鬼が辻 27
景色を薄紅色に彩っていた桜が散り、緑の葉が遠い山並みを際だたせる。
世間は兵庫開港の噂に葉ずれのようなざわめきを起こし、大樹公徳川慶喜の政治手腕を、日本を外国に売り渡すつもりかと評価した。
新選組の中でも慶喜の決断には渋い顔をする者が多く、剣術や銃砲の訓練が終わると、車座になって日本の未来について熱く語り合っている。
「はは、まるであの頃みたいだな」
久しぶりに屯所内を見回っている近藤が、道場を覗きながら笑う。
試衛館で道場主をしていた頃、近藤たちも稽古でかいた汗を拭う間もなく道場の床に座り込み、日本の国や幕府は俺たちがお守りするんだなどと息巻いていた。
「笑い事じゃねえよ、かっちゃん」
近藤の隣で土方が眉間に深い谷を作る。
「ん?」
「こいつから聞いただろうが。今この国は、夷狄の侵略を受けようとしてるんだぞ」
土方は自分の後ろに控えるを親指で示しながら言った。
大坂から戻ったは、大坂城で行われた将軍と各国公使の謁見の様子を近藤にも話していた。
「侵略ではないだろう。さすがは大樹公、これこそ遠謀攘夷論だよ」
近藤は満面の笑みを浮かべ、満足そうにひとり頷く。
遠謀攘夷論とは、近藤が松本良順に聞かされた説である。
近藤が江戸に一時戻った際、松本良順を訪問し、日本のこれからについて話を聞いた。
その時、松本は(単行本参照)
それ以来近藤は外国に対する考えを改め、(以上をもって考える)
「かっちゃんは暢気すぎるんだよな」
土方は苦々しく言い捨てる。土方にとっては外国の存在など、日本を本当は乗っ取りに来ているのではないかと懐疑的になる相手でしかない。
おまけに惚れた女はいけ好かない金髪男ーー今は亡きハーバーのことだがーーにイギリス語を教え込まれ、通詞の仕事で怪我までしてくる始末である。遠謀だろうと何だろうと、近藤のような目で見ることは出来なかった。
「お、言ったなトシ。じゃあ暢気すぎるかどうか、確かめてみるか?」
ふっと近藤がいたずらな目つきになる。
「君、預かってくれ。トシ、ほら」
近藤は羽織を脱いでに渡し、土方には道場の壁にかけられている竹刀を投げて寄越した。
土方は不意に飛んできた竹刀をかろうじて受け取り、渋々ながら羽織を脱ぐとに押しつけた。
局長の近藤と副長の土方が道場の中央に進み、礼をする。
それまで盛んに口を開いていた隊士たちの目が一点に集まり、一斉に静まりかえった。
も両者の羽織を抱え、同じ方向を見る。
袴の股立ちをとり、長着の袂をからげた二人は、腰に携えた竹刀を静かに構えた。
近藤も土方も晴眼。
暖かい季節なのに、二人が発する緊張感で体が震えてくる。
相手の隙を窺う長い長い対峙の果てに。
二人は気合いを発して、同時に相手へ打ち込んだ。
「私が巡察に行ってる間に、そんな楽しいことがあったんですか」
巡察から戻り、副長室へ報告に来た沖田は、近藤と土方の対決を聞いてうらやましそうに身を乗り出してきた。
「結局、俺が近藤さんにいいように打たれて終わったけどな」
土方が肩をさする。
「ずるいですよう、どうして私が屯所にいる時にしてくれないんですか」
「うるせえ、成り行きだ」
まるで自分だけ仲間外れにされたような目で迫ってくる沖田に、土方は懐から紙包みを出して渡した。
沖田が包みを開いてみると、中身はこんぺいとうだった。
「わあ。今度は私がいる時にしてくださいね」
急ににこやかになり、沖田はこんぺいとうを口に運び始めた。
「で、近藤先生のご様子は?」
沖田がもぐもぐと口元を動かしながら聞く。
「一見普通だったがな…剣筋にゃ、ちっとぶれがあったような気がするぜ」
土方は先ほどの手合わせを思い出して答えた。
(ぶれ…か)
部屋の隅で本を読んでいたも、近藤の様子を思い出す。
天然理心流四代目宗家らしい、威厳のある構え。
発する気合いも並々ならぬ、対峙する者を圧倒する。
土方の自在に変化する剣を流しながら強く打ち込む近藤。
その剣筋にぶれがあったのか、素人のにはわからない。
だが、近藤と付き合いの長い土方がそう感じたのならばそうなのだろう。
近藤も、慶喜が下した日本の未来について心配なのかもしれない。
外国との融和は大樹公が選んだ道なのだからきっと大丈夫だと信じていても、相手がどう出てくるかによって変わる。
誰よりも日本の未来を憂い、幕府を信じ、盛り立てようとしている近藤だからこそ、心に沸き上がる不安もあるのだろう。
だが近藤はそれを表に出さず、泰然としている。
(さすがは近藤局長。剣だけではなく、度量も充分にお持ちでいらっしゃる)
は素直に近藤へ尊敬の念を抱く。
もし自分がこの時代の歴史について詳しく知っていたら、近藤にそして土方に告げ、自分を受け入れてくれた新選組へ恩を返すことが出来る。彼らの望む未来への道を開くことが出来るのかもしれない。
(この先、いつ、どうなるんだっけ…)
学校の日本史の授業で習ったはずだが、幕末の辺りは学期の終わり頃でおざなりにされていた気がする。特に興味もなかったので、何年に何があったのか全くと言っていいほど覚えていない。
(覚えていたとしても…歴史への介入など許されるわけがない)
歴史は正しく織り続けられている。たかが自分一人の力ではどうにもならないだろうが、この先の歴史を口にして万が一未来が変わってしまったら…。
「どうしたんですかさん、難しい顔をして」
ひょいと沖田がの顔を覗き込む。
「あっ、いえ、ちょっと考え事を」
は、目の前に揺れるくせっ毛に驚いてびくりとした。
「難しいことばかり考えてると、土方さんみたいになっちゃいますよ? これ、おひとつどうぞ」
沖田は紙包みからこんぺいとうをひとつつまみ、の手に載せる。
「ありがとうございます」
はこんぺいとうを口に入れた。柔らかな甘さが口の中を転がる。
まるで余計な力を追い出すように、甘みが体にじんわりと広がっていった。
「オイ総司、俺みたいにたあどういうこった? ああ?」
土方が気色ばむ。
「こことここの間に山と谷がくっきりと…ほら、今もくっきりはっきり」
己の眉間を指さし、沖田はくすくすと笑った。
「テメエのせいだろうが! だいたいお前、そんだけこんぺいとうがあるのににひとつしかやらねえって、どんだけケチなんだ!」
ただでさえ短い土方の、堪忍袋の緒がぶつりと切れる。
沖田は飄々と土方の言葉をかわし、それに対してまた土方が眉間の皺を増やす。
(このお二人らしいなあ)
は口の中でころころとこんぺいとうを転がしながら、ふふっと笑ってしまった。
「お前も何笑ってやがる…」
冷え切った声の調子に、はしまったと肩をすくませる。
沖田とは二人して土方に雷を落とされ続けるのであった。
の傷は、抜糸はまだ先だが少しずつ少しずつよくなっていった。
屯所では神谷が消毒と、南部からもらった薬を塗るのを手伝ってくれる。
「無理しない方がいいのに…本当に出掛けるんですか?」
「はい」
「しょうがないなあ、もう。頑固なところは同室の誰かさんにそっくりなんだから」
「いたた、きついですよ神谷さん」
自分の意思とは反対のことを思う神谷に包帯をきつく巻き直され、は苦く笑った。
はこれから薩摩藩邸に出掛ける。
翻訳に携わった『英国歩兵練法』が完成し、祝いの席を設けるから来るようにとの書状が来たのだ。
会津からはもう薩摩とは関わるなと言われているが、ここで行かなければ不自然に思われるかもしれないと、は出席の返事をしたのである。
「あまり遅くならないようにします」
は黒の紋付きに着替え、土方に挨拶をする。
「ああ。俺はこれから局長室で幹部会だ。お前が戻ってきて俺が部屋にいなかったら隣にいる」
土方も身なりを整え、立ち上がった。
廊下に出て、土方は局長室へ。は外へ。それぞれ歩いて行った。
は太鼓楼の側の門を出て大通りを行く。
(正直、気は進まないけど…)
薩摩におもねるつもりはないが、無用な摩擦を生むのは避けたい。
会津にも、慶喜にも、そして何より新選組に、土方に迷惑は掛けられない。
は深く呼吸をして、前を向いた。
その時、とんとの肩にぶつかってくる女がいた。
はとっさにその女が倒れそうになるのを支える。
「大丈夫ですか? すみません、前方不注意で」
「いえ、うちがよう見とらんかったのどす。堪忍え、お侍はん」
女は急いでいるようで、早口で謝るとすぐに道を駆けていった。
京の者特有の、絹のようになめらかな言葉遣いと声。
派手ではないがしっかりした布地の着物。
そしてちらりと見えた顔には眼鏡。
女盛りは越えて、貫禄すらあるような年の頃の女だった。
(あんなに急いでいる人、見ないけど…どうしたんだろう)
は女の背中をしばし見つめていたが、薩摩藩邸に行くという用事を思い出し、自分もやや早足で歩き始めた。
にぶつかったこの女は、島原の置屋「花屋」の女将である。
行き先は西本願寺、新選組屯所。沖田を訪ねに行くところに出くわしたのだ。
この女将が持ってくる用件が沖田に悲劇をもたらすのを、は予想だにしていなかった。
は久しぶりに薩摩藩邸へ赴き、重厚な屋根をいただく門をくぐった。
門番は相変わらずを嫌な目つきで睨み、今にも手にした槍で突きそうな態度でを門の中に入れた。
門の内側では、外からは考えられないくらいの数の藩士たちが鍛錬を行っている。
それは洋式の調練で、が翻訳した本の内容そのままであった。
上は筒袖を着、下はズボンのようなものを履き、野太い声で一斉に動く男たちを見て、は気圧されて立ち止まってしまった。
「何を驚いている」
不意に後ろから声を掛けられ、は身構える。
「田代さん?」
の翻訳を清書し、作業を早く進めるよう監視も行っていた田代五郎左衛門であった。
「久しぶりだな山口…貴様何だその頭は」
田代はの包帯を見て目をむく。
「あの、たいしたことではありません。実はこの前…」
土埃の舞う中、は田代に大坂での一件を語った。
「…というわけで、石を避けられずに怪我をしてしまいました。未熟ですよね」
きっと田代には鈍くさいだの何だのと罵声を浴びせられるに違いない、は自嘲した。
ところが。
「見せろ」
と田代は言い、に包帯を解かせて傷口を観察した。
その目には嘲りではない何かが浮かんでいた。
「…何故そこまでして会津や幕府に忠誠を誓う必要があるのだ?」
「え?」
思ってもいなかった田代の、絞り出すような声に、は包帯を巻く手を止めてきょとんとした。
「通詞の仕事など、本来であればそのような怪我を負うものではないではないか。それもこれもすべて徳川が天下に居座っているせいではないか!」
田代が急に大声で吠える。
その声の大きさに、調練中の藩士たちがぴたりと動きを止めた。
「あの、田代さん…? ご心配はありがたいのですが…」
徳川が、というのはいささか飛躍しすぎではないかと思ったが、は口にしなかった。
田代の性格を考えれば、ここで徳川家を擁護する発言をすれば、ますます激するに違いないからだ。
「い、いや、えへん! こんなところでぐずぐずするでない、さっさと俺の後についてこい」
田代はに背を向け、大股でずんずんと奥へ進んでいく。
は巻きかけた包帯を手にして、田代の後を追った。
20120308