鬼が辻 21
慶応三年三月。
新選組は伊東甲子太郎のいない日々が続いた。
「参謀は誰を選ぶんだろうな」
「まず三木さんは連れて行くだろうな、弟だし。それと、江戸から一緒に連れてきた面々、内海さんとかも選ばれるだろう」
「その辺りの面々は参謀べったりだから当然だな」
「局長寄りの幹部からも選ばれると思うか?」
「そりゃあ何人連れて行くかによるんじゃねえのか? ただの墓守だから、撃剣の師範やってる幹部はまあ選ばれねえだろうしな」
御陵衛士として誰が選ばれ、新選組として誰が残されるのか。平隊士の間では静かに動揺が広がる。
だが。
「しっ」
ざわめきがかき消される。
副長の土方が姿を現したからだ。
伊東の分離はまだ正式に発表されたものではない。伊東が噂を流しているだけだ。こそこそと噂しているのを土方に聞かれたら、流言に惑わされるとは何事かと雷が落ちるに決まっている。
土方は集会所の境内に降りた。
隊士たちが一斉に竹刀を振り回し始める。
そのわざとらしさを鼻で笑いながら、土方は西本願寺門主の私邸へと入っていった。
数日後、夜。
は斎藤と、京都守護職邸に呼び出された。
邸内奥の一室に二人は通される。
室内で公用方筆頭の野村が待っていた。
「新選組は屯所を移転するそうだな。今日土方が申しておったぞ」
二人が座るとすぐに野村が話し始めた。
(土方さんが…)
はぴくりと耳を動かした。
昼間、近藤と土方が守護職邸に呼ばれた。その際に西本願寺の門主と取り決めた移転の内情を報告したとのことである。
場所は現在屯所のある西本願寺の南、不動堂村。
一町四方の土地に、大広間から風呂に至るまで建物のすべてを完備した、巨大な屋敷を建設するのだそうだ。金の出所はもちろん西本願寺である。
「まるで大名屋敷だ。それだけのものをよくぞねだったものよ、土方め」
く、と野村は笑う。
は門主・広如の顔を思い浮かべた。大筒短筒の音に悩まされ、隊士たちの素行に悩まされ、寺を訪ねてくる門徒は激減し、最後には移転の建築費用まで持たされる。踏んだり蹴ったりとはこのことだ。
「しかしお主たちも、今まで場所が寺の敷地内であったから、何かと不便なこともあったであろう。我々も黒谷からこの守護職邸に移った時には、解放されたような心持ちであった」
「あ…」
野村の言葉には思い出す。
会津藩は京へ来てからしばらく、金戒光明寺に起居していた。守護職邸が建てられて、藩主の松平容保以下大部分が町中に移転してきた。
寺から新築の大きな敷地に移動する、それだけを考えれば、会津藩も新選組も似たような経緯をたどっている。
「西本願寺のほうも、お主たちが出て行けば極楽を取り戻したかのような思いであろうがな。さて…」
野村は表情を引き締めた。
は鋭い目つきの野村を見て、ぞくりと腕が粟だった。
「御陵衛士の話、正式に決定した。本日近藤と土方を呼びだしたのはその通達のためであった」
武家伝奏から会津藩に下知があり、それを会津藩から新選組へと伝えたのである。伊東を頭とし、山陵奉行戸田忠至に属して孝明天皇御陵を守るようにとの言葉を、近藤たちは賜ったのであった。
伊東が九州から戻り次第、あまり時を置かず新選組から切り離せ。
時を与えれば伊東についていく隊士が増えてしまう。
野村は近藤と土方にそう言いつけたのだそうだ。
「斎藤」
「は」
「土方から聞いた。御陵衛士への潜入を行うそうだな。怪しい動きがあったらすぐ知らせろ」
「御意」
斎藤がすっと平伏した。
「えっ…!」
は目を見開いた。
御陵衛士に入ったら、二度と新選組には戻れない。分離の約束としてそう定められている。選ばれなかった伊東派の隊士たちが、後から次々と異動しては、組がめちゃくちゃになってしまう。それを阻止するために取り決められたのだ。
つまり斎藤は、二度と新選組に戻れないかもしれないのだ。
斎藤の横顔を見ても、何の感情もうかがえない。
は膝の上の手をぎゅっと握りしめた。
「山口」
「は、はい」
「お主は斎藤と土方、我が藩との間の連絡をつとめよ。従兄弟の立場を利用し、斎藤を訪ねて情報を交換するのだ」
「はい…」
「それと、翻訳も終わりに近づいているようだな。薩摩の動きも顕著になってきたことだし、そろそろお主は薩摩から手を引け」
「かしこまりました」
は深く頭を垂れた。
「お主が知らせてくれた薩摩の藩邸の内情、きっとこれから役に立つ。苦労をかけたな」
「いえ、あの、恐れ入ります」
最初は翻訳の仕事だけでいっぱいで、斎藤が聞きに来てくれるときだけしか薩摩藩邸で見聞きしたことを伝えられなかった。そして最後の最後になってやっと、自分で動いて藩邸の中を少しだけ探ることが出来た。ほめられるようなことは何もしていない。
斎藤が、二度と戻れぬ役目に出る。
自分は、斎藤と土方、会津藩との連絡係を仰せつかった。今まで斎藤がやってくれていた役目だ。そんな大事なことがこなせるのだろうか。
心臓がどきんどきんと音を立てるのを聞きながら、はうなだれた。
三月十一日。
伊東が二ヶ月余の九州遊説から京都西本願寺に戻ってきた。
伊東は旅装も解かぬまま局長室に入り、近藤と土方に帰京の挨拶をした。
伊東は九州で相当の手応えを感じたようで、自信に満ちた口調で話していた。
新選組を分離しようとしていることを敵地に信用させるのははじめかなり難航したが、得意の話術でひとりひとりを根気よく口説いた。
ひとりを口説いたら、次に話をする時に誰それには理解してもらったと利用していく。そうして少しずつ伊東は信用を得ていったのだそうだ。
「いい働きだったな」
土方が伊東をほめそやす。
「えっ、もしやごほうび…!」
と伊東が目を輝かせて土方に飛びつこうとした。
しかし土方は、御陵衛士の人選を決めてさっさと新選組を出て行くよう伊東に告げ、局長室を出て行ってしまった。
局長室には近藤と伊東が取り残された。
「ご苦労でした参謀。こちらからも参謀にお伝えしておかねばならないことがあります」
近藤は御陵衛士の正式な下知を伊東に伝えた。
「そうでしたか、それでさっき土方君が人選を決めるよう言っていたのですな。では局長、さっそく人選を進めるといたします」
伊東はにんまりと笑い、局長室を辞した。
翻訳が早めに終わり、は夕方の早い時間に屯所へ戻ってくることが出来た。
副長室に入ると、土方が出かける支度をしていた。
「お出かけですか?」
「ああ」
言葉少なに土方が答える。
がどこへ、と聞こうとした時、藤堂がやって来た。
「土方さん、俺に用って何ー? あ、、お帰り。今日は早いんだね」
「藤堂さん、ただいま戻りました」
「平助、ちっとつき合え」
土方が藤堂に向かって人差し指と親指で杯の形を作る。
「うん、いいよ。土方さんから誘ったんだからおごりだよね? そうだ、もおいでよ」
藤堂がに手招きをした。
「え、はい」
「お前は駄目だ。ついてくるな」
は腰を浮かせかけたが、土方にぴしゃりと制されてしまった。
「ええー、いいじゃない土方さん、皆で飲んだ方が楽しいでしょ」
「今日はサシだ、いいからついてこい」
土方はを振り返らず、藤堂の背を押して出て行った。
(何か藤堂さんとお話があるのかな)
ひとり残されたは、今日翻訳してきた部分のまとめ書きをする。
藤堂とふたりで飲みに行くなんて珍しい、いや、見たことがない。
それに土方はもう長いこと、よそへ飲みに行っていない。
伊東も戻ってきて張りつめた日々が戻ってきたことだし、気のおけない相手とゆっくり過ごしてきてくれたらとは思った。
(伊東…参謀、か…)
は書き進めながら考える。
伊東はとうとう分離に向けて動き出した。会津藩を通じて正式に通達が出て、堂々とこの新選組を抜けていく。
(いつだっけ、参謀たちが出て行くのって)
手を止め、ふと障子に目を向けた。
すると、その障子がするりと開く。
「やあ、」
伊東が顔を出した。
「伊東参謀」
は、目の前に今思い浮かべていた人物が現れてどきりとする。
「副長なら、お留守ですけど」
「うん、藤堂君と出かけたんだろう? 土方君が僕の藤堂君と出かけたのなら、僕は君と話そうかなと思ってね。この前の数寄屋に今から行かないか? 大丈夫、そんな顔をしなくても何もしないよ。近藤局長に言っていけばいい」
伊東がの手を引き、局長室へと連れて行く。そして近藤の許可を得ると駕籠を呼び、数寄屋のある木津屋へと走らせた。
島原、木津屋。
は伊東が土方と密会を重ねていた数寄屋へと導かれた。
伊東は女将に茶の用意を頼み、部屋の戸を閉めた。
「単刀直入に言う。君に、御陵衛士に来てもらいたいんだ」
伊東はの正面に座り、切り出した。
「私が、御陵衛士に?」
まさかとは目を丸くする。
「君の英吉利語を操る力は、必ず新しい時代に必要となる。新選組は遠からぬ先、幕府とともに倒れるだろう。そうなった時、君の能力を知らない者どもが君を始末してしまったら、僕は悔やんでも悔やみきれない」
伊東はの手を握る。
「君も薩摩藩邸で見ただろう、あの訓練された軍隊を。それに武器も幕府とは桁違いだ。あんなのが束になってかかってきたら、幕府の兵などあっという間に散り散りになってしまう。幕府に勝ち目はないんだ。軍隊の本を翻訳している君にはわかっていることだと思うが」
「…っ」
は返す言葉に詰まった。伊東の言うとおりだからだ。
薩摩の軍隊は、英国歩兵練法などを取り入れて、新しい武器を使ってよく訓練されていると思う。新しい軍の組織に対して意欲的でもある。
それに引きかえ、幕府方は古来からの軍制を守っている。長い間の平和に浸かりきって、かつての強さは失われつつあるし、夷狄の軍法などなくとも、と鼻息だけ荒くしている。
「外国への態度をいつまでも決めかねている幕府では、日本を守ることは出来ない。その幕府を支えようとしている新選組にいては、日本が蝕まれていくのを指をくわえてみているしか出来ない。そう思ったからこそ僕は、新選組と袂を分かつことを決めたんだよ」
伊東の手に力がこもる。
「新しい時代はきっと来る! その時に、君に側にいて欲しいんだ。外国と手を携えるにしても対立するにしても、言葉の壁を越えなければならない。頼む、。僕と一緒に来てくれ!」
は伊東の目に圧倒された。
いつもの優美な雰囲気ではない、真剣に日本の未来を見据える男の目である。
そして、は知っている。いつなのか正確な日付は覚えていなくても、この幕末に、日本が大きく世界へ舵を切る瞬間が待っていることを。
ふる、とは首を横に振った。
「」
伊東が呼びかけるが、はただ否と示すしかない。
どんな時代が訪れることになっても、やはり土方の側を離れたくない。
馬鹿なことを思われても、時代の波に逆らっても、共にありたいのだ。
こそ、と戸の外で音がした。
女将が茶の支度を整えて届けてくれた音だった。
伊東はの手を離して立ち上がり、道具を受け取った。
茶碗に緑色の茶が入れられ、湯も注がれて茶が点てられる。
は伊東の洗練された手つきをぼんやりと眺めていた。
「君が僕の話を受けてくれるなら、この茶を固めの茶にしようと思っていた。君は酒が苦手だろう? けれど、叶わなかった…か」
「ご期待に添えず、申し訳ありません」
酒が苦手なことを覚えていてくれて、わざわざこの数寄屋に誘ってくれたのか。は伊東の心遣いに胸が痛んだ。
「いいんだよ」
伊東は苦笑いをこぼす。
「今回は断られたけど、決して君を諦めたわけじゃない。もし気が変わったらいつでも僕を訪ねてくれ。待っているよ」
伊東の手から、の前に茶碗が置かれた。
黒地に白の釉薬が、まるでだんだらのような起伏を描いて垂らされている。その中に緑濃い茶が静かにたたずんでいる。
は茶碗を手に取った。
静かに茶を口の中に流し込む。
その味は、ただ苦いだけだった。
20120114