久遠の空 ドリーム小説 鬼が辻 20

鬼が辻

update:2011.01.06

鬼が辻 20 

 今日の翻訳が終わり、は持参してきた酒を白い杯にとくとくと注いだ。
 「町中で買い求めてきたので、伏見のお酒より劣るやもしれませんが…」
 伏見は名水が有名で、その伏見には薩摩の藩邸がある。伏見藩邸の人間に頼んで取り寄せればもっとうまい酒が飲めるかもしれない。
 「まったくだ。どうせただの思いつきでこんなものを買ってきたのであろう。一日の終わりにこんな安酒とは」
 田代はひと口飲んで、忌々しそうに言い捨てる。
 「まあまあ田代、こうしてが気を利かせてきたのは初めてだ。翻訳も終わりに近づいてきて、少し余裕が出てきたのであろう。なあ、よ」
 赤松が間に入った。
 「ええ、まあ」
 とは曖昧な口調で返した。

 赤松の言うように、英国歩兵練法の翻訳作業は終盤に近づいていた。
 翻訳が終わってしまえば薩摩とのつながりはなくなってしまう。
 は伊東からも、そして会津藩からも、薩摩の動向について知らせるよう言われている。
 翻訳に手一杯だったのと、今まで気後れしていたせいで、肝心なことはまだ何も探り当ててはいない。は今からでも、ほんのわずかでも何か知ることが出来ればと、やっと重い腰を上げたのだった。

 「酒ばかりではつまらん。つまみ代わりに晩飯を持ってくる」
 と田代が言い、燭台に火を移して立ち上がった。
 「お手伝いします」
 も田代の後に続いた。

 田代は翻訳を行っている小さな塔頭を出て、大きな建物に入っていく。
 「俺一人でも間に合う。ついてくるな」
 すたすたと足を早めるが、も負けじと同じ早さで進む。普段土方の早足についていっているには、特に苦になることもない速度だ。
 長く続く廊下を歩きながら、は辺りを見回した。すでに日がほとんど落ちている時間では、建物の中はよく見えない。しかし台所までがやたらと遠く、藩邸の敷地は広そうだった。

 田代とは台所で膳を仕立ててもらった。
 田代が二つ、がひとつの箱膳と燭台を持って部屋へと戻る。
 途中で、遠くの部屋からどっと人の声が沸いてきた。
 「あれは…?」
 は思わず田代に聞いた。
 「西郷様だ。今、西郷様は多くの藩士たちと国事について論じられている」
 田代がむっつりとした顔で答える。
 「人気なんですね」
 「当たり前だ。西郷様は人を引きつけずにおられぬ、そういうお方だ」
 「田代さんのことも、ですか?」
 「からかうでないわ!」
 ふふっと笑うを、田代は箱膳を持ったまま肘でつついた。

 「しかし、間もなくこの藩邸も、あのような賑やかさをしばし失うだろう。西郷様が国元へ帰るんでな」
 さも残念そうに、田代が深いため息をつく。
 「西郷様が、お国へ…」
 また彼方の部屋から笑い声が聞こえてくる。
 これだけの声を集められる西郷が、政治の中心である京を離れて薩摩へ戻る。そこにどんな意味があるのだろう。

 はもう少し話を聞けないかと口を開こうとしたが、田代のほうから逆に質問された。
 「貴様、なぜ急に近づいてきた? つい昨日まではよそよそしいことこの上なかったではないか。何を考えている?」
 は内心ぎくりとした。
 深く息を吸い、動揺を悟られないよう拳の中に収める。
 「…伊東参謀に叱られました。私は人付き合いが悪いと。なので改めようと思ったのですが…いけませんか?」
 燭台を少し高めに持ち上げ、は田代を見上げた。
 土方ほどではないが、田代も上背がある。
 「い、いや、悪いことではないが、き、そう、気持ち悪いではないか」
 田代がどもって顔を背けた。
 はうまくごまかせたことにほっとした。

 「伊東殿と言えば、九州を遊説するというのは真なのか」
 田代が話題を変える。
 「ええ、そのようで」
 「この前もかなり夜遅くに挨拶に来ていたぞ。紹介状を書いてほしいとか何とか言ってたらしいがな。薩摩まで足を延ばすつもりなのかもしれん。伊東など、本当に我らに汲みするか怪しいやつらだ、藩邸の上層部は断ったらしい」
 「へえ…」
 人の心を掴む能力は隊内でも随一の伊東ですら、薩摩にはまだ相手にされていない。意外だなとは思った。

 の前に、見慣れた木の階段が姿を現す。
 とんとんとそれを上がり、と田代は赤松の待つ部屋へと戻っていった。






 伊東の分離作戦は、内からも外からも着々と進んでいた。
 会津藩からは正式に、新選組の中から孝明天皇の陵墓を守る御陵衛士を組織するよう命令が下った。
 もちろんこれは先だって斎藤とが野村と会談した際に決められていたことである。
 近藤はその小隊の組織を伊東に任せた。伊東は渡りに船と言わんばかりに御陵衛士の人選を進めた。

 そして人選がまだ途中の一月十八日、伊東は隊士の新井忠雄を連れて、九州遊説に旅立った。
 平隊士たちには特命と含めてある。が、幹部には“薩摩へ間諜に入るための下準備”としている。伊東が新選組と袂を分かちたいと思っていると触れ回るのだ。
 しかしそれは本当に新選組から分派するための根回しである。伊東が触れ回ってくる内容は、すべて真実なのだ。

 「参謀、無事のお戻りを」
 「行ってらっしゃいませ」
 伊東を慕う者たちが、旅姿の伊東を見送る。
 隊内にも分離の話が広まりつつあり、誰が伊東に選ばれるのかが隊士たちの間では密やかに論議されていた。
 そんな中で伊東が隊を離れる。ますます伊東の行動は、隊士の目を引きつけずにいられなかった。

 「ありがとう、必ず特命を成し遂げて戻ってくるよ」
 伊東は白い息を吐きながらひとりひとりの顔を見回す。
 「お気をつけて」
 伊東と目があったは深々と頭を下げた。
 「、君を連れていきたいのは山々なんだが…あちらのほうを頼むよ」
 に近づくと、伊東は声を低めて囁く。
 あちらとは薩摩藩邸での探索のことだ。田代に取り入り、藩邸内の動きを探って薩摩の動向を探る、それを伊東は念押ししている。
 「かしこまりましてございます」
 はもう一度頭を垂れた。

 「ところで、土方君はいったいどうしたんだい? ここ数日、とても機嫌がいいようだね」
 ちらりと伊東は土方を見る。
 「さあ…私も薩摩に対してどう出たらよいのか悩んでおりますので、土方さんのことまでは」
 はとぼけて首を傾げた。
 「君が“悩んでいる”と口に出すなんて珍しい」
 まるで見透かしているかのように、伊東は笑う。

 「じゃあ後は頼んだよ、
 伊東はの頭をそっと撫でると、西本願寺の屋根を見上げて何かぶつぶつとつぶやいた。
 そして土方に蹴り飛ばされ、やっと西本願寺の門を出て行った。


 波に乗っている。誰もが伊東を見てそう感じていた。神谷に至っては、伊東の肌がつるつるなのでいい恋でもしているのかと勘ぐるぐらいである。
 確かに今の伊東は自信に満ちあふれ、行動も素早く力強かった。思い描いたことが次々と形になるのは当人にとっても愉快であっただろう。
 だが、うまい話には必ず落とし穴がある。
 伊東の思惑が会津藩の上層部にまで見抜かれていることを、伊東はまだ知らない。
 朝焼けの中を進む伊東の背中を、斎藤が、そしてが、平坦な目で見つめていた。



 伊東の九州遊説はひと月以上に及び、筑前や長崎を回る長旅となった。
 その間、土方は今までの鬱憤を晴らすかのように、精力的に隊内を取り仕切った。
 特に銃砲の訓練はこれまでとは比較にならないほど派手に行い、西本願寺の門主である広如は恐ろしがって、僧としての勤めもままならない。
 壬生寺へ訓練場所を移すという話も、隊士が増えてきたので壬生寺だけでは場所が足りないということになった。土方は集会所の境内での訓練を、いつの間にか再開してしまったのである。

 「土方さん」
 沖田が笑いながら副長室に入ってきた。
 「何だ。用事は手短に言え」
 ドン、パンと、大筒短筒の音が交互に聞こえ、西本願寺を訪れている参詣客たちが震え上がる声が聞こえる。
 それを聞きながら文机に向かう土方は、妙に楽しそうであった。
 「あれ、それ何ですか?」
 土方が読みふけっているものを、沖田がのぞき込む。
 「あいつが薩摩藩邸で翻訳している兵法書の写しだ。あいつ曰く、簡略版だそうだがな」
 そう言う土方の手の中にあるのは、英国歩兵練法の写しであった。が日々薩摩藩邸で翻訳にいそしんでいるものを、屯所に戻ってきてから休むまで、起きてから薩摩藩邸へ向かうまでの寸暇を惜しんで少しずつまとめている成果である。
 本の内容を一字一句を覚えて帰ってくるわけではないし、赤松と分担しているのでが担当していない箇所もある。なので、簡略版と言わざるを得ないものだ。

 「最新の銃砲を使った訓練方法が書いてある。こりゃあ面白え」
 くっと土方の唇が上がる。
 「へーえ、私にはよくわからないですけど」
 元より銃砲に興味がなく、剣で敵と対峙することこそをよしとする沖田には、土方の笑みが理解できるはずもない。
 「お前も食わず嫌いしてねえで、ちゃんと銃砲の訓練に参加しろ。組長だろうが」
 「嫌です」
 「この野郎」
 平行線の意見に、土方も沖田も肩をすくめた。

 「あ、この野郎と言えば」
 ぽん、と沖田が手を打つ。
 「何だ」
 「神谷さんが、副長は最近、さんに冷たすぎるって騒いでましたよ」
 「…」
 土方は唇を引き結んだ。
 「さんたちが居続けをした時も、“きっと理由があるに違いないのに謹慎なんてさせて”って。伊東参謀をお見送りした時も、さんと一言も口をきいてなかったでしょう。それを神谷さんがね、すごーく怒ってます」
 「余計な世話だ。子犬は飼い主がしつけておけ。何で“この野郎”で神谷が俺の悪口言ってるのを思い出すんだ」
 「すみませんね。でも、こんな大事な兵法書の内容を盗ませるようなまねをさせるほど重宝しておいて、さんを寂しそうにさせているのは、私もちょっと気になってて」
 沖田の手がすっと伸び、写しの本を取り上げて畳む。
 そしてじっと、沖田の丸い目が土方を見つめた。

 土方の脳裏に、己の小姓の背中が浮かび上がる。
 その細い肩が振り返ろうとする幻影を、土方は振り払った。

 「それがわからねえようなら、俺の小姓でいる必要はねえ」
 土方が低くつぶやいた。

 「もう、土方さんは厳しいんだから」
 沖田がふっと眉の間を広げた。


 「ところで総司、お前何の用で来やがった」
 「ああ、忘れるところでした」
 「ほとんど忘れてただろ、何だ」
 「お西さんのご住職が土方さんを呼んでます。外で小坊主さんが待ってますよ」

 それを聞いた土方の目がきらりと光った。
 「とうとうおいでなすったか」
 すっくと立ち上がり、土方は黒の紋付きをさっと羽織って境内へ出た。


 集会所前の境内では、竹矢来のこちら側で隊士たちが訓練にいそしんでいた。
 土方は隊士たちの間を、見回るように歩いていく。
 その後ろを広如の小坊主が、時折悲鳴を上げながらついていった。


 広如の私邸に入ると、土方はすぐに広如の私室へ案内された。
 広如は重い光沢を放つ袈裟を身につけてはいたものの、今にも伏してしまいそうな弱々しさで脇息にもたれかかっていた。
 「ひ、ひ、土方殿。よく参られた」
 広如の声はかすれており、それだけを言うのがやっとのようだ。
 「門主様におかれましては、ご機嫌うるわしゅう。この土方にご用と聞き、馳せ参じました」
 恭しく土方は頭を下げる。
 「う、うむ」
 土方が思ったより低い態度に出て、広如は落ち着きをやや取り戻した。

 小坊主に支えられて広如は続ける。
 「この寺から南のほうに、不動堂村という場所がありましてな。そこに大きな空き地がありますゆえ、そちらへお移りになってはいかがですかな」
 「ほう」
 土方の、鋭い眉がぴくりと動いた。
 「隊士もだいぶ増えられたようですし、この寺では手狭かと」
 「左様ですなあ」
 ん〜、と土方は顎に手を当てて考え込む振りをする。
 「せっかくのお申し出、まことに感謝いたします。我々もそろそろ手狭だとは思っていたのですが、ご公儀のために粉骨砕身しておりまして、あいにくすぐに移れるほどの金銭的な余裕はございません」
 嫌らしいほどの芝居がかった様子で土方は広如を見た。

 「も、もしお移りなる気があるのでしたら、こちらで新築の費用も移転の費用も、すべて出させていただきます!」
 広如は小坊主の腕を振り払い、土方の前にひれ伏した。
 歓迎されてはいないと承知していたが、そこまでして新選組に出て行ってもらいたいのかと、土方は内心笑いをこらえるのに必死だった。

 「考えておきましょう。そちらも、土地の広さや建物の図面など、具体的な案を出しておいてください。またおうかがいします」
 土方は袴の縞も美しく立ち上がり、広如の部屋を出ていった。





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