鬼が辻 28
薩摩藩邸の中でも奥の方の、翻訳を行ったのではない建物には通された。
(こんな奥にまで通されたのは初めてだな…)
は田代の後ろで目だけを左右に動かし、邸内を観察する。
磨き抜かれて黒光りする廊下。
太い柱。
それは西本願寺の屯所である集会所や、会津藩の京都守護職屋敷と何ら変わるところはない。
しかし、所々に置いてある壷や、開け放たれた部屋にかかっている絵画は全く違う。
おそらく薩摩から持ち込んだものなのであろう南国の、どこか異国情緒漂う品ばかりである。
敵陣という言葉を意識せざるを得ず、は背筋を緊張させた。
廊下の先にある部屋へ近づいていくと、そこから大声が聞こえてきた。
「西郷殿、拙者は断じてそのような考えには諾と首を振らぬ! 今日本国の中で争うておる場合ではないのは、西郷殿もご存じであろう!」
「赤松どん、日本をひとつにまとめて外国とつき合っていかねばならん、それはおいもわかっちょりもす。そのためには今の幕府をどうにかせんといかん」
「だからと言って…!」
部屋の中には西郷吉之助と赤松小三郎がいるようだ。しかも、かなり激しく言い争っている。
「赤松先生…まだおわかりいただけないのか」
ちっと田代は舌打ちした。
「西郷様、田代です」
部屋の外にひざまづき、田代が声をかける。
「おお、田代か、入れ」
怒号がふと止み、中から返答があった。
「失礼します」
田代は障子を開いた。
室内には違い棚があり、床の間もある。
欄間には鶴などの目出度そうな意匠が彫り込まれ、漆が光を反射していた。
「山口どん、よう来られた。ささ、座られい」
大きな体を揺すりに声を掛けたのは、西郷だった。
「本日はお招きいただきまして、恐悦至極に存じます」
は床に手をつき、頭を下げた。
「そんなことはせんでよか、よか」
西郷はに頭を上げるよう言い、席に着くよう促した。
は末席に座ると、周りを見回した。
幾品も皿が並べられた膳が四つ用意されている。
床の間に近い上座には西郷。
その隣に田代。
『英国歩兵練法』翻訳の師とも言える赤松小三郎が西郷の向かいの席で、その隣が自分だった。
赤松はに会釈をしただけで、すぐに前を向いた。
いつもなら自分をあたたかく迎えてくれる赤松が、今日はどこか違う。先ほどの言い争いと関係があるのだろうか。
は訝りながらも、気付かないふりをして袴の裾を直した。
「赤松どん、山口どん、『英国歩兵練法』の翻訳、ご苦労でごわした。これが完成品でごわす」
西郷は、赤松との目の前に、和紙の表紙がつけられた本を差し出した。
全七編、九巻の赤表紙。
手にとってぱらぱらとめくってみれば、柔らかな和紙に清書された文章や絵が印刷されていた。
赤松とが呼び出されたのは、これを見せるためのようだ。
自分の仕事が形になった。
はそれを素直に喜び、無事に出版されたことに胸をなで下ろした。
「このような印をつけおって」
赤松がの隣で苦々しい声を上げる。
は赤松の手元へ視線を移すと、七編の最後に「薩州軍局」と大きな印が押されていた。
薩州軍局、つまり薩摩の軍隊がこれを保有することの証を、この本につけられたのである。
「拙者はこれを薩摩のためだけに翻訳したのではない。この素晴らしい内容の本を日本に広め、国全体の強兵のために行ったのだ」
赤松は眉間に剣呑な皺を刻む。
「赤松先生、慎まれよ。誰が先生方に金を支払い、飯を食わせ、この本を再翻訳する仕事を与えたと思われる? すべては西郷様のご指示の元ですぞ」
田代がの正面から赤松に言い返した。
「それもすべて、薩摩一国が軍を補強するためではないか! 先ほどから何度も言っているように、拙者は日本全体を富国強兵に導くために、この本を」
「いずれ赤松どんの考えは日本に広まりもす。じゃっとん、今すぐには無理でごわす。幕府は話し合いに応じることもなく、長州との戦に踏み切った。向こうがその気ならこちらも武力で幕府を仕置く時が来た、ただそれだけでごわす」
(武力で、幕府を仕置く?)
は黙ってやりとりを見ていたが、西郷の言葉に息を詰まらせる。
(それはつまり、日本史でいうところの…)
「ぐっ…」
続きの言葉を思い浮かべようとしたは、急に吐き気に襲われ、口元を押さえた。
「赤松どん、それに山口どん。揃ったところで頼みがありもす」
西郷が居住まいを正した。
「日本のため、薩摩に来て、力になってもらいたい」
息を詰めながら大きな体を曲げて頼む西郷。
その巨体を見下ろすように、赤松は勢いよく立ち上がった。
膝が膳に当たり、薩摩切り子のぐい呑みが畳の上に転がる。
「何が日本のためか! 薩摩のためではないか!」
「赤松先生、いい加減にされい! 西郷様への無礼、これ以上は許さぬぞ!」
田代も立ち上がり、刀の柄に手をかける。
(…!)
も危険を感じ、思わず腰を浮かせた。
「…馬鹿らしい。拙者は失礼する。その本については好きなようになされよ」
赤松が先に折れ、諦めたように肩をすくめた。
「この荷物、取り寄せていただいて感謝する、西郷殿。お手数をおかけした。もう二度とまみえることもあるまい。行くぞ、」
「赤松どん!」
「赤松先生!」
席の横に置いてあった風呂敷包みを取り、赤松はの背を乱暴にどつき、なかば強引に室外へ押し出す。
西郷と田代が呼び止める声が廊下に響いたが、ふたりは振り返らなかった。
は荒い足取りの赤松に早足でついて行き、薩摩藩邸を出た。
「まったく薩摩め、結局は自分のことしか考えておらぬではないか」
怒りに目をつり上げながら赤松は歩く。
「赤松先生、いったいどうされたのですか?」
もその歩速についていきながら聞く。自分が来る前に何があったのだろう。
「西郷殿は幕府を倒そうとしている。確かに拙者も今の幕府のままではいかんとは思う」
赤松は後ろから追っ手が来ていないことを確認して立ち止まる。
「財力もなく、命令も行き渡らない幕府は、天子様に政権をお返しするべきなのだ。徳川家はいち大名として政権に関わり、天子様の元、どの藩も平等に意見を述べ、日本国のために尽くす。それがこれからの日本のあり方だと拙者は考えている。大政奉還、と言うのだが」
「たいせい…ほうかん」
そう、授業で習った。
徳川幕府が天皇に政権を返し、新しい時代がやってくる。
「う…」
は再び胃の底がざわざわとしはじめた。
この先のことを、おぼろげながらは知っている。
どうあがいても幕府は負けるのだ。
次の時代のことを考えたくないのだろうか。
幕府が倒れる未来を。土方たちが属しているほうが負けるこの先を。
詳しく思い出そうすると吐き気がしてくる。
「顔色が悪いな。大丈夫か?」
赤松がの肩に手をかける。
「はい…大丈夫です、すみません」
は吐き気をこらえて頷いた。
「そうそう、これをお主に」
赤松は抱えていた風呂敷をに手渡した。
「これは?」
は受け取って持ってみる。包みを通した感触は柔らかく、ずしりと重い。
「前に約束したであろう」
赤松が包みの結び目を解いて見せた。
中には黒地の服がたたまれており、金の糸で刺繍が施されていた。
襟が四角く立ち上がっており、その下には縦一列に金のボタンが並んでいる。
「軍服だ。翻訳が終わった時に、田代を通じて英吉利の軍から取り寄せてもらった。お主のだぞ」
「あ…ありがとうございます…」
自分に軍服を用意してくれる、そう赤松が言っていたのをは思い出した。
まさか本当に赤松が買ってくれるとは思ってもいなかった。
は包み直された風呂敷を抱き締める。
「引き留めて悪かった。さあ、もう新選組の屯所へ戻るがよい」
赤松は優しげなまなざしをに向ける。
「そして、お主の才を活かせる時まで待つのだ。己が正しいと思う道で翻訳や通詞の仕事が見つかるまで、決して早まってはならぬ」
「はい」
「では、な」
赤松は再び周りを見回して追っ手の影の有無を確かめると、雑踏の中に消えていった。
も西本願寺へ戻ることにし、歩き始める。
(翻訳のことではあんなに協力していた薩摩と赤松先生が…)
薩摩の藩論はますます倒幕へ傾いているようだ。
赤松も幕府という組織はもう見限っているようだが、徳川家自体は残してこれからも政治に参加させようとしているらしい。
(大政奉還…もうそんな言葉が出る時期に来ているのか)
大政奉還の四文字が頭をよぎると、ぐらりと目眩がする。
はなるべく先の歴史のことは考えないようにしようと思いながら、屯所への道を急いだ。
屯所へ戻り、土方の部屋に入ったは、すぐに薩摩藩邸での出来事を土方に報告しようとした。
しかし土方は新しい屯所の建築がどれぐらい進んでいるのかを実見するために外出していて留守だった。
夕方になっても土方は帰らず、は廊下を何度となく覗いてみたりしていた。
(何だろう、落ち着かないな…)
早く話したいせいだろうか、胸の辺りがむずむずする。
とうとうは集会所の階段まで降りてきてしまった。
西本願寺の門は暮れ六つを過ぎたために閉じられ、人影が見えればそれは新選組の隊士か、西本願寺に勤める坊主のものでしかあり得ない。
は階段の隅に座り込むと、土方の影を待った。
人の影どころか、猫の影ひとつも横切らない。
どれだけ待ったかもわからないの目に、太鼓楼脇の門から入ってくる人影がやっと写った。
(土方さん…じゃない。あれは…沖田さんだ)
は立ち上がり、背の高い影に駆け寄る。
「沖田さ…、え?」
は沖田の姿を見て愕然とした。
階段の脇に立っている大きな提灯に照らされた沖田は、血塗れだった。
「沖田さん、どう…」
「大丈夫です。私のことは放っておいてください」
巡察で斬り合いになった時でもこんなに返り血を浴びたところを、は見たことがない。
血を吸って重たくなっている着物を引きずるように、沖田は階段を上がっていった。
あんなに血塗れで大丈夫なわけがない。
は沖田の後を追いかけようとした。
「さん、沖田先生は戻って来られました?」
たたたっと走る音がしたと思ったら、続けて神谷が戻ってきた。
「え、ええ、今お部屋の方へ」
は階段の上を指さす。
神谷の格好もよく見てみると、沖田ほどではないが血を浴びているようだった。
「詳しいことはまた今度っ!」
神谷はの訝し気な視線に気づきながらも、沖田の後を追って階段を駆け上がった。
後からが聞いた話では、沖田には京に来てから馴染みの妓がいて、その妓の最期を看取ったのだそうだ。
妓は胸を患っており、沖田の腕の中で大量の血を吐いて死んだのだと、神谷が歯切れの悪い調子で語ってくれた。
この出来事が沖田の運命の舵を大きく切ることになろうとは、この時誰も予想し得なかった。
この夜、土方は遅くになって戻ってきた。
新しく立てる屯所の工事にいろいろと注文を付けながら、工事関係者の接待を受けていたのである。
の話を聞いた土方は、薩摩の動向について守護職邸に書状をしたためた。
「お前は赤松とやらの言うように、もう薩摩には近づくな」
書状を小者に渡すと、土方は短くそれだけをに言い渡した。
「はい」
はしっかりと頷いた。
翌日、早朝。
まだ西本願寺へ参拝をする姿もまばらな時間だった。
が起きて井戸端で歯を磨いていると、遠くから町人体の男がちょいちょいと手招きをしているのに気づいた。
遠いので誰だかわからず目を凝らしてみる。よくよく見ると、変装した斎藤だった。
斎藤は西本願寺の参詣者を装って、賽銭箱の前で財布を取り出した。
も歯磨きを終えて斎藤の横に並ぶと、斎藤が賽銭を箱に入れるのに合わせて合掌した。
(傷はどうだ)
(治るのには時間がかかりそうですが、何とか)
(そうか)
と斎藤は、熱心に祈りを捧げる振りをしながら小声で話す。
(伊東一派は、金が無くて困っている)
斎藤が切り出した。
(御陵の守りはただ同然でやらされているし、他に仕事のあてもない。今の寺を紹介してくれた薩摩は場所の提供だけで、後は知らぬといった感じだ)
(そうですか…斎藤さんは大丈夫なんですか?)
は斎藤の側の目を薄く開いて斎藤を見る。
(俺は会津からもらうものはもらっているゆえ心配には及ばぬ。それよりも)
斎藤は後ろを素早く観察した。
次の参拝者が門をくぐってこちらに向かってきている。
(伊東の動きに気をつけておけ。飢えた獣は何をするかわからない。お前や新選組に何らかの接触をしてくるかもしれん)
(わかりました)
(俺も伊東に変化が見られたらすぐ知らせにくる)
斎藤は深々と頭を下げ、賽銭箱の前から退いた。
も同じく頭を下げて横に回った。
次の参拝客がちょうど来るところであった。
20120316