久遠の空 ドリーム小説 鬼が辻 23

鬼が辻

update:2011.02.11

鬼が辻 23 

 翌朝、まだ日の昇りきらないうちには起床し、大坂へ向かった。支度は夜中の内に行っておいたので、起きてすぐに出発することが出来た。

 「行って参ります」
 葵の紋付きに身を包んだは、土方に向かって深々と頭を下げた。
 「ああ」
 土方も起きて身なりを整え、の前で鷹揚に頷く。
 「山崎、頼んだぞ」
 「はい」
 副長室には監察の山崎が呼び出され、を大坂まで無事に送り届けるよう言い渡された。
 「すみません山崎さん、お願いします」
 は山崎に向かって会釈をする。
 「いやいや、副長から大坂偵察の任務もいただいてますさかいに、気にせんといてください」
 山崎は笑顔を向けた。

 部屋を出て、は障子を閉める。
 閉まる一瞬、室内の土方と目が合った。
 きりりとした目で見つめられ、は顔に熱を感じる。
 それを土方に見られる前に、障子をぴたりと閉めた。


 まだ隊士たちはほとんど寝ており、屯所は静寂に包まれている。
 隣の西本願寺の建物ではすでに僧たちの気配で満ち満ちており、廊下を拭き清める姿も見えた。

 は山崎の後ろを、なるべく音を立てないように気をつけて小走りについていきながら、先ほどの土方の目つきを思い出していた。

 ゆうべは慶喜からの手紙を見てすぐに出立の準備を整え、少しでも体を休めておくべく布団に入ってしまった。
 だがこれっぽっちも眠れなかった。もしゆうべあのまま、誰の邪魔も入らなかったらどうなっていたのだろうと、一瞬でも考えてしまったのがいけなかった。
 考えるな、考えるなと自分に言い聞かせていたら、夜が明けてしまったのである。

 心を乱しているのが丸わかりの顔を見られたくなくて、は起きても土方となるべく顔を合わせないようにしていた。きっと目を合わせたら、将軍に呼び出されるなんて大事な用事の前に何て顔してやがると叱られるに決まっている。

 (それなのに、土方さんは…)
 一夜明けたら何事もなかったかのように、鬼の顔に戻っていた。
 自分には到底無理だと、はため息をつく。
 好きな相手にあんなことをされて、平気でいられる訳がない。
 はもう一度、長い息を吐き出した。

 「山口はん? 大丈夫でっか?」
 山崎が振り返っての顔を覗き込む。
 (いけない、仕事だ。今はすべてを胸の内にしまおう)
 は気持ちを切り替える。
 「ええ、すみません。急ぎましょう」
 軽く頭を振ると笠の顎紐を確かめ、山崎について早足で歩き出した。



 (大樹公のお召しだと…?)
 静まりかえった副長室では、土方が薄闇の中でひとり腕を組みながら思案していた。
 もう一橋公ではないから、豚肉食いの一橋公すなわち豚一公と呼ぶことは出来ないが、要はいけ好かない徳川慶喜からの呼び出しとなっては、土方も苛立ちが沸いてくる。
 が呼び出される時の用件はたったひとつ。
 (通詞が必要な時だ)
 土方は眉間を厳しくした。
 (前は確か…兵庫開港を引き延ばすための使いにつき合わされたんだったな…)
 外国が兵庫を開港しろと迫ってきているのに対し、幕府は夷狄嫌いの帝がおわします京の都に近いからという理由で断り続けてきた。
 なかば脅しに近い形で兵庫開港を叫ぶ外国勢を相手に、は慶喜から授かった策を用いて、開港の返答延期をもぎ取ってきたのであった。

 今度もきっと、外国との折衝のために呼び出されたのだろう。
 (帝の御ために、夷狄を追い払うんじゃねえのか?)
 慶喜が将軍になり、日本の動きがどうなっていくのか。土方には想像が及ばない。
 ただ、楽観的な気分にだけはなれない。それだけははっきりとしていた。

 (あんなのにつき合わされて、あいつも災難だな)
 土方はの顔を思い浮かべて短い息を吐く。
 毎度のことだが、雇い主の命令だの将軍のお召しだのと、慶喜から一方的に振り回されているが不憫だ。
 だがは仕事だとわきまえている。ごく普通に屯所を出て行った。
 ぐだぐだ言わねえところは、下っ端の隊士たちにも見習わせたいところだと、土方は腕を組み直した。

 
 (そういやあいつ、ゆうべ…)
 ふと土方の脳裏にの発した言葉がよぎった。
 (“嫌われたかと…”って、そんなことあるわけねえのによ)
 わかってねえなと思って、思わずあんなことをしてしまったが、と思いつつ、土方は唇を触る。

 (…まさか)
 土方の指が止まった。

 (斎藤が御陵衛士に潜入になって、心細い思いしてんのか)
 伊東の動向を見定めるためとはいえ、土方はに何も言わず、あえて突き放してきた。加えて、の正体を知る斎藤がいなくなったことで、心の置き所がなくなったと思い込んだのかもしれない。

 (ちゃんと話しときゃよかったのか? でもあいつも芝居下手だからな…)
 のことを責められないほどの大きな勘違いをしながら、土方は頭をかいた。





 は大坂に着くと、いつも慶喜から指定されている新町の宿に入った。もちろん山崎も金持ちのぼんぼんの出で立ちで、隣の部屋を陣取った。

 翌日、慶喜からの使者として新門辰五郎が宿舎を訪れた。
 「若、いえ殿は本日大坂へ参られやす。明日、自分が山口さんをお迎えに上がりますんで、それまで十二分に英気を養っておくようにとのお言葉で」
 「十二分に…」
 これから何か大事なことが起こるのだろうかと、も、そして隣の部屋の山崎も緊張をみなぎらせた。


 次の日、は新門に連れられて大坂城へ入った。
 大手門から庭を通って本丸御殿へ進む。
 城を取り囲む堀は、さすがに戦の際にはおいそれと渡ることなど出来ないほどの幅を誇り、その周りにぐるりと巡らされた石垣はどこまでも続いているように見えた。整然と組まれた石はほぼ垂直になっており、この堀と石垣を越えての進入など不可能だとは感じた。

 櫓門をくぐると、静寂という名の美しさを擁した庭が眼前に広がる。
 侵入者を拒む石垣とは正反対に、見る者の目を楽しませる風景だった。


 は袴の縞が写り込むほど磨かれた玄関を上がる。
 「殿が奥でお待ちです」
 新門が土の上に膝をつく。付き添うのはここまでらしい。
 「ありがとうございました」
 は深く頭を下げた。

 慶喜の側近らしき若い男に促され、は腰の物を預けて長い廊下を歩いた。
 あちこちの部屋からざわざわと話し声が聞こえ、早い足音もしてくる。

 あまりきょろきょろしてはいけないのだろうが、せずにいられない。廊下と部屋を仕切る板の戸には、狩野派の手によるものか、四季折々の植物で豪華絢爛に、力強く彩られている。
 さらに欄間には細かな彫刻が施され、天井を見上げれば格子の間にまた豪華な絵がある。はついあちこちに目を奪われてしまうのであった。


 くねくねと廊下を何度も曲がり、もうどこをどう来たのかも覚えきれなくなった頃、はようやく黒書院でくつろぐ慶喜の前に連れてこられた。

 「お召しにより参上いたしました」
 は正座をし、深々と頭を下げる。
 「よくぞ参った」
 脇息にもたれかかり、慶喜は煙草をふかしていた。土方のものとは異なる煙がにまとわりつく。
 「呼び出された用件はだいたい察しがついているであろう」
 将軍の威厳を漂わせながら慶喜は煙を吐く。
 「明日より余は、英吉利・阿蘭陀・仏蘭西・亜米利加の公使と謁見する。通詞をせよ」
 「かしこまりました」
 すでに前回、兵庫沖の船上で各国公使を前にして通訳をしている。その時と同じようにやればいい。そう思い、微動だにすることなくは返答した。

 「頼もしき返事よ。謁見が終わるまで余に付き添え」
 く、と慶喜は喉の奥で笑った。

 「この者を御台書院に案内せよ。仕事が済むまで泊まらせる」
 慶喜は側近の男に言う。
 「御台様の間でございますか? お言葉を返すようですが、あの間は殿の奥方様がお使いになるお部屋で…」
 側近は渋い顔をする。
 「どうせ今は誰も使っておらぬ。この者は大事な通詞だ。逃げられては困るからな、あの部屋に閉じこめておくのが一番いいのだ」
 「…御意にてございます」

 慶喜に言い聞かされ、側近の男はを別の部屋に案内した。
 コの字形に畳が配置された広い部屋だった。
 先ほどの慶喜の言葉によれば、この部屋は慶喜の奥方、つまり将軍の奥方のための間であるらしい。
 ここも部屋を仕切る襖には美しい絵が描かれている。ただし、ここは女性の部屋らしく、優美で柔らかな印象の絵が多かった。

 は持参した英吉利語の辞書や書き付けを眺めて過ごした。
 夕刻になると、慶喜が部屋にやってきて、同時に夕餉も運ばれてきた。
 給仕の者を下がらせると、慶喜はごろりと横になった。

 「あの、お食事…」
 「少し休んでからな。将軍になってからずーっと誰かの監視付きだったし、ここんとこ会議続きで、今日は大坂まで移動だろ? さすがに疲れた。先に食べてな」
 すっかり“浮之助”の口調になり、慶喜は目を閉じる。
 先に食べていていいとは言われたものの、はいそうですかと食べるわけにもいかない気がする。はコの字型の室内を見回した。
 奥の間に座布団があるのに気づき、一段高い畳を上がってそれを取った。

 「これどうぞ」
 はふかふかした座布団を二つに折ると、頬杖をついて転がる慶喜の頭の下に差し込む。
 「ん? ああ」
 慶喜は頬から手を離して座布団の上に頭を乗せた。


 「この部屋におれば、余計な者が覗きに来ることもあるまい」
 顔を手でこすり、慶喜は言う。
 (え? 私に逃げられないように、閉じこめておくって言ったのは…)
 側近の手前、なのだろうか。城内に見たこともない人間が入り込んでいるのを怪しみ、近づいてくる者がいるとでも言うのだろうか。

 「明日から頼むぞ。日本の国は余が導く」
 目を閉じたまま慶喜は呟いた。
 すぐに、すうと寝息が聞こえてきた。


 は羽織を脱ぐと慶喜の体にかける。
 まだほとんど腹も減っていないので、慶喜が起きるのを待ちながら、行灯の明かりで読書を続けた。



 20120211