戻られるのですか?」
近藤が汗を垂らしながら聞く。
京都守護職を務めている会津藩は、藩ぐるみで京都からの撤退を申し出ていた。
もう京都の混乱にこれ以上関わりたくない。藩の出費も相当な額になっている。
藩主であり守護職に就いている松平容保を何とか江戸の藩邸に帰らせようと、摂政の二条斉敬にまで話を持って行っていた。
「ああ、その話だが、結局は無くなった。幕府にも朝廷にも、摂政の二条様にも申し出て却下されたし、朝廷が肥後守様を参議に推任したのだ。これでまた我らは、しばらく京から離れられまい」
外島は軽く溜息をついた。
「まだまだ我らも、守護職様の下で働くことが出来るのだな」
外島が帰った後、近藤は上機嫌で土方に話しかけた。
「まあ、そうだな」
土方は扇子で自分を扇ぎながら答える。
「新しく広い屯所を建ててもらって、そこそこの給料ももらって、これからも守護職様の下部組織として働ける。結構なこった」
「おいおい、あんまり嬉しそうじゃないな。どうかしたのかトシ」
近藤が、感情のこもらない声色で続けた土方を覗き込む。
「何でもねえよ。おい、茶のおかわり持ってこい」
土方は近藤から視線を外すと、に茶を言いつけた。
「はい」
は近藤と土方の茶碗を盆に載せると、賄い方へ向かった。
(何でもない…か。あると思うんだけど)
はやかんを傾け、冷ましてある茶を茶碗に注いだ。
伊東甲子太郎と数名が御陵衛士として抜けてから、三月が過ぎようとしていた。
動揺はだいぶ収まってきたが、やはり新選組にはいたくない、伊東の元に行きたいと思っている者も少なくない。
が知っているだけで、脱走の罪にて処分された隊士は二人に増えている。
すでに土方は監察を使い、誰がその後に続きそうなのか目星を付けているふしがあった。
(きっとそのことを思い悩んでいるはずなんだけどな、土方さんは)
土方は、事がはっきりするまで近藤には言わないつもりなのだろう。
誰も続きませんようにと祈りながら、は局長室へと戻っていった。
近藤と土方に茶を出すと、は副長室へ戻った。
「あ、さん、戻ってきた!」
「沖田さん」
沖田が座っていた。
「久しぶりに甘いものを食べようと思って買ってきたんです。今日は神谷さんがいないし、一人で食べるのは寂しいから、さんに付き合ってもらいたくて」
沖田がにこにこと笑いながら言う。
(ああ、そうか。神谷さん、昨日からお馬で外泊中なんだ)
は昨日、神谷が生理による貧血で青白い顔をして屯所を出て行ったのを思い出した。
「ね、早く食べましょう」
沖田が持参した風呂敷を広げると、色とりどりの菓子が広がった。
「ありがとうございます。じゃあお茶を持ってきますね」
まだやかんの中には茶が残っていたはずだと、はもう一度賄い方へ足を運んだ。
沖田はあちこちの店から菓子を買い集めたようで、は選ぶのに困ってしまった。
「どれでもいいでフよ」
すでに口いっぱいに菓子を頬張りながら、沖田が勧める。
「じゃあ…これいただきます」
は小さな箱に詰められた落雁をひとつ、口の中に入れた。
落雁は甘く、なめらかに溶けた。
「おいしいです」
は沖田に笑顔を向ける。
「遠慮しないでたくさん食べてくださいね」
沖田が風呂敷をずいっとのほうに押し出した。
「あの、さん」
と急に沖田が居住まいを正した。
「この前はすみませんでした。心配してくれたのに」
「この前…?」
何のことだろうと、は首を傾げた。
「小花さんのことで、私が血塗れで帰ってきた日ですよ。集会所の前で“放っておいてください”って言ったでしょう?」
「あ、あの時」
沖田の言葉では思い出した。
「神谷さんから…少しだけお話しを聞きました。今更ですけど、ご愁傷様でした」
は菓子の山から手を引っ込める。
「いいえ。もう済んだことですし」
沖田は苦く笑う。
「神谷さんがね、“さんがすごく心配そうな顔をしてたからしゃべっちゃいました。心配かけたんだから、ちゃんと御礼しておかなきゃ駄目ですよ!”って言われまして。ああ、本当は甘味処に連れて行ってきちんとごちそうしたかったんですけど、土方さんがさんを外へ出すなって言うから」
「それでお菓子を?」
はふふっと笑った。神谷の姿が目に浮かぶようだった。
「ええ、神谷さんに相談したら、“じゃあ甘い物を買ってきて渡せばいいじゃないですか”って」
「そうですか」
「神谷さんには、さんの分まで食べないように釘を刺されましたよ。ひどいなあ、私だって御礼のものに手を出すほど野暮じゃないつもりなんですけどねえ」
と沖田が口を尖らせた。
はもう一度、菓子の山を確認する。
京の内に広がる、様々な甘味の店から買ってきたようだ。
「もう少ししたら夕餉になりますから…これだけいただこうかな」
は飴の袋を開け、一粒だけ取り出した。
「ああ、それ、神谷さんも大好きなやつですよ」
沖田が落雁を次々に口へ放り込みながら言った。
は飴を口の中に入れる。
「おいしいでしょう? 神谷さんもお気に入りなの、わかりますよねえ」
沖田が満面の笑みで聞く。
「沖田さん…さっきから、神谷さんのことばかり言ってません?」
は思ったままを口にした。
「な、そ、そんなことっ、ゴホッ」
沖田はの何気ない一言と落雁の粉でむせた。
「大丈夫ですか?」
は沖田の背をさすってやる。
「ゴホ、すみません、ゴホゴホ」
沖田は涙目になりながら謝った。
「う、ゴホ、止まらない」
沖田の咳はなかなか止まらない。
「そんなにいっぺんに入れるからって、神谷さんに怒られますよ?」
咳が長すぎると思いながらも、沖田が大量の落雁を食べていたのでそのせいかとは思った。
慶応三年、六月十日。
近藤と土方は裃を着けて、二条城へ出向いた。
「新選組。その方らを、幕臣取立とする」
広い部屋に、朗々とした声が響く。
「ありがたき…幸せにございます!」
近藤の声が喜びに震えた。
新選組が、とうとう幕臣として認められたのである。
それがすぐに大惨事を引き起こすことになろうとは、この時誰にもわかり得なかった。
20120329