鬼が辻 22
伊東の分離話は、伊東本人が思った以上にとんとん拍子に進んだ。
いや、進みすぎたといった方が適切かもしれなかった。
近藤と土方に帰京の報告をして間もなく、伊東は京都町奉行の大久保主膳正と会津藩公用方の野村に呼び出され、分離案について正式に話し合い、御陵衛士として正式に新選組から分離することを了承された。
「大役を仰せつかり、この伊東、ありがたき幸せにございます」
伊東は二人に向かって恭しく頭を下げた。
「して、伊東よ」
と野村が伊東を見据える。
「御陵衛士は、先の帝の安らかな眠りをお守りする大事な役目である。即刻西本願寺を出て役目に就け」
「はい。私も九州から戻ったばかりでしてまだ見当がついておりませんが、宿が決まりましたらすぐにでも」
伊東が頭を低くし答える。
「甘えるでないぞ!」
野村が急に声を高くした。
「いやしくも帝の御陵を守り奉らんとせん者が、最初からそのような事でどうするのだ? 五日与える。そのうちに宿を決め、新選組の屯所を引き払え」
驚きにただ瞠目するだけの伊東に、野村は冷たく言い放った。
「どうした、出来ぬと申すか? 近藤ならば即刻この場より去って、宿を求めに奔走するであろうに」
「も、もちろんでございます。すぐにでも宿を探します」
近藤を持ち出されては、伊東も引くことは出来ない。畳に平伏し、野村の言いつけを飲み込んだ。
「うむ」
その返答に満足したように、野村は笑った。
伊東は守護職屋敷を出るとその足で宿を探し回った。
京に常駐するのだから、宿ではなくどこかの寺か、寺の塔頭を借りたい。伊東は見かける寺すべてに声をかけた。
しかしどの寺からも色よい返事は返ってこなかった。
急な話であるし、新選組からの分離者を受け入れるなど、隊内の厳しい法度で多くの隊士が処分されている噂を聞いている京雀たちに出来るはずもなかった。
伊東は失意のままに、西本願寺へ戻っていった。
翌日、伊東は近藤と土方に呼ばれ、薩摩や西方の動きを探るという任務の下分離することを確認され、別れの杯まで交わした。
「あと四日でお別れとは、お名残惜しいですな」
と、ここでも近藤から日にちをしっかりと言い渡され、伊東は困惑した。会津から近藤たちへ情報が行ったに違いなかった。
杯を受けながら、伊東は宿に心当たりがないか近藤に問おうと口を開きかけた。
しかし、
「九州でも遊説して回って成果があったようですからな、寺の主を口説いて宿を調達するぐらい、参謀にはお手のものでしょう」
そう土方に言われ、まさか宿の調達に苦労しているなどとは言い出せなくなってしまった。
(会津藩にも近藤にも、土方君にも手を借りることは出来ない、か…)
分離する最後の頼みで宿を探してもらうという考えは甘かった、と伊東は爪を噛む。
(こうなったら…薩摩に相談するか)
自力でどうにかするには時間がなさすぎる。このままでは自分を慕って分離してくれる十数名の隊士を野宿させることになってしまう。
本来なら宿を自分の名で調達し、堂々と薩摩に分離を宣言したかったが、背に腹は代えられない。伊東は、薩摩に宿を頼ることにした。
「…というわけで、恥ずかしながら宿を探すのをお手伝いいただけないでしょうか」
伊東は夜が明けるととともに薩摩藩邸を訪れ、翻訳の清書作業に当たっている田代に頼んだ。
「何を言っているのだ? 宿のひとつも自力で決められないとは、そんな役立たずが新選組を抜けて薩摩に協力しようなど、片腹痛い」
田代は相変わらずの居丈高な態度で、とりつく島もなく言う。
(田代さん…きついなあ。言ってることはごもっともだけど)
は部屋の隅で翻訳をしながら、横で行われている会話に耳を澄ませた。
ばっと伊東がひれ伏す。
「田代殿のおっしゃるとおりです! この伊東、返す言葉もない。が、宿が決まらねば我ら一党は路頭に迷い、これから為すべき大事も行うことが出来なくなります! どうかほんの数日でも構いませぬゆえ、我らの宿をお探し願いたい!」
あの伊東が人に頭を下げている。新選組では見たことのない姿、聞いたことのない声で。は思わず手を止めた。
伊東は素早くに視線を走らせると顔を上げ、の肩を掴んで自分の側に引き寄せる。
(、君からも頼んでくれ)
(え?)
(田代殿は君が頼めば必ず力を貸してくれる。僕についてきてくれないのなら、一言ぐらい助けてくれたっていいだろう?)
長いまつげを憂えるように瞬かせ、伊東はを見つめた。
「何をこそこそしゃべっているのだ」
田代が懐疑的な目で二人を見る。
「いえ、が僕たち御陵衛士に入りたいとーーー」
「え、あのっ田代さん! 伊東参謀にどうか宿をお探し願えませんでしょうかっ」
伊東の言葉には焦って、思いもよらぬ事を口走ってしまった。
「……少し待っておれ」
少しの間黙った後、田代はやおら立ち上がり部屋を出ていった。
そして戻ってくると、
「藩の小者に探すよう言いつけてきた。今日中に返答できるだろう」
との答えを持ってきた。
「ありがとう存じます」
伊東は薄い唇に笑みを浮かべ、田代に礼を述べる。
にも視線を寄越し、にこりと美しく微笑んだ。
田代が放った小者は、すぐに宿泊先を見つけてきた。
東山の善立寺という寺である。
しかし受け入れまでに一日欲しいとのことだったので、一晩だけ同じく東山の城安寺なる寺に宿泊するよう手配された。
「やはり君は頼りになるよ。ありがとう」
帰る道々、伊東はを誉めそやした。
は伊東のとっさの手腕に、ただただ目を白黒させるだけだった。
の尽力(?)のおかげで伊東たち御陵衛士は無事に宿泊先が決定し、新選組の西本願寺屯所から出て行く運びとなった。
分離する面々も本決まりになり、正式に隊内へ発表となった。
そこで、皆は驚くべき人事を知る。
三番隊組長、斎藤一が御陵衛士に組み入れられたのだった。
伊東一派の離脱は理解できる。だが、伊東の派閥ではない、しかも三番隊の組長を任されている斎藤が、と誰もが言葉を失った。
誰よりも驚き、とまどいを隠せなかったのは、斎藤を兄と慕ってはばからない神谷であった。
それもそのはず、斎藤が組を抜けるのには神谷が関わっているとの噂がまことしやかに流れた。
斎藤は神谷へ思いを告白し、唇を無理矢理奪うという暴挙に出たらしい。だが神谷はその気持ちを受け入れることはなく、要するに“振られた”斎藤が御陵衛士へ走ったとの事だった。
「兄上っ…」
いよいよ袂を分かつ朝。伊東たちに混じって立つ斎藤を、神谷が涙目で見つめる。
唇は洗いすぎてがさがさに荒れ、噂が本当であったことを物語っていた。
今にも飛び出していきそうな神谷の肩に、沖田の手が乗っている。
も神谷の側に立ち、いたたまれない思いに眉を寄せた。
(斎藤さんが、神谷さんに振られたことが原因で隊を抜けるなんて嘘だ)
伊東たちを壊滅させるための、土方や会津藩が仕掛けた罠だ。
わかっているが、それを神谷に漏らすことは出来ない。
「もう泣きやみなさい神谷さん。武士でしょう」
沖田が神谷に懐紙を差し出す。
「う、うう、沖田先生」
懐紙を受け取った神谷は、ますます目に涙をためた。
「私のせい、で、兄上がっ」
「斎藤さんほどの男が色恋だけでこんな大事なことを決めるかどうか考えてごらんなさい。前々から思うところがあったんでしょう、さん」
「えっ」
沖田がじっとを見つめる。斎藤の行動の裏には何かあるのではないかと言いたげな、含みのある目だ。
「さん! 兄上は、さんにとっても大事な従兄弟のはずじゃないですか、どうしてそんな、いつも通りなんですか」
「…う」
神谷の鋭い指摘に、は一瞬目を泳がせる。
まさか、斎藤が離脱する真の目的を知っているとは言えない。
「斎藤さんは…武士だから」
はゆっくりと口を開く。
「だから、己の信じる道を行ったのではないでしょうか」
斎藤は土方の考えの元、会津藩からの命令もあって伊東と行動を共にする。斎藤の信じる道に沿ってそうしたのだ。
この言い方ならば、本当のことを言わず、かと言って嘘にもならないのではないかと、は考えながら神谷の肩に手を置いた。
「わかって、ます。兄上だって、武士なんですからっ、思うところも、あったかも、ですけど…」
「だったらそれでいいでしょう。あなたが気に病むことではありません」
沖田がぴしゃりと言い放つと神谷はぶるっと肩を震わせ、涙を止めようと歯を食いしばった。
「よし」
沖田の手が、柔らかく神谷の頭をなでた。
「では行きます。局長、土方君、他の皆もお元気で」
伊東が頭を下げる。
「参謀も。いや、もう御陵衛士の長でいらっしゃるから、参謀は失礼でしたな」
近藤が頭をかいた。
「近藤さん、俺、寂しいけど向こうでも頑張るよ」
藤堂が前に進み出て、近藤に向かって笑顔を作る。
「平助、困ったらいつでも相談に来い」
近藤はまるで父親のように、藤堂に語りかけた。
「もう俺達は別々なんだ。軽々しく行き来されちゃあ困る」
土方が苦々しく言った。
「土方君、君に毎日会えなくなるのは断腸の思いだけど」
伊東が土方に素早くすり寄る。
土方は無言で伊東を避けた。土方から伊東へは、言うことは何もないらしい。
苦笑しながら伊東はの前に立つ。
「ありがとう。君には世話になったね」
「いえ…」
(君を諦めた訳じゃないと、前にも言ったと思う。今もその気持ちに変わりはないよ。いつでも僕を訪ねてきてくれたまえ)
ふっと伊東はの耳元に口を寄せ、素早く囁いた。
伊東たちはもう一度皆に頭を下げると歩き出した。
その背を見つめる目は、分離を清々しく思う目、名残惜しく思う目、御陵衛士に選ばれなかったことを残念に思う目など、様々だった。
斎藤がほんの一瞬振り返った。
副長を、隊を頼むと言わんばかりにに視線を寄越した。
は小さく頷いた。
沖田と一緒に神谷をなだめ、神谷の涙が止まったのを見届けると、は副長室へ戻った。
斎藤が分離した本当の目的を神谷に告げることが出来たら、きっと神谷は納得するだろう。
言えないもどかしさを抱えたまま、は障子を開いた。
室内にはすでに土方が戻っており、文机に向かっていた。
は音を立てないように、静かに出かける支度をして薩摩藩邸へ向かった。
薩摩藩邸での翻訳も、ようやく終わりとなった。
「この分厚い軍法書を、たった三人でよく切り盛りしたものだ」
主として翻訳を行っていた赤松小三郎が、原書を感慨深い目で見つめる。
「これもがよくよく尽力してくれたおかげよ。感謝するぞ」
「もったいないお言葉です。こちらこそ勉強になりました」
は畳に手をついて、深々と頭を下げた。
翻訳の仕事自体は、にとって非常に意味のあるものとなった。
原書の意味を解き明かして日本語に直す訓練はの力を伸ばすものであったし、この時代における最先端の軍法を学んだことは、土方の手助けになる。無事に終えることが出来て、は心からよかったと思った。
「これが約束の報酬だ。双方改められよ」
田代が赤松との前に袱紗を押し出す。
そっと袱紗を開いてみると、切り餅が四つ、つまり百両が収められていた。
信じられない大金に、は思わず田代を見る。
「西郷様のお心遣いだ。よくよく感謝して受け取るがいい」
と田代は自分が金を出したかのごとくふんぞり返った。
「西郷殿は今、お国元であったかな。よろしく伝えられよ」
赤松は袱紗を胸元に押し込んで頭を下げる。
「よろしくお伝えください」
も赤松に倣い、丁寧にお辞儀をした。
道具の片づけをし、部屋の掃除を終えると、三人は夕餉を囲んだ。
今までの苦労話などをし、なごやかな時を過ごした。
たちは薩摩藩邸を出た。田代が門の外までと赤松を見送る。
「赤松先生には今後も兵法のご指導でお世話になる。頼みます」
「うむ、また明日」
「山口、お主の訳した部分がおかしかったら呼びつけるゆえ、その際はすぐに藩邸に来るように」
田代がに目を向けた。
「はい。あの、近くに来たらお訪ねしてもいいですか?」
会津藩の野村からは、薩摩から足を洗えと言われているが、つながりを完全に断ち切ってしまうのは万が一の時に差し障る気がして、は聞いてみた。
「…いつでも来るがいい」
田代は短く返事をし、藩邸の門内へ戻っていった。
赤松とは途中まで一緒に歩き、分かれ道で立ち止まった。
「お主に渡したい物がある。用意が出来たら連絡いたす」
「は、はい」
翻訳も終わったというのに何をだろうとは首を傾げたが、素直に頷く。
「お主ほどの腕前があれば、また仕事を頼まれることもあるだろう。今後も励めよ」
「本当にお世話になりました。ありがとうございました」
自分一人では決して成し得なかった翻訳だった。赤松の下訳と指導がなければ、どんな誤訳をしたかわからない。
去ってゆく赤松の背が見えなくなるまで、は深々と頭を下げ続けた。
夜空に星が瞬く中を、は屯所へ戻ってきた。
「ただいま戻りました」
「ああ」
副長室では土方が書状を書いていた。
「お茶、お淹れいたしましょうか?」
「いや、いい。お前はさっさと風呂に入れ。俺は先に入った」
「はい」
は布団を敷き、湯殿に向かった。
風呂から上がって部屋に戻ると、土方は横になっていた。
忙しいのだろうか。明日からまた土方の小姓として仕事を手伝わねばならないが、務めきれるだろうかとは漠然とした不安を抱えた。
(いや、こなさなくてはならない)
は自分も横になり、土方の背を眺めながら己を叱咤する。
隊内のこと、伊東のこと、土方は考えて実行しなくてはならないことが幾らでもあるはずだ。少しでも土方の支えになれるよう、足手まといにならぬよう、気を配っていかねばならない。
自分が薩摩藩邸で翻訳の仕事を始めてから土方の態度が冷たいのは胸が痛いけど。
(お休みなさい)
はごそりと土方にを向けると目を閉じた。
その背に、ふと温かいものが抱きついてきた。
どき、との心臓が大きく音を立てる。
「…ご苦労だったな」
土方の低い声が、の耳に注ぎ込まれた。
の目が大きく見開かれた。
「よく薩摩の野郎どもに紛れて無事に仕事をこなしてきたな。お前にしちゃあ上出来だ。二、三日休んだら俺の仕事を手伝え」
土方はを後ろからそっと包み込み、肩の辺りへぽんぽんと手を置いた。
「伊東の動きを探るのも、後は斎藤に任せろ。お前と俺が示し合わせなかったことで、お前は自然な動きをした。奴はお前を信用している。何らかの形でお前を利用しようとするかもしれん。これ以上奴に近づくな」
の体がかたかたと震え出す。
「どうした、寒いのか」
土方がをこちらへ向かせた。
「う…」
は泣いていた。
「おい、どうした」
土方はを腕の中へ閉じこめる。
土方が自分に冷たいのには、きっと理由があると信じていた。
しめし合わせてやることはぼろが出る、そう言ったのは伊東だった。
土方が自分を突き放したことで、は土方の動きを知らずに、自分の考えで伊東と接し、伊東の考えを引き出すことが出来たのだ。
つまり、土方は自分を利用して伊東を泳がせるために、わざと自分を突き放していたのだ。
「嫌われたのかと…」
心の底から安堵して、は思わず本心をこぼしてしまった。
「あ?」
土方の手が止まる。
「あ、いえ、な、何でもないです」
しまったと思い、は赤くなって土方に背を向けようとした。
だが、がっしりとした土方の手がの体を押さえる。
は涙に濡れた頬を捕まれ、上を向かされた。
「馬鹿だな」
土方はそう囁くと、唇を押しつけてきた。
「ん…っ」
こんなこと、してはならない。されてもならない。
どうしてこんなことを自分に。
土方を引き離さなくては。
そう思う反面、土方に指を絡められ、抵抗する力を失っていくのがわかる。
土方が深く口づけてくるのを受け入れている自分に、は混乱した。
「副長、お休みのところ失礼します」
障子の外から声がかけられ、二人ははっとして動きを止めた。
「何だ」
土方が体を起こして障子を薄く開く。
その声はすでにいつもの土方だった。
は着物が乱れていないか確認し、自分も布団から出た。
「今、門前に使いと申す者が来まして。山口さんにこれをと」
門番の隊士が、障子の隙間から紙切れを差し込んできた。
「ご苦労。門に戻れ」
土方は紙切れを受け取ると障子を閉じる。
は行灯に火を入れ、折り畳まれていた紙切れを広げた。
「えっと…“明朝 大坂に参るべし 慶喜” これって…?」
「大樹公のお召しだと?」
二人は目を見合わせた。
20120204