鬼が辻 26
「じゃあ、南部先生のところへ行ってきます」
とは言い、身支度を調えた。
「傷の手当てですか?」
副長室を訪れている沖田が聞く。
「はい、ちゃんとお医者様に診てもらった方がいいって土方さんが」
ちら、とは土方を見る。
土方は新しい屯所の図面を眺めており、の視線に気づいた風もない。
「そうですね、今日は南部先生の回診がないから、行くしかないですもんね。気をつけていってらっしゃい」
「ありがとうございます。じゃあ土方さん、行ってきます」
「ああ」
土方は紙面を見つめたまま、短く返事をした。
ぱたん、と障子が閉じられ、ぱたぱたと軽い足音が遠のく。
「もうちょっと声をかけてけあげたらいいのに」
沖田が土方に言う。
「必要ない。ただ出かけるだけだろ」
土方はばさりと紙を畳に置いた。
「またまた、気にしてるくせに。監察を使って、さんを追って来ている者がいないか調べたでしょう」
土方の横に座り、沖田はにこにこと笑う。
「ふん」
土方は誤魔化すようにそっぽを向いた。
まさか通詞の仕事でが怪我をして帰ってくるなど、想像もしていなかった。
通詞など、内向きの仕事ではないか。なぜ狙われたのかを聞いた土方は、顔にこそ出さなかったが心の内では愕然とした。
将軍に呼ばれて他国との交渉を手伝っただけなのに、命を狙われるとは。
そもそも将軍が直々に呼び出したというのに怪我をさせるとはどういうことなのだ。
土方の心に、最高権力者への苛立ちがわき起こる。
(いや…違う)
しかし土方はすぐに思い直した。
この苛立ちは、本当は将軍慶喜に対するものではない。
(くだらない傷など、つけずに戻すと決めていたのに)
に心を奪われていると自覚した時、そう己に誓った。
もっともその時は、この気持ちを打ち明けて、自分が彼女を傷つけないようにと、そのことだけを思ったが、こうしてが怪我をしてみると、体にもこの時代で生きていた証を残すことなく返してやりたかったと思っていたことに気づく。
帰ってから報告を受け、寝る前に布を巻き直す時に土方も傷を見た。
(あれは、残るだろう)
思ったよりも大きな傷だった。
女子の顔に、しかも自分が惚れて、守ると決めた女にあんな大きな傷をつけてしまうなど。
その場にいて、守ってやれなかった自分に腹が立った。
土方は山崎に命じて監察を使い、船の着く伏見から屯所まで、薩摩藩邸、南部のいる木屋町、守護職邸の周りなど、が行きそうな場所に怪しい影がないかを調べた。
幸いなことに、追っ手はかかっていないようだ。
それぐらいしかしてやれない自分に、土方は唇を噛んだ。
(お茶ぐらい淹れてくればよかったかな)
廊下を歩きながらは考えた。
ここ最近、土方の元には誰かがひっきりなしに訪れている。
それは組の内外を問わなかった。
外から来る者は、新築中の屯所の工事関係者がほとんどである。
どうせだからと土方は新屯所の建築にあれこれと注文を付けた。
鬼の副長の機嫌を損ねてはならないと、工事関係者はこまめに工事の進み具合や、付けられた注文の確認などを報告に来ている。
内部の者は、たいていが幹部だ。
毎日の巡察の様子はもちろんのこと、己の受け持つ組の雰囲気などを土方に伝えている。
そう、伊東が抜けてから、新選組に残った伊東派の様子が明らかにおかしいのだ。
巡察中も集中出来ていないようで、捕縛任務の際には他の者に後れをとることもある。
伊東の動向が気になるのか、こそこそと集まって何かを話していることも多い。
伊東に置いていかれた自分たちに、伊東派の連中は次第に不安を隠せなくなってきている。
そんな彼らを見る、他の隊士たちの目も微妙だ。
隊の空気は澱んできており、まるで泥水を器に入れて放置したように、二層に分かれつつあった。
(新しい屯所のことは心配ないけど…伊東参謀が残していった人たちが気になるな)
まだ何も事を起こしていないから、と思う土方の気持ちはも同じだ。詮索も含め、余計につつかない方がいいかもしれない。
しかしこの様子見が、隊に残された伊東派にとって最悪の結果を招くことになろうことなど、まだ誰にも予想できるはずもなかった。
は目深に笠を被り、頭に巻かれた布を隠して道を歩いた。
京まで追ってきている者がいないことは、土方に命じられた山崎が確認してくれたが、念のため大通りを進み、周りに充分注意して進む。
万が一の事を考え、懐の銃はすぐ抜けるよう、着物の内に浅く差しておいた。
木屋町の南部宅に無事につくと、南部は訪れてきている病人や怪我人を治療中だった。
を見た南部は一瞬驚きに目をまたたかせたが、すぐ目の前の治療を再開した。は奥に通され、南部が治療を終えるのを待った。
「ああ…これは跡が残りそうですね。でも治りは早いと思いますよ、縫合もきちんとしているし、消毒もされていますから。さすがメースのご指導を受けているだけありますね」
南部は傷を診るなり溜息をもらしたが、丁寧に消毒を施して薬を塗った。
「そうですか、よかったです。縫合は山崎さんがやってくださいました」
専門的な医者に診てもらい、はほっとした。
「よかったですではないでしょう。あなたは仮にも女子なんですよ? こんな傷跡の残るような事をしては、メースが診たらものすごく怒られるところです」
南部に言われ、はメースーーー松本良順の姿を思い浮かべる。
つるつるに剃り上げた頭を光らせ、何やってんだと怒る松本がいた。
は南部と目を合わせると、ぷっと吹き出してしまった。
「ありがとうございました。これから守護職邸に行って、大坂でのことを報告してきます」
は薬礼を置くと立ち上がった。南部にきちんとしてもらったので、見苦しくない姿で守護職邸に行くことが出来るはずだ。
「さん、待ってください」
南部が止める。
「はい?」
「あの…今、守護職邸はちょっと」
「え?」
守護職邸で何か起こっているのか。はもう一度腰を下ろす。
南部がこほんと咳払いをひとつし、語り始めた。
徳川慶喜が将軍になってから、京にいる会津藩は江戸に戻る機会を虎視眈々と窺っていたらしい。
元々気の進まない、それどころか断り続けてきた京都守護職は前将軍から拝命したのだから、代が変わればもうお役御免でいいのではないか。そういった論争が、守護職邸内で紛糾していたのである。
長州戦争が集結してから、松平容保は、慶喜から征長の兵を解く奏者番に任命された。だが容保は、いや、会津藩はそれを拒否し、大坂城への登城も拒否し、守護職邸にこもった。
守護職就任も慶喜に説得され、就任してからもあれこれとこき使われ。
慶喜が勝手に決めた長州戦争の尻拭いまで押しつけられる。
それが会津藩には我慢ならなかった。
見かねた老中の板倉勝清が暫時の暇を与えるようにし、容保はやっと登城を再開した。しかし未だ帰藩の意志は変えていない、と南部は重たく告げた。
「肥後守様はかなり憔悴なさっている。もともとお体が強い方ではないし、大樹公に仕えるのをよしとしない藩士も多いようで」
蝦夷や江戸湾の警備で、会津藩は元々財政が逼迫していた。
京都守護職を受け上洛したことで、ますますそれは悪化している。
これ以上京にいても、慶喜の都合がいいように振り回され、動かされるだけではないか。守護職邸内には、そう沸き立つ者もいるのだ。
「私の見立てでは、守護職を降りることは叶わないと思います。江戸の藩邸にも故郷の会津にも、帰れる見込みは低いかと」
南部の顔は曇った。
今、混迷を極めている守護職邸に、無理に出入りしない方がよいとの南部の助言を受け、は大坂の一件を紙にしたため、南部に届けてもらうことにした。
南部の家を出たは、鴨川の橋を渡ろうとして足を止めた。
(そうだ、斎藤さんに会っていこう)
土方から斎藤との連絡役を言い渡されている。
通詞の仕事が入ってしまったため、まだ一度も斎藤の元を訪れていなかった。
は引き返し、鴨川に沿って道を下った。
半刻ほど歩いただろうか、は五条の善立寺に着いた。
「あ、斎藤さん」
門前に斎藤が立っていた。
「それはどうした」
笠を取ったの包帯を見て、斎藤はぴくりと太い眉を動かす。
「ええ、あの」
とが口を開きかけた時。
「斎藤君、御陵の守りの当番のことなんだが…おや、じゃないか、僕に会いに来てくれた…え? どうしたんだい、それは」
伊東が現れた。
伊東はを寺の中へ招き、茶を出した。
は問われるままに、大坂での顛末を語った。
「酷いことを…君には何の咎もないのに」
伊東は秀麗な眉をひそめる。
「いえ、仕事ですから。それよりも皆さんお元気ですか? 藤堂さんは?」
きょろ、とは室内を見回す。
そして耳を澄ませる。
静かすぎる。自分たちの他にはこの寺に誰もいないようだ。
「藤堂君は御陵の守りに出ているよ、おかげさまで皆元気だ」
伊東が答えた。
「しかし今、君は他の者の心配をしている場合じゃないだろう! そんな怪我までさせられて、それでも新選組に、幕府についている必要はないじゃないか…」
伊東はの包帯にそっと触れ、己の手での手を包み込む。
「今からでもいい、御陵衛士に来ないか、。幕府の側にいたら、君はこの先も危ない目に合い続けるかもしれない。君ほどの人材が損なわれるのは惜しいよ」
伊東は真剣な目つきでに語った。
は伊東の視線に気圧されたが、目を伏せた。
「お言葉はありがたく思います。ですが、私の雇い主は現在の大樹公です。それに…」
脳裏に、厳しい雰囲気を発してたたずむ、彼の姿が浮かぶ。
「それに、私は土方さんのお側を離れる気はありません」
瞼を開き、は真っ直ぐに伊東の目を見た。
「…」
の手を包み込む伊東の手が緩む。
伊東の後ろに控える斎藤は、それを黙って見つめていた。
20120302