鬼が辻 29
の元に、薩摩藩の田代から書状が届くようになった。
薩摩の軍門に下り、ともに日本国の未来のために働こうという内容である。
は断りの返事を書こうとしたが、土方に、
「返事を書く必要はねえ。不要な接触をするな」
と止められた。
を薩摩が勧誘しようとしている。
道端でひょっこり出会ってしまったら連れて行かれてしまうかもしれない。
は土方をはじめ、周りの人間からの助言通り、屯所でおとなしくしていた。
いや、おとなしくというのは正確に言えば違う。
朝は会津藩の御典医・南部精一郎の回診を手伝い、昼は組の洋式調練を手がけているのであった。
朝の回診では南部と並んで座り、隊士ひとりひとりの健康を帳面に書き付け、南部の指示で薬を出したり傷口の手当をする。
隊士たちには、の看護は人気があった。南部やたまにやって来る松本良順のように、いかにも医者といった風情の男たちに診られるよりは、どことなく中性的な雰囲気で、手つきも柔らかなに手当してもらうほうがいいと、密かに話をしている。
自身はそのようなことはつゆ知らず、南部の的確な西洋医術の診察と治療技術を目に焼き付けていった。
「ほらっ、沖田先生、早く早く」
「押さないでくださいよ、神谷さん」
次々と現れる隊士たちの終わりに、沖田がやってきた。神谷に背中を押され、渋々といった風である。
「おはようございます沖田さん。どこか心配なところはありますか?」
南部が細い目をますます細めて聞いた。
「別にどこも」
沖田は答えながら南部の前に座り、着物の前を開く。
「ずいぶん気落ちしているようですが、心配事でもおありで?」
「…大したことではありません」
南部に問われて沖田は一瞬体を強ばらせたが、すぐに苦い笑みを浮かべて緊張を解いた。
松本に初めて診察された時に、松本の毒舌を笑顔で受け止めていた沖田が、自分を作りきることが出来ずにいる。
は松本から「沖田はたいした奴だよ」と豪快な笑いとともにその話を聞いたことがあった。
その沖田がこんな様子である。
は沖田に黒い影がまとわりついているように感じた。
「そうですか。でも病は気からと申しますから、いつまでも落ち込んでいてはいけませんよ。気晴らしになることを何かされるといいでしょう」
南部は沖田の診察を終え、聴診器をしまった。
沖田は鬱々としていた。
食事もあまり取らず、神谷が気づくと屯所のどこかに一人でいることが多い。
だが、かろうじて隊の任務にはいつもと同じく鋭い視線を取り戻していた。
出動がかかれば、どんな任務であろうとすぐに一番隊をまとめ、西本願寺の門を飛び出していく。
そう、それがどんな任務であっても揺るがない。
新選組一番隊組長の名は伊達ではなかった。
「脱走者だ。捕縛してこい」
土方は、呼び出した沖田が副長室に入るなり告げた。
「相手は」
すっと沖田は目の色を凍らせる。
「六番隊の田中寅三だ」
「六番隊…じゃあ源さんの隊の」
「そうだ。六番隊と一緒に行け。潜伏場所は寺町の本満寺だ。監察が門前で見張っている」
「承知」
必要な連絡だけを土方から受けると、沖田は足早に副長室を出て行った。
「沖田さん、大丈夫でしょうか」
は一番隊の出動を帳面に書き留めると土方に問うた。
任務だからと沖田は豹変したが、あの気落ちっぷりは尋常ではない。
「大丈夫もクソもねえ。仕事をまっとう出来ないなら一番隊の組長なんざクビだ」
土方はふんと鼻を鳴らしてに背を向けた。
は廊下に顔を出し、沖田がしゃんと歩いているか確認しようとした。
沖田の姿はとうにの視界にはなく、その代わりに一番隊の面々がどたばたと、集会所の前庭に降りていくのだけが見えた。
「余計な心配はするな。暇なら茶でも持ってこい」
土方が言い放つ。
「は、はい」
は立ち上がり、そそくさと台所へ向かった。
脱走者の田中寅三は、監察の通報通り、本満寺にいた。
沖田の一番隊と井上の六番隊が寺の周りを包囲し、すぐに捕まえることが出来た。
「伊東先生の元へ行くつもりでした」
捕まった田中は近藤と土方の前に引き出されると正直に述べた。
隊を抜け、御陵衛士に入ろうと試みたのだ。
「黙って隊を抜けることは禁じられている。そして、新選組から御陵衛士に加わることも許されていない。それをわかっていての所行なんだろうな」
土方が問いつめる。
田中は頷いた。
「君の行いは法度に背くものである。従って…」
近藤が苦い顔を隠そうともせずに言った。
「腹を切る覚悟は出来ています、局長。伊東先生の元へ行くことが叶わぬのなら、この命はもはや不要!」
田中は後ろ手に縛られたまま近藤と土方を見据えて叫んだ。
あまりにも真っ直ぐすぎる、田中の視線と声。
は局長室の隅でぞくりと身を震わせる。会話を書きとっている筆が紙の上で踊った。
田中の切腹はすぐに実行された。
組長である井上の介錯で、田中は逝った。
御陵衛士へ合流しようとすればこうなる。
土方の命令で屯所にいる全員が処刑の場に立ち会わされた。
見せしめ。
それ以外の何物でもなく、辺りには血の匂いが重く垂れ込めた。
(田中さんのあの目…)
は清めの杯を用意しながら考える。
(もともと伊東参謀の元には、参謀を狂信的に崇めている人たちが多かったな…でもその全員が御陵衛士として連れて行かれたわけじゃない)
組の中にはいまだに伊東のことを慕っている隊士がいる。
(まだ組の中にいるのだろうか。田中さんのように、法度に触れてでも伊東参謀の元へ行きたいと思っている人が)
「お待たせいたしました」
は杯を土方に勧める。
土方は黙って杯をあおった。
「…まずい。もっとマシな酒はなかったのか」
土方が顔をしかめる。
「すみません」
は土方から杯を受け取った。
(もし御陵衛士に加わろうと考えている人がいたとしても…田中さんの切腹を見て考え直してくれればいいんだけど…)
は自分の杯に酒をほんの舐める程度に注ぎ、土方と同じようにぐいっと一気に飲み干した。
土方が言うように、まずかった。
どこもかしこも陰気臭く見えたせいかもしれなかったが、酒はあざ笑うかのようにの喉を焼いて、胃に滑り落ちていった。
が酒を片づけて台所から戻ってくると、しばらくしてから副長室に沖田が来た。
「私を罰してください」
座るなり沖田は申し出た。
「何故に」
と土方が問うと、沖田は小花の件を語り出した。
小花の最期の望みから、抱いて欲しいとの切望から逃げた。怖くて逃げた。それを士道不覚悟とし、自分に罰を与えて欲しいと。
は沖田の話に息をのんだ。
神谷から事件の上澄みだけを聞かせてもらっていたが、沖田がここまで思い詰めていたなんて。
いかなる状況であろうと恐怖を感じて逃げるなど、士道不覚悟以外何物でもない。
昼行灯と言われるほど暢気な顔を見せることはあっても、武士の道にはこれほど厳しい思いを、沖田は抱いているのだ。
さわりと。
副長室の障子の外で微かな衣擦れの音がした。
「誰かそこにいるのか」
土方が誰何する。
は同時に障子へ駆け寄り、懐の銃に手を伸ばした。
「もっ、申し訳ありません、神谷です」
「神谷さん?」
障子を開くとそこに神谷がいて、土方宛の手紙を掲げていた。
沖田は顔色を変えた。
「総司、お前に罰をくれてやる。今から神谷を連れて島原に行け」
ふと思いついたように、土方は言った。
神谷は女あしらいにたけているから、女を知るために引き回されてこいとのことだった。
「女が怖いなんてのはな、場数が足りてない証拠なんだよ。だからさっさと行ってこい」
土方は、かなり嫌そうに口元を曲げる沖田と神谷を障子の外にぽいっと放り出してしまった。
仕方なさそうな足音がふたつ、副長室から遠ざかる。
(女性に対して恐怖心を持ったところで島原なんて…)
は荒療治にも程があるのではないかと思ったが、それを土方に訴えたところで、また「いらぬ心配」と言われてしまうのがわかりきっていたので口を噤んだ。
「顔に出てるぞ。荒療治なんじゃねえかって」
土方がすぐ近くに寄ってきていた。
「えっ」
は反射的に両手を頬にあてる。
土方はくつくつと笑った。
「まあ、荒療治は荒療治かもしれんが、あいつはまだまだガキだ。特に女に関しては脆すぎる。ここらで一丁揉まれてみるこった。これからも一番隊の組長を務め続けるためには、な」
「…え? じゃあ土方さん、沖田さんを突き放したんじゃなくて…成長させるために?」
昔、沖田は近藤の妻の侍女に思いを打ち明けられ、修行中の身だからと拒否したら目の前で自害されそうになったことがある。そして今、小花の死に取り憑かれている。
そうなってしまったのは、土方の論で言えば、女性に対する経験が足りないから。
どうすれば女性との間で最悪の場面を迎えずに済むのか、もし迎えてしまったとしても、どうすれば心の整理がつくのかに対する経験が、沖田に必要なのだと、土方は判断したのだろう。
そして、信じているからこそ沖田を送り出したのだろう。
必ず沖田が乗り越えてくると。
これからも一番隊の組長で在り続けるために、きっと心の整理をつけてくることが出来るのだろうと。
「へえ…さすがに場数を踏んでいらっしゃる方ですね」
は心底感心して、素直に言葉を紡ぐ。
「まあな」
土方は得意そうに唇をつり上げた。
「お前にも教えてやろうか」
土方の手がの肩にかかる。
「何をですか?」
はきょとんとして土方を見上げた。
「場数を踏んでる俺が、男についてお前に教えてやるっつってんだ。どうせその様子じゃ、お前も男のあしらいなんざ知らねえんだろ」
土方はの顎に手をかけ、顔を近づける。
「遠慮申し上げます」
唇に吐息がかかる寸前に、は手を自分と土方の間に差し入れた。
翌日の朝、沖田と神谷は屯所に戻ってきた。
土方の命令で他出していたので外泊違反にはなっていない。
「二人とも飲み過ぎです」
副長室に来るなり頭が痛いとぼやきだした沖田と神谷は、が医学的判断を下す必要もないほど明らかな二日酔いであった。
しかし沖田から感じていた黒い影はすっかり消えていた。
神谷が沖田を引き回して何をしたのか、沖田がどのようにして気持ちを切り替えたのかは、どんなに聞いても教えてもらえなかった。
「秘密です」
と沖田は眩しいほどの笑顔を土方とに向けるだけだった。
は、経過がどうであれ沖田が明るさを取り戻してよかったと、胸をなで下ろす。
土方はほら見ろと言わんばかりにに片目を閉じてみせた。
場所は変わって、薩摩藩邸。
「山口からの返事はありません」
田代五郎衛門はから返事がないことを西郷吉之助に伝える。
「さて、いけんしたものかのう」
西郷は顎をさすった。
「私に考えがあります。お任せいただけますでしょうか」
田代が畳に手をつく。
「考え?」
「はい、伊東を使うのです」
乗り出してきた西郷に、田代は自分の策を語り始めた。
20120323