鬼が辻 24
夜が明け、大坂城の石垣を朝日が照らす。
は慣れない部屋のせいかあまりよく眠れず、明け方になってやっとうとうとしかけた。しかし起床を告げる声が部屋の外から聞こえ、起きないわけにはいかなかった。
寝ぼけ眼をこすり身支度を整えたは、出された朝餉をわずかにとった。
与えられた部屋で静かに座っていると、
「こちらにお召し替えを」
と、慶喜の側近らしき男が黒塗りの箱を恭しく掲げてきた。
は肌小袖と単だけを自分で身につけ、他の衣服は手伝ってもらって着替えを済ませた。
狩衣に侍烏帽子。
束帯に次ぐ、武家の礼装である。
黒の絹は鈍く光り、複雑な織りが施され、大きな花のような文様が浮き出ていた。
は室内を歩いてみる。着慣れない衣服だが、動きやすさは普段の羽織袴とほとんど変わらず、少しだけ安心した。
「用意はいいか」
の後ろから低い声が聞こえてきた。徳川慶喜であった。
「余の側へ」
「はい」
慶喜の言葉に、は歩を進める。
同じような狩衣姿の男が数人、先にしずしずと歩き出した。慶喜も、もそれに従った。
長い廊下を進み、は大広間へと足を踏み入れる。
先に入室していた者たちが一斉にひれ伏し、将軍慶喜を迎えた。
まるでモーゼの十戒のように、大広間の真ん中に道が出来る。
は張りつめた空気に、身が引き締まる思いだった。
慶喜が上座に立ち、はその斜め後ろに控える。
下座の左右にひれ伏しているのは幕府の要人と思われ、全員狩衣を着用していた。
息苦しいほどの緊張感の中、先触れがやってきた。
すると、畳に正座をしていた全員が立ち上がる。
も慌てて立ち上がるが、危うく裾を踏んでしまいそうになった。
やがて複数の足音がさざ波のように押し寄せてきて。
大広間の入り口に、軍服姿の外国人たちが姿を現した。
大広間は狩衣姿と軍服姿で埋め尽くされた。
は軍服の群に目を走らせる。
金髪に薄い目の色、彫りの深い顔立ち。
その中に見覚えのある顔があった。アーネスト・サトウである。
サトウもに気づき、微かに口元を上げて合図を寄越した。
(ということは…相手はイギリスか…)
詳しいことを聞かされていなかったは、少しずつ今の状況を理解してきた。
相手の一人がまず前に進み出る。
はその顔に覚えがあった。英国公使のパークスである。
兵庫沖の船上で兵庫開港などの返答を引き延ばした時に、相手側にいた一人だった。
パークスが、よく通る響く声で挨拶の言葉を述べる。
それに対し慶喜が返答する。
日本側に重苦しい緊張感が覆い被さる中、の仕事が始まった。
は相手の言葉を一言も聞き漏らすまいと耳に神経を集中する。耳に入る傍から言葉を変換し、慶喜の言葉を英吉利語にして発し続けた。
時候の挨拶を交わし、贈答品の交換などが終わる。
慶喜がおもむろに口を開いた。
「兵庫開港の件であるが」
その瞬間、広間の左右に並んでいる日本人の列の目が、一斉に慶喜に向けられた。
イギリス側はの訳を聞いてから、一歩遅れて慶喜を見る。
「先だっては不可と申したが、やはり開港することにした」
ざわ、と日本側から思わず声が漏れる。
(開港しないんじゃなかったの…?)
も目を見開いた。
が兵庫沖の船上で通訳をし、イギリス・フランス・オランダ各国の公使と対峙したのは一昨年のこと。その際には、兵庫開港、条約締結、関税の引き下げへの返答期限を引き延ばすことに成功した。
期限延期の末、慶喜は大名や公家、在京の諸藩士らと会議を開き、兵庫開港以外の案件については勅許を得た。諸外国の公使も納得し、引き上げたはず。
(今更兵庫開港を、なぜ)
話の道筋が見つからず、はただ慶喜を見つめる。
「どうした。早く訳さぬか」
慶喜が手に持った扇でを示す。
「は、はい」
は顔をイギリス側に向けようと頭を上げた。
その瞬間、強烈な視線がを刺した。
しかもその視線は一つではない、には日本側全員の目が向けられていた。
訳すな。
その言葉を夷狄に伝えるな。
脅迫的な視線が、に突き刺さる。
同時にイギリス側の目もに注がれていた。
なぜ通詞が慶喜の言葉を訳さず呆然としているのかと。
日本語を理解できるサトウだけが、意味ありげな笑みを浮かべている。
「早ういたせ!」
慶喜が扇を軽く振り、の胸元を打つ。
手首を聞かせた鋭い音に、は己の仕事を思い出した。
は視線をはねのけるように慶喜の言葉を英吉利語にして発する。
外国側からは感嘆の声が上がり、日本側からは失望のどよめきが漏れた。
十五代将軍徳川慶喜が英国公使パークスと大坂城で会見を行ったのは、慶応三年三月二十五日。
翌日の二十六日には阿蘭陀国総領事ポルスブルックと、二十七日には仏国公使ロッシュとも会った。
そして二十八日、英仏蘭三カ国の公使と慶喜が会見を行い、兵庫開港が公式に宣言されたのであった。
は全ての会見に同席し、英吉利語に関わる通訳と、締結文の作成を担当した。
公式会見の翌日、慶喜はイギリスと非公式な場を設けた。
本丸御殿大広間の前庭で、イギリス兵士による軍隊の調練が披露され、慶喜をはじめ会見に同席した者たちが鑑賞した。
整然と行われる近代的な調練に、ほとんどの者が息を呑み、眉をひそめ、恐怖を感じた。
は慶喜の側に控え、イギリス側からの説明を日本語にして伝えていた。
『英国歩兵練法』の翻訳が終わったばかりのの目の前で、本の内容が正確に再現される。
の頭の中に翻訳した内容が映像に変わっていった。
亜米利加との会見にも出席し、は無事に役目を終えた。
夕餉を終えたは慶喜から呼び出される。
慶喜から貸し出されている葵の紋付きに着替え、は黒書院にいる慶喜の元へ参じた。
「ご苦労であった」
各国公使との会見が終わり、慶喜は羽織袴姿でくつろいでいた。
慶喜が顎で側近に合図を送ると、側近の男がの前に黒塗りの盆を差し出した。盆の上には紙に包まれた金子があった。
金子の下には紙が敷かれ、文字が書かれていた。側近の手から手燭が伸ばされ、文字が照らされる。
(これを取り、急ぎこの城から出よ)
「え?」
もう外は暗い。てっきり明日の朝に出されると思っていたのに、こんな急に追い出されるとは。
(案内をつけるゆえ心配はいらぬ。が、門を出たら決して足を止めるでないぞ。今宵泊まる宿まで走れ)
了解したとばかりには頭を下げ、懐に金子をしまい込む。
御台書院に戻ると着替えを済ませ、側近の男と共に部屋を出た。
慶喜が何かを警告している。だがそれが何なのかを口にしなかった。
何故なのか、答えは簡単だ。この城の中にそれを聞かれては困る相手がいるからだ。
(私が出て行くのをなるべく悟られてはならない…ということか)
は連れられるまま、廊下を音を立てないように進み、玄関を出た。
とりあえず山崎と連絡が取りたいとは思ったが、山崎が今どこにいるかはわからない。探索に出ているか、それとも新町の宿で自分を待っていてくれているか。
は新町に行こうか迷ったが、城からなら八軒家のほうが近いだろうと考えた。
新選組の定宿である八軒家の京屋に行けば、きっと山崎と連絡が取れる。は先導してくれる側近に、八軒家に行きたい旨を伝えた。
「ここから、向こうの川沿いに行けば八軒家に着く」
慶喜の側近は京橋口の門へとを案内し、門番に門を開かせた。
「ありがとうございました。“殿”によろしくお伝えください」
はぺこりと頭を下げて、提灯をもらって門を出た。
門が閉まる音を聞きながら、は橋を渡る。
渡りきったところで振り返り、闇に黒々と浮かぶ城を見た。
(走れって…書いてあったな)
慶喜の書いた文字を思い出し、は袴の股立を取ろうと、荷物と提灯を地面に置き、手を袴の裾に伸ばした。
ごっ、と、傍らに何かが落ちる音がした。
(何?)
は提灯を持ち、足下をぐるりと照らす。
握り拳ほどの大きさの石が落ちていた。
(まさかこれが?)
とは首を傾げる。こんな大きさの石がどうして落ちてきたのだろう。
今度はひゅっと風を切る音が聞こえ、の顔の近くに何かが飛んできた。
再びごつんと地面を叩く音が、自分の後ろでした。
「?!」
続けて次々と、を目掛けて何かが投げられた。
提灯がかすかに照らす明かりの範囲内を、黒い影がよぎる。
よぎったことを目で確認できた刹那、の額を打ち付ける音が鈍く響いた。
「…っ」
はよろけ、痛みを感じる額に手をやる。
薄い明かりに照らされた自分の手の平には、真っ赤な血がべったりとついていた。
「え…?」
何が起きたのか理解できず、は立ち尽くした。
しかしその間にも、自分へと何かが打ち付けられる。服の上からでも感じる痛みに、やっとは気がついた。
狙われている。しかも大きな石で。
自分が間違いなく標的になっているのだ。
「山口、通詞の者だな」
暗闇から声がする。
「お前さえ豚一の言葉を夷狄どもに伝えなければ、兵庫の港を汚らわしい夷狄どもに開くことなどなかったろうに…!」
殺気立つ声、鞘なりの音。闇に光る銀色の刀身。
は荷物を拾うと反射的に駆け出した。
(“殿”が示していたのはこのことだったのか…!)
待てと叫ぶ声も耳に入らず、は全力で走る。
提灯はすぐに消して捨てた。光は追っ手に自分の居所を教える格好の材料になるからだ。
帝のおわします京に近い兵庫の開港は、勅許無くして行うことは出来ぬ。慶喜は以前そう言っていたはずだ。
今回、慶喜は開港に踏み切った。勅許が出たとは聞いていない。
それでも港を開くと宣言したのは、きっと彼なりの考えがあってのことだろうとは推測する。
しかし、慶喜自身が渋ったように、兵庫開港に賛成する者はどれほどいるのだろうか。
会見の場にいた日本側の視線から察するに、最低でもあの場の日本側には賛成者はいなかったのではないだろうか。
慶喜が兵庫開港を決定しても、その内容は相手に伝わらなければ意味を無くす。
(開港に反対する誰かが、伝えた私を狙って…)
城内での刃傷沙汰は御法度である。だからどの門からいつ出てくるかもわからない自分を待ち伏せていた。
慶喜はこうなることを予想していたのだ。ゆえに自分を御台書院に匿い、“門を出たら”走れと言ってきたのだ。
は額から流れてくる血を拭きながら走った。
町はすでに夕闇に飲み込まれており、人通りは少ない。
追っ手を撒くためにめちゃくちゃに走り回った。
どこをどう、どのぐらいの時間走ったのか。は建物が隣接する細い路地に駆け込んだ。
もう足が動きそうもない。隠れてやり過ごさねば、京屋までたどり着けそうもなかった。
息を殺さねばと思いつつも、ぜいぜいと荒い呼吸を止めることが出来ない。
(忠告通りに、門を出たらすぐ走るべきだった…)
ごほ、と喉に何かが詰まるのを追い出し、は怪しい足音がしないか辺りを見回す。
後ろを確認しようと振り返った時。
両肩をぐっと掴まれた。
(しまった!)
は固く目をつぶる。
「いやあ、はん、意外と足速いでんな」
くすくすと笑いを混ぜた声がした。
「や…や…山崎さん…」
聞き覚えのある声に、はへなへなと崩れ落ちる。
「どうして私を…見つけてくださったんですか?」
「いつどの門から出てきてもええように、見張りを置いときました」
山崎はの腕を引っ張って立たせる。
は額を押さえながら、よろよろと立ち上がった。
「はん、もしかして怪我してはる?」
気付いた山崎がの傷口に手をやる。
「これは…急いで手当せな。京屋はんはすぐそこでっさかい、もう少し走ってもらいまっせ」
山崎は路地から顔を出し、通りの様子をうかがう。
は頷き、山崎の後について走った。
20120218